第四節 15話 斐氏神社宗師 二宮那美
那美は居住まいを正し、肘掛から体を離した。「広瀬さんは、斐氏教のことをどう解釈している?」
「ええと、聞いた話では、二宮さんの一族が神の末裔で、あ、あと占い、じゃなくて予知と予言をやっているとか」
那美はふっと笑った。「まあ、それで十分か。斐氏教とは、代々の教祖が信徒を無事に天国へと旅立たせる、また熱心な信者や守護する土地に益をもたらすために有る、というのが、一般信徒の認識だ。しかし、その柱となる部分はごく一部の信者以外は知る事を許してない。今から話すことは、丸山先生は当然、森崎先生ですら知らされてなかった事だ」
レンの父親すら知らない……
「斐氏教とは表面上、過去にそのような名を持ったご先祖様の時に開宗した宗教、ということになってるが、実は全く違う。あやるしの『斐』とは、妖怪の妖、怪異の怪といった類のもの。あやるしの『氏』とは、シ。枝を示している」
「枝?」
「ああ。あやかしの枝、妖怪の枝。私の家系にはそれを持つ者が時々生まれる事から、当て字をして斐氏となった。斐氏教とはそういう意味だ」
妖の枝。怪物の枝。ぴんとこない。
「ではその枝とはどういった物なのかについて説明しよう。そのためには、まず私とあなたの死や輪廻転生の法則認識を同一化しなければならない。難しい話になるが、理解してほしい」
死や転生? よくわからないけど、あたしはとりあえず頷いた。
「まず、天国や神という言葉の認識だ。斐氏教では、全ての人間が神と呼べる存在であり、現世も死後も、全ては一つの場所を循環するという法則を当てはめている。国や地域、宗派によって、その場所の呼び名は様々だ。天国。あの世。神の国。常世の国。極楽浄土。エデン。アヴァロン。ユートピア。それらの呼び名はどうでもいい。なぜなら、全ての生き物は頻繁にその場所を訪れているから。私もあなたも。世界中全ての生命が」
「頻繁に、訪れる?」
「睡眠のことだ。誰もが眠ると、一時的に死んでいる状態となる。そして魂だけが天国で休息を取り、起きると肉体に戻る。それが斐氏の見解だ」
すごいこと言ってるな。
全ての生き物が、毎日死んだり生き返ったりしていると言いたいのだろうか。
「これからその場所を『末那識界』と呼ぶ。そして今いるここ。現世のことを『前五識界』と言い換える。五感の世界だ」那美は指で畳の床をトントンと叩いた。「全ての人間は当然、犬や猫、虫の一匹に至るまで、脳を持つ存在は魂が真の姿である。魂が記憶を持ち、魂に従い行動する。しかし、ここ前五識界では魂の姿だけで存在することができない。硫酸の海に体を浸けているようなもので、末那識界に戻らなければ、すぐに澱みとなり地に沈んでしまう。澱みとは心理学用語で超自我を指す。前五識界で自我が活動することにより溜め込んだ超自我を、自我の薄まる睡眠時に末那識界に捨てるのだ。超自我とはそうだな、魂の出す垢とでも考えれば良い。肉体の世界である前五識界では、魂は肉体の目を通して物を見るので、他の魂や澱みを認識できない。同じように、霊的な場所である末那識界でも肉体は存在することができない。そもそも肉体で末那識界を知覚するのは睡眠を通じて以外不可能なのだ。例外も多数あるが」
「例外?」
「薬物によって強制的に視認することが可能だ。また臨死体験中や死の直前は、肉体から抜けかけている魂の一部が末那識界に入り込む。そういった特例時だけは、魂の体験を前五識界で認識することも可能となる。末那識界は前五識界と違い、時間の流れがとても遅いので、一生を追体験することすらある。また、一流の武術の達人などは、強靭な精神活動により魂が肉体から抜けて、一部末那識界に入りこむ事もある。そのような半覚醒時は、肉体が末那識界にいるかのように、前五識界での時間の流れを遅く感じ取ることができたりもする。他には肉体が死滅した瞬間、澄んだ魂を持つ者が末那識界に還る時、前五識界との境界に穴が開き、肉眼で視認することができる場合もある。天使の階段。天使の梯子。薄明光線、宮沢賢治は『光のパイプオルガン』とも例えた。この境界に開く穴のことを、斐氏では『トウ』と呼び示す。この言葉をよく覚えてくれ」
「トウ」色々な意味がある。陶酔のトウ。灯りのトウ。建物の塔。燈籠のトウ。
「洞穴のトウだ」
あたしの悩む顔を見て、那美が先に答えを言った。
「末那識界を認知する斐氏の者から見て、前五識界へと落ちる洞穴を意味するトウ。下から見上げる物として考えないようにしなさい。上から覗いて気付くべき穴なのだよ」
斐氏とは上、つまり夢の世界である末那識界から、前五識界である現世を覗く。
少しずつ、あたしの身に起きた出来事が分かってきた気がする。
「神である全ての生命体が生まれたての頃は、肉体と精神しか無い。前五識界に生を受けてから魂の器として耐えうる大きさに肉体が成長するまでは、赤子は両親から受け継いだ精神の本能に従い行動する。やがて肉体が成長すると、末那識界から魂が降る。差異はあるが、最も古く幼い時の記憶。その前後が魂の宿った時にあたる。その瞬間から全ての生命は魂への記憶が可能となり知性を持つようになる。前五識界において魂が肉体の主導権を握ってしまっては、すぐに死んでしまう。なぜなら魂には欲が無いため、命を惜しまず行動してしまうからだ。戦死。過労死。殉死。自殺。多くは若くして身を亡ぼす。それらを防止するために現世に備えつけられたのが、肉体の保護機関。すなわち精神である。精神とは欲望を示す。食べたい。眠りたい。愛し合いたい。生きたい。動物的本能により、魂の暴走を抑止してくれる。更に精神の強弱や脳の優劣により人間にも差異が生まれる。それが個性だ。身体機能にも左右されて、前五識界には無限の個性と可能性が育つ。脳が記憶を持つなんていうのは誤りだ。正確には、魂が持つ記憶を前五識界において引き出す器官である脳の優劣が、記憶や知識の差となって表れているだけのことである」
長い上に難しい。あたしにはよくわからない。
だが、なんとなくファンタジーなこと言ってるのはわかる。
皆が一つの魂であり、前五識界における肉体が差を作る。
なんか変な勧誘を受けてる気になってきた。
正直ついていけないけど、あたしの身に起きた出来事と繋がっている気がしないでもない。あたしは話を聞き解こうと集中した。
「ここからが核心だが、前五識界において疲労した生命体は、魂を守るため、一時的に精神に全ての主導権を渡して、魂だけが末那識界に戻り休息する。それが睡眠だ。睡眠中の生命体は、魂の宿っていない赤ん坊と同じ無防備状態になる。その頃、末那識界にある魂は、前五識界で抱えた澱みに混じったある物を捨てている」
「ある物?」
「願望だ。魂は前五識界において受けるストレスにより、様々な願望を持つようになる。末那識界では願望が捨てられると同時に、願望の影響を受けた世界、夢という前五識界が具現化して、無限に作られ続けているのだよ。一人の人が生涯に産みだす願望の数、前五識界は、最大十億。現在の地球人口七十億とかけて七百京。実際には多くの人の夢は重なっている場合が多いので、実数ははるかに少ないのだが、それでも相当数の平行世界が末那識界には存在して、毎日のように新世界が作られ続けている。それが世界の法則であり真理なのだよ」
「……」那美の言ってる事がよくわからない。あたしは口を開けて固まった。
人間を鶏に例えると、一生で卵を十億個産むって感じかな?
全然違うか。
「斐氏の枝を持つ者は、第一に末那識界で精神を活動させられるようになる。第二に、平行世界の一部を手繰り寄せて視認可能となり、枝を使えば望んだ世界に転生できるようになる」
転生。ようやくあたしに関わるっぽい単語が。「あの、つまりは、あたしは何度か転生したってことですか?」
那美は頷いた。
「転生する前の世界にいたあたしは?」
「全ての生命体にとって、前五識界の肉体は仮宿のようなもの。一度は宿った魂が妖の枝と共に抜けたのなら、後は死ぬだけのはずだ。だから転移ではなく転生と言ったのだ」
「……」
「深刻に悩む必要は無い。平行世界十億のうちの数人だ」
そういわれても、気分の良い話じゃない。
何かマイナス効果があるんじゃ……。
「美子には幼いころから枝を制御する修行をさせてきた。ところがせっかく能力を持ち生まれてきたのに使いこなせなかった。夢との親和性が低く、夢を覚えることが苦手で、薬に頼り抑えつけるのが精いっぱいだった。対して君は夢との親和性が非常に高いようだな。夢の中の出来事をしっかりと覚えておけることは、それだけで素晴らしい才能なのだよ」
「はあ。ありがとうございます」
これ褒められてるんだよね?
「美子があなたの部屋に泊まった時は、一日くらい大丈夫とでも考えたのだろう。睡眠薬を飲まずに眠った。ところが不運にも美子は夢を見た。枝を持っているのに使いこなせない美子はこの世界に落ちてしまった。美子がどんな夢を見たのかは、親だからよく解る。美子は常々、自身が持つ妖の枝を疎ましく思っていた。『枝を無くして、妖の枝の知識を忘れる世界』で間違いない。ところが、美子の捨てた枝は『憧罷』により、体を重ねていた君に移ってしまった。それが事の顛末だ」
「逃避?」
「逃げて避難する逃避ではないぞ。憧罷の憧とは、あくがるという古語を意味する。『魂が抜ける』という意味だな。同じように憧罷の罷は、まかるという古語だ。罷るとは不思議な言葉で『去る』『死ぬ』といった意味だけではなく、対となる『参上する』『到着する』という意味も含む。つまりは、憧罷とは枝を使って別世界に転生することにより起きる、予期しえない出来事全般を意味する。それは大抵が不利益となり降りかかる」
あたしはとりあえず、神妙な顔をして頷いた。
古文の成績が赤点寸前のあたしにとって、那美の言ってることはちんぷんかんぷんでした。
だからといって、この場の空気に逆らう事を口にするほど、あたしも馬鹿ではない。
「まあ厳密に覚える必要は無い。事象として知っておいてくれるなら、逃避でもかまわない。意味は似ている。もっと大雑把に、運命や因果と言い換えても差支えないだろう。枝を持つ者が欲望を叶える転生をすると、その欲望と等価の不幸が周りに降りかかる。あなたは初めての転生の時に、美子がテストでトップになる世界を望んだ。その欲望が叶うためには、森崎さんのお母さんが病気にならなくてはならなかった。付け加えるなら、欲望の無い無意味な転生ならば、憧罷は起こらない。転生直後に特有の転生酔いが起こるだけだ」
転生酔い。例の目がおかしくなるアレや幻聴のことか。
ミコのテストは確かに夢で望んだが、国旗とレンの件は全く望んでなかった。だから憧罷とやらは起きていないのだろう。
「夢は自分の精神の影響も受ける。枝がある者は、精神活動を末那識界で行うことができる。それはつまり、どんな欲望を叶えることもできるし、実生活で疲弊していたら、それが末那識界に悪影響を及ぼすことにも繋がる。森崎さんの苦しむ悪夢を見たのは、あなたの願望ではなく、弱った精神が産んだごく普通の人間が見る悪夢だった。ここまで言ったら、これからあなたがやらなければならない事が何なのか解るな?」那美は話すのを止めて、あたしの目をじっと見つめている。
あたしがやらなければならない事……。
「……えっと、あたしが斐氏教の教祖になれってことですか?」
那美の顔が般若のように変化した。
おっふう!
やばい、しくじった!
「美子に力をお返ししてほしかったんですけど。随分と野心があること」
「ひ、す、すみません。そうですよね。その通りです」
「いえ。謝る必要はございません」那美はニヤリと嫌らしく笑った。「とにもかくにも、先ずはあなたが枝の力を制御できなければ話になりません。そのためにも……」
本作の登録時に、異世界転生や異世界転移といったタグは、あえて登録しませんでした。それは、事象を認識するまでにアルカの身に起きるトラブルを利用して、やってはいけないタブー行為であるという恐怖を表現したかったためです。
『アルカ』は、夢や無意識が最重要テーマです。その本質を読者に隠すために、転生や転移という言葉を伏せてきました。
ここまで読まれた方の抗議等が多数寄せられたら、後ほどタグ登録するかもしれません。