第四節 17話 修行の終了と学校の変化
するとあっさり、知覚に成功した。あたしは今、眠っていると。
眠っているのに浮いている。意識がある。
これだ。えっと、枝。枝。妖の枝。
必死で目を開こうとしたら、膝が目のように開く感じがした。違う。そこじゃない。
次は体内に目が開いた。丁度右の脇腹か。そこでもない。もっと上。頭。顔の正面。
両目を開くと、急に視界が開けた。見慣れた小屋と丘からの眺め。那美と烏さんが目の前にいる。だが二人はあたしを見ていない。横になったあたしを見つめている。
「やった!」おもわず声が出たが、二人は何も反応しない。聞こえていないのかもあたし今、魂だし。
自分の体から立ち上っている白いもの。これは間違いなく、あたしの魂だ。
食用のゼンマイや、おたまじゃくしに似た形をしている。大きさは一メートルくらいかな。その魂から、あたしの体が斜めに生えている。少し開いたハサミのような体勢だ。ずっと体が傾いているんだけど、重力は全く感じない。
あたしの意識は今は枝にあり、枝はあたしの体を模っている。腰から上あたりの姿だから、どうやら枝と魂の大きさは同じになるみたい。
試しに魂に意識を移してみたら、あっさり成功した。だが、枝と比べて明らかにエネルギーが無い。枝がコンクリートなら、魂は粘土みたいな感じ。
枝のように、魂もあたしの体を模ることができるかなと試したら、これも成功した。成功したが、きもい! あたしの首のあたりから、あたしの首が生えていて、しかも枝から見る視線を共有してしまっている。つまりは視神経が四つあり、あたしがあたしを見つめているのが分かる。鏡のようだが鏡じゃない。ブラ紐がねじれているような微妙すぎる不快な感じ。
枝の位置を変えることができないかなと必死で頑張ったが、移動させることはできなかった。もどかしい。思考錯誤を繰り返したら、魂が模ったあたしの頭の位置は変えられないが、枝は自在に変えられる事に気が付いた。目の前のあたしの顔をのっぺらぼうにすると、視界が二つだけになった。
妖の枝って思ってた以上に万能だね。
四苦八苦していた状態から落ち着いて立ち上がると、首から上が、突然乳白色に変化した。
何事? と一瞬焦ったが、すぐにその空間がとても気持ちの良い世界であることに気付いた。疲れが取れるというか、精神がすごく落ち着く。
これが、アルベド。末那識界、天国とも呼ばれる夢の世界。
知識を持たずに入り込むと混乱するだろうが、知っている上で入ると全く怖くない。
たしかに夢を見る度に訪れているというだけのことはある。妙に安心する世界だ。 一応ノルマは達成したんだけど、もう少しだけ探りを入れても良いだろう。
あたしは三度ここから上に落ちている。
棕櫚の木の結界とやらもあることだし。
那美の話では、枝で触れなければ転生しないはず。ええと……。
「ミコが髪を切らずに長いままの世界」
すぐ目の前に、学校で勉強している髪を下ろしたミコの姿が現れた。
え? これ時間軸は現在の姿?
目の前に手繰り寄せた夢、あたしがたった今作った平行世界の中にいるミコは、美しい髪を胸の前に垂らしていた。
これは面白い。試しに別の世界も願ってみよう。
「あたしが地球で一番の大金持ちになる世界」
目の前にある髪の長いミコの世界が薄れて見えなくなったが、大金持ちのあたしの世界は目の前に現れない。しかし出現はした。それだけは確信できた。一人で体育館にいると、誰かが入って来たかのような空気の変化。軽い波動を感じるのだが、とてつもなく遠い。転生どころか覗くことすら叶わない。
そのまま何個か夢を手繰り寄せるうちに、法則性が分かってきた。
なるほど。望みが大きいほど遠すぎて見ることができないが、小さく単純な望みほど近くではっきり見ることができる。
ニグレドに目を向けると、トウの開いてる周囲は見えるが、そこから離れるとアルベド特有の白いもやがかかり見えなくなるのが分かった。白いガスの充満したアドバルーンの中に頭を入れてるような感じだ。
その時、下にあるあたしの体の上を木の葉が舞い、その動きが二重に見えた。幻覚かと思ったが、違う。木の葉の落ち方が微妙に遅いだけだ。
そういえば、アルベドでは時間の流れが遅いと聞いていた。魂を夢の世界にわずかでも入れてると、ニグレドまでゆっくり認識できるんだ。知らなかった。
那美と烏さんを見ると、二人はあたしの体を凝視したまま瞬きひとつしない。ちょっと様子がおかしくて気になる。
うん。まあ、とりあえず体に戻るかな。
成功の報告をしよう。
目を開くと、魂が体に戻っていることを確信した。ニグレドにいる。体が重い。
体を起こし、目の前の那美に「上を認識できました」と伝えると、彼女は涙をつうと流した。
「え? 那美さん?」
「ああ。見事にトウを開けてくれたな」
「あははは、分かりました?」
「清涼な冷気が流れ、アルカの体に薄い光が降り注いだ。ご先祖様のおっしゃっていたことは、全て真実だったのだな」那美はハンカチを取り出して自身の目にあてた。
……なるほど。
那美はずっと不安だったんだ。自身の信じている教義が本物と信じられずに。
中学にもろくに通わず、斐氏教を守るために今まで生きてきたっていうのなら、胸が詰まるものもあるだろう。
自信を持ててなかったんだね。それをあたしが証明した。だから感極まって涙が溢れたんだ。
「別の平行世界は認識できたのか?」
「はい」あたしは頷いた。
「ならば良い。今後は枝で別の世界に触れなければ、転生することは無い。これで修行は終了とする。今日と明日で体力を回復させて、今後のことについては後でゆっくり考えるとしよう。烏さん、とりあえず食事の用意を」
「やっっったっ!」あたしは足を放りだして背伸びをした。那美と烏さんがふふふと笑い、烏さんは足早にその場を去った。
「よかった。もう別の世界に落ちなくて済むんだ」
「ああ。命の危機も去った。無事に覚醒が済み、本当に良かった」
「命の危機?」
「うむ。アルカは白い蛇に食べられる夢を見たのだよな。その時に枝を使ったら、本当に蛇に食べられる世界に落ちていた。アルカの精神を澱ませないために黙ってたが」
え?
「いや、さすがにそんなに大きな蛇が街中に出るとかは」
「近所で違法に巨大な蛇を飼育している者がいたという世界にでも落ちたのだろう。欲望を叶える世界に落ちても憧罷で不幸が起こるが、全く望まない世界に落ちても予想できない不幸が起こるかもしれない。森崎さんの件で学んだはずだ。今いる世界とは違う歴史を辿った世界ならいくらでも夢に現れる。今後も気を付けなさい」
あたしは真顔になって頷いた。自分がそこまで危ない状況だったとは。
「そう、そういえば、アルカに一つ尋ねたいことがあったのを忘れてた」
「なんですか?」あたしはその場に正座した。
「なぜ中国の国旗をパンダにする夢を見たのだ?」
「……」あたしは答えられなかった。
ついなんとなくです、なんて言えない!
翌日の早朝に寮へと戻った。今後は世界の改変も起こらず、幻覚に悩むことも無い。烏さんの作る食事がおいしかったので、体力もあっという間に快復した。「念のため、気持ちが落ち込んだ時だけ睡眠薬を飲んで眠るようにしなさい」と余った薬を受け取ったが、必要は無いと思う。心も体も調子はとても良い。
朝、およそ一週間ぶりに教室へ行くと、何か微妙な空気の違いを感じた。女子が多くて、やたらギラギラしてる。ファンデーションの匂いが少し強い?
「おはようアルカちゃん! 体もう大丈夫?」ミコが真っ先にあたしに気付き、近寄ってきた。
「うん。心配かけて申し訳ない」たしか、学校では体調を崩して実家に戻っていたことになってるはず。斐氏神社に泊まり込んでいたことは秘密だ。「もう大丈夫。元気元気」
あたしの声と笑顔を目にしたミコは安心したようだ。つられて笑顔になった。
「広瀬さん、大丈夫?」「広瀬、もう体は良いのか?」「勉強範囲のノート貸そうか?」クラスの男女が気を使って声をかけてくる。かなり心配かけちゃったみたいだね。
「うん。大丈夫。ありがとね。もう体もすっかり治ったから」
そういえば子供の頃、風邪でしばらく休んだ直後の登校ってこんな感じになったっけ。
たわいもない冗談をミコと交わしながら机にカバンを置き、椅子に座った。「ところでレンは? もう学校通い始めてるよね」
ミコの顔がひきつり、周りの生徒も会話を止めた。
あれ?
「広瀬、おまえ知らないのか?」隣の席の男子が言った。
「アルカちゃん、家に戻る時、スマホ持って行かなかったの?」
ミコの顔が気の毒そうに歪む。スマホ?
「聞いてないのね」「まあ、仕方ないか……」周りの生徒もミコに同調している。
「え、ちょっと待って。レンどうしたの? 何かあったの?」
「森崎なら、アメリカに留学したよ」
「うっそ」
留学って、そんな突然……。
「お父さんが亡くなって、お母さんと一緒にアメリカにいる叔父さんの家で住むことにしたんだって」
叔父さんの話は何度も聞いた事があるし、留学の話も口にしていた。だが、高校を卒業してからの予定だったはずだ。計画を一年半前倒ししたことになる。
「四日くらい前に突然伝えられて、クラスの友達も集まって送別会をやったんだけどね。アルカちゃんも呼びたかったんだけど、レンちゃんが『無理をさせたくはない。電話で済ませるよ』って言ってたから、知ってると思ってたのに」
ミコの言葉を聞いて、あたしの心もやるせなくなった。
「メールくらい受け取ってんじゃねえの。後で確認してみたらどうだ?」
「うん」
その時、教室のドアが開き、全体の空気がさっと変わった気がした。女子が品を作りながら席へと戻る。なんだ?
ドアを開けて入ってきたのは、金髪碧眼のイケメンスーツ男。
この人どこかで見たことある。と、すぐに思い出した。森崎議員の告別式の時に見かけた男だ。たしか大江さん母娘のすぐ近くにいた。
女子の雰囲気は明らかに浮かれている。朝から感じていたギラついた感覚は、彼が原因だろうか。男子は少し不満気だ。
ていうか、あの人誰? 何か教師っぽく教科書とか持ってるけど。君爺は?
その時、イケメンの碧眼があたしを射抜いた。うわあ。見れば見るほどイケてる。ハリウッドスターみたいだ。
「広瀬亜瑠香さんですね。初めまして。私の名前はクラフト・マリウスです」
「はあ……」流暢な日本語だ。発音も美しい。なによりイケボだ。
「その様子だと聞いていないみたいだね。君島先生は先日、急に退職が決まり、担任から外れました。このクラスの担任と二年の英語の授業は、僕が引き継ぎます。今後ともよろしく」
爽やかで甘い笑顔があたしに向けられた。はっと息を飲む女子の呼吸音と、若干の嫉妬が混じった視線をあたしに向ける女子。反応は様々だ。
君爺が退職……。新年度が始まって二ヶ月ちょっとしか経ってないのに。定年間際とはいえ、あまりにも突然すぎる。
あたしはミコに目を向けた。すると、ミコもまたキラキラした目でクラフト・マリウスを見つめている。完全に乙女の目だ。
おお、ミコよ、おまえもか。
レンが留学していた事は大ショックだが、君爺が担任を辞めていた事も中々のショックだ。まだ三ヶ月も経ってなかったが、あのまったりした居眠りができる授業と高速のホームルームが無くなったのは忍びない。
あたしが妖の枝のために一週間ほど学校を休んだ間に、あたしの気に入っていた二人が相次いで学校を去った。
なんとなく、トータルでは事態がちっとも改善していないような気がした。