第四節 14話 鰐丘病院から斐氏神社への連行
駅前からやや東に離れた場所にある鰐丘病院は、この地域でもトップクラスの大型病院だ。敷地面積は鰐丘高校までとはいかないが、その半分程度の規模がある。古い設備と入院病棟が中心になっている五階建ての西館と、救急病棟及び高度医療施設が集まる四階建ての新しい東館。北には大きな公園が広がり、南は大きな道路と住宅施設。西の港と南の海水浴場まではかなり遠い。
あたしは西館最上階北西部分にある、ゴージャスな病室のベットに寝転がっていた。「どうせなら南側の部屋にしてよ。そしたら海が見えたかもしれないのに」輸液パックから落ちる液体を数え飽きて、贅沢な文句をぶつぶつと呟いた。
昨日葬儀場から二宮那美に連れ出されて、そのままこの病院に強制入院させられた。ミコが通っている病院だとレンから聞き及んでたが、来るのは初めてだ。二宮那美とあたしを診察した老齢の医師は既知の間柄だったようで、手続きはあっという間に終わった。病衣を着せられて検査を受け、注射を打たれてぐっすり眠ると、気付いたら翌日の朝だった。今は退院前の最後の点滴を受けている。
病室のドアがノックされ、昨夜から何度か顔を合わせている看護師が入ってきた。
「おはようございます広瀬さん。お体の具合はどうですか?」
「うん。絶好調です」
「それは良かった」須藤という名札を付けた看護師はニッコリと笑った。目元が切れ長でエキゾチックな顔立ちをしてる。美人だが、ちょっとだけ団子鼻っぽい点が残念だった。
「おはよう広瀬さん。退院前に血圧だけ測らせてもらうわね」
続けて入ってきたのは織田さん。色々と不安なあたしを励ましてくれた、若干肥満気味のおばちゃんだ。口が大きく目がつぶらで、クジラを小さくしたように愛嬌たっぷりな容姿だが、名札には看護師長とあるのでかなり偉いのだろう。
須藤さんは点滴をチェックしたり何かの紙に記入したりとテキパキ働き、織田さんも手慣れた様子であたしの右腕に血圧測定の帯を巻いた。
「随分顔色も良くなったわね。すっかりべっぴんさんよ」
「ありがとうございます」
「何か欲しい物はありますか?」
「そうですね。とりあえずお腹が空きました」
「分かったわ。もう一時間ほどで朝ご飯が届くから、食べてから退院手続きをしましょうか」
「すみません、それは出来ません」ドアを開けて、スーツに眼鏡の女性が入ってきた。昨日の葬儀会場でも会った秘書っぽい女性だ。「目が覚めて健康状態に問題が無いなら、できるだけ何も食べずに退院させて、すぐにお連れするよう指示されております」
「あら、そうなの。二宮さんがおっしゃるなら仕方無いですね。ごめんなさい」織田が目じりを垂らして申し訳なさそうに頭を下げた。
「あの」今度は須藤さんが小さく手を上げた。「でしたら、あたしが夜食に取っておいた、市販の栄養補給用ゼリーはどうでしょう。さほど体の負担にならないと思います」
「まあ、それくらいなら問題無いでしょう」眼鏡の女性が折れた。
「だそうです。ちょっと待っててね広瀬さん」
「うん。ありがとう須藤さん」
「ストゥ」
「え?」
「あたしの本名はストゥディウムって言います。出身は東南アジアのインドネシアですが、国際看護士として数か国で働いた経験があります。患者さんと接する時に不安を与えないために通称を使ってますが、親しい方には愛称で呼んで欲しいです。今後ともよろしくね」点滴の針を抜いた部分にガーゼを貼り付けた後、ストゥさんはあたしの手のひらを軽く握って振った。
「広瀬です。よろしくお願いします」挨拶を返した後になって、あたしは今後もここに来院を続けなければならない状態なのだろうかと小さな不安がよぎった。
那美の秘書らしい眼鏡の女性に連れられて、あたしは初めてミコの実家を兼ねた斐氏神社にやってきた。
印象はとにかく広いの一言。丘の中腹に長々と続く石塀。そこを抜けると現れたのは大きな鳥居。脇の駐車場に車を停めて鳥居を潜ると、斐氏教の施設らしき大きな建物が見えた。一般人向けに開放された神社ではないらしくて、参拝者はいない。完全に宗教施設である。巨大な日本家屋やいかにも神社らしい参拝殿のような場所もあり、どれが中心施設かわからない。庭師のような人もいて、一生懸命働いている。
中央にあった一際大きな和風の建物に通されると、意外に綺麗で驚いた。日本家屋というと古いイメージだったが、築年数がかなり浅く見える。木の香りも強いので、実際新しいのだろう。
眼鏡の女性が先導して、何度も廊下の角を曲がり、迷宮に迷い込んだ気分になってきた頃、ようやく最奥の間に辿りついた。
「宗師様。広瀬亜瑠香様をお連れしました」
「入りなさい」
「どうぞ」
眼鏡の女性が襖を開けると、その奥に着物姿で肘掛に体を預ける那美の姿があった。すぐ側には昨日葬儀場で見かけた大江と呼ばれた女性がびしっと直立不動で立っており、那美の脇には日本刀のようなものが飾られている。あれ本物なんだろうなあ。
あたしが部屋に入ると、大江さんが高級そうな座布団を那美の正面に置いた。そこに座れってことなんだろう。
「失礼します」あたしが座布団の上に正座すると、大江さんと眼鏡の女性は頭を下げて去って行った。車の中で聞いた話では、一部の信徒は離れに住み込んでいるそうだ。そっちに戻るのだろう。
え? ていうか二人っきり?
二人っきりにされちゃうわけ?
大江さん達の足音が遠ざかるまで、那美は何も話さなかった。
わずか数秒でこれだけの居心地の悪さ。怖すぎるんだよこの人。
今日は平日だから学校がある。まだ八時前だから、今すぐ言えば寮に返してくれるかも。体調は回復したから、お話は放課後に先送り……
「美子は既に登校した。ここにはしばらく誰も近寄らせない。今までのことを全て話して頂こうか」
ですよね。そうもいきませんよね。あたしの考えをへし折るかのように那美が言った。有無を言わせない口調だ。
「あの、全てっていうと?」
「全てだ。鰐丘高校入学後、ミコとどうやって友人になったのか。学校生活で何があったのか。そして、夢を見るきっかけになった出来事と、その後に起きた事の全て。あなたも薄々察しているだろうが、美子はある特殊な能力を持っていたはずだった。ところが先日、突然自身の能力に関する知識だけではなく、斐氏教に関する一部の記憶までも失ってしまった。同時期にあなたが、美子が能力に目覚めた直後と似た挙動を表すようになった。隠しても無駄だぞ。美子や君島先生、丸山先生から話を伺った。あなたは夢が現実になる感覚に悩まされている。間違いないな?」
一気に捲し立てて話した那美の言葉は、彼女があたしの身に起きている異変を正確に把握していることを意味した。
神様を自称しているという斐氏教のミコが関係してるんじゃないかと思っていたが、あたしの推理は、やはり当たっていたことになる。
「は、はい。その通りです」
あたしの言葉に那美は頷き、そのままじっと目を見つめている。話を促しているのだろう。
……。話すしかないね。那美に対してわだかまりもあるが、あたしの現況への対処法を教えてもらうほうが遥かに大切だ。
ミコが今のあたしに似た災難に巻き込まれていたのなら、その状況から身を守らせるため、ミコに厳しく接していたと考えられる。レンの言う通り、彼女は決してあたしが思っていたほど悪い人ではないのだろう。
あたしは要求通り、ミコとの出会いから森崎議員の死まで、ミコにすら話していない事も含めて一から話し始めた。
那美に反発してミコを部屋に泊めたこと。なにげなく見た夢による記憶と世界の改変。幻覚や幻聴。そして、レンの苦しむ夢と直後の森崎議員の死。
全てを話し終えた時には、陽がかなり高く昇っていた。
「以上がこれまであった事です」
那美は頭を抱えたまま固まっている。眉間に皺が寄り、怒っていることは確かだ。目の前にいるのは、娘を夜中に遊び歩かせたクラスメート。日本刀で切り殺されることは無いだろうけど、また扇子で殴られるくらいはあるかもしれない。そのくらいの事なら受け入れる覚悟はできた。
さあこい。
「今度はこちらの番だな。今から斐氏教の歴史について語る。全て聞き終えたら、あなたの取るべき道が自ずから見えて来るだろう」
唇を噛んで制裁を待っていたあたしは緊張が抜けた。殴られずに済むの?
あたしが考えるよりも冷静な人なのかもしれない。
そりゃそうだよね。仮にも神社で一番偉い人。ちょっとDV気味な気があるけど、気に食わない人を全員殴るようじゃ、今頃は手首が後ろに回ってるはず。