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アルカ  作者: 試作439
第一章 ~アルカ・ソフ・オウル~
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第三節 12話 森崎恋 2

 去年の夏休み明け、学校周辺の美化活動を行うという話があがった。

 うちの高校は主要施設のある駅前からやや離れているが、西側の旧公民館空き地以外の三方向は、住宅街と接している。周辺地域の方々に日ごろの感謝の気持ちを伝えると共に、環境整備を通じて地元への愛情を育成させる試みとの名目だが、実際は夏休み中に用務員の先生が暑さでダウンして、代わりに校長先生と男女の寮生代表者が周辺清掃を手分けして行っていたが、手が回らずに荒れたままの部分もあったため、急きょ決定した取り組みだそうだ。一年と二年の各クラス代表者二名が、学校敷地境界のゴミ拾いと花壇の手入れを行うことになった。

「部活に入ってない者が好ましいが、誰か立候補しないか?」

 マルが教室を見回しながら言うと、珍しくミコが真っ先に手を上げた。

「うむ。ありがとう二宮。あともう一人必要だが、立候補者がなければじゃんけんで決めるぞ」

 夏休み明けとはいえ、放課後はまだまだ暑い。清掃なんてあたしもやりたくない。

 だがミコがいるなら話も弾む。部活をやっていない上に、クラス委員についていない負い目もある。あたしは手を上げて立候補した。

「ありがとう広瀬。では二人は明日の放課後、体操服に着替えて正面玄関前に集合。担当の先生から指示があるので従うように」

 あたしがミコを見ると、ミコもあたしを見ていた。二人同時に頷き「よろしく」と目で言い合った。

 翌日の放課後は蒸し暑いが薄曇りで、それほど不快じゃない天気だったのを覚えている。

 ジャージに着替えたあたしとミコが正面玄関前に行くと、そこに森崎恋がいた。その頃にはあたしの耳にも彼女の文武に秀でた噂が届いていた。もっとも、当時のあたしの森崎に対する印象は、ポニーテールで眼鏡をかけた、自分のことを僕と呼ぶ変な奴って程度だったが。

「奇数のクラスは全員で学校の外周を左回りに進んでゴミ拾い。偶数のクラスは敷地内の花壇を手分けして草むしり」副教頭先生の号令で、生徒達は一斉にそれぞれの道具を受け取り歩き始めた。

 じゃんけんで負けたあたしとミコの受け持ちは、一番遠い男子寮脇の花壇の草むしりに決まった。うちの学校の敷地は縦長で、南側に校舎や正門広場があり、北側にサッカーグランドやテニスコートなどの運動施設が固まっている。女子寮は西側駐車場の脇にあり、男子寮は北側野球施設のさらに北、住宅街に接している。女子寮のほうが施設が新しく、男子寮は古い上に校舎から遠いため、男子寮を取り壊して空室の多い女子寮と統合しようという案が度々出されるらしいが、男子寮にいる運動系の部活に所属する一部生徒からは、グラウンドが近いことが好評だという点と、保護者会が倫理面の不安から拒否しているため実現していない。

「どうして立候補したの?」

「花が好きなの。私の家は山の中だから、緑や自然が好きなんだ」

「ふうん」

 ミコの言ってることは本心なのだろう。ただ、わずかに陰や含みがある言い方だ。早い時間に家に帰るのが嫌なのかもしれない。入学からしばらく経ちミコの家の事情も聞き及んでいたので、ミコの様子からそう推測した。

「ごめんね。あたしが立候補したからアルカちゃんも付き合って立候補したんだよね」

「気にしないで。どうせ寮に戻っても晩ごはんまで昼寝するだけだし」

「もう。アルカちゃんほんと寝てばっかりだね」ミコは小さい口を隠してクスクス笑った。

 二人でふざけあいながら男子寮に着くと、手入れするべき花壇は既に美しく整えられた後だった。よくよく周囲を見ると、花壇の外の敷地に生えていた草もきれいに刈られている。花壇の端にはゴミ袋だと二袋分はありそうな雑草の山が積まれていた。草の臭いが強烈で、刈られてそれほど時間が経っていないのが分かった。

「これ、既に終わってるよね」

「うん。どうしてだろ」

 あたしとミコは相談して、男子寮長に尋ねてみることにした。男子寮入り口に向かうと、運良く同じクラスの男子と出くわした。

 これこれこういう理由で事情を聞きたいから男子寮長を呼び出してほしいと頼むと、「寮長さんがさっきまで草を刈っていた。今は車で小用に出ている」との話を聞くことができた。学生有志が刈ることを聞いてなかったのだろう。

 これはラッキーと思い、あたしたちは積まれている草を持ってきたゴミ袋に入れてさっさと戻ることにした。ミコには念のため刈り残しが無いかチェックを頼み、あたしは軍手をはめて草をゴミ袋に詰め込んでいく。

 あっという間に作業が終わりミコの所に行くと、ミコは黄色い花に笑顔で話しかけていた。今まで一度も見たことの無いような笑顔で、あたしは少し尻込みした。

「どしたの?」

「アルカちゃん、この花かわいくない?」ミコは下を向いている黄色い花の頭を指で撫でている。「しょんぼりしてるおじいちゃんみたいで」

「ううん。よく解らん」かぼちゃの花にちょっと似てるかな。人には見えない。「あたしのほうは終わったよ。大丈夫そうなら帰ろうよ」

「わかった。じゃあね」ミコが花に手を振ると、花もかすかに揺れた気がした。ミコのこういう仕草はロマンチックでちょっと絵になる。

 二人で戻るため歩き出すと、男子寮フェンス外側の市道との間にも、小さな花畑があることに気付いた。かなり雑草が生い茂っており、しばらく放置されているように見えた。

 これは後に知ることだが、その花畑は学校敷地と面している住宅に住む老人が、市道の部分に勝手に花を植えていただけだった。本来いけないことなのだが、市側もチェックを怠ったらしい。

「あそこのも刈ったほうがいいかな」

「うん。時間あるし、やっとこうか」

 あたしとミコは粗末な鉄柵が開きっぱなしになっている裏門から出て、その花畑の草むしりを始めた。タンポポが多くて根から掘り返すとかなり重労働だ。小さなシャベルで一つずつ集めていく。

 中腰のまま作業しているとすぐに腰が痛くなった。あたしは立ち上がって掛け声と同時に体をひねると、腰からボキボキと鈍い音が鳴った。ミコは地面にかかとをぺたりと付けたままアルカを見上げて笑っている。

 その時後ろを見てぎょっとした。

 鎖に繋がれていない黒い肥満体型の大型犬が、道路を挟んだ家の前からこっちをじっと見つめていたためだ。

 犬はあたしから目を逸らすと、ミコの小さな背中をじっと見つめた。

「ミコ、立って」

「え?」

 あたしの緊張した声と同時に、黒い犬がミコに飛びかかってきた。

「うわあっ」あたしはおもわず、手にしていた雑草の入ったゴミ袋を投げつけた。だが、それが道路の真ん中に舞った時には、犬はミコのすぐ後ろに迫っていた。

 ミコが立ち上がった瞬間背中に犬がぶつかり、体重の軽いミコは前に倒れた。どう見ても犬のほうが体が大きい。

「きゃあっ」

「ミコっ!」

 犬はミコのジャージの上着の裾に噛みつき引っぱっている。ミコの背中が半分くらいめくれあがり、ブラジャーの紐が見えた。

 あたしは脇にあった男子寮の花壇で刈り取った雑草の入ったゴミ袋を手に取り、犬に叩きつけた。三回くらい叩くと袋が破れて中身が犬に降りかかった。犬は逃げ出して、十メートルくらい離れた所で立ち止まり、こっちをじっと見つめている。

「ミコ、大丈夫? 怪我は?」

「うん。大丈夫」ミコも草まみれになりながら立ち上がった。

 怪我が無さそうで安心したが、犬は距離を置いたまま離れようとしない。顔だけではなく目玉も黒くて、表情が全く読めない。

「どうしようアルカちゃん」

「逃げ出す、のはまずいか」

下校時刻だが、男子寮のある学校敷地東側の道は、駅に向かう西側の道とは真逆のため人はいない。犬から目線を逸らして後ろを見たら、十字路を曲がり遠ざかっていく車が一台見えただけだ。トラブルに気付いてくれてる様子は無い。

「仕方ない。あたしがこれで戦うから、ミコはその間に男子寮まで行って誰か連れてきて」落ちていた小さなシャベルを手に取った。

「無茶だよアルカちゃん」

「無茶でもなんでもやるしかないの」

 あたしは両手を上げて雄たけびをあげながら犬を威嚇した。すると犬はわずかに怯んだようで、少しだけ後退した。

「いい? せーので行くよ?」

「ダメだって。私も戦うから」

 ミコは花畑の土を丸めて土団子を作り始めた。目潰し程度にはなるかもしれないが、そもそもミコが投げて犬に当てるコントロールがあるとは思えない。

 その時だった。遠くから甲高い指笛の音が響いてきた。犬の耳がピンと上に立ち、背筋が伸びて固まった。やがて十字路の死角から森崎が走り寄って来て、もう一度短く指笛を鳴らすと、ジャージのポケットから野球ボールを取り出し横に振った。犬は明らかに興味を示して興奮しはじめた。

「取って、こいっ!」

 森崎がわざと空高くボールを投げると、犬はじっと見つめたまま固まった。バウンドして犬の頭を越えたボールを、尻尾を振りながら必死で追いかけ始めた。

「今だよ」

 森崎はあたしとミコの手を取ると、すぐに校舎裏門の中に引っ張りこみ、錆びた鉄柵を急いで閉めた。

 ボールを咥えて戻ってきた犬は、閉じた門の奥にいるあたし達を見て困惑している。どうやら門の中までは入らないように躾けてあるようだ。

「助かったよレンちゃん」

「なあに。ちょろいもんさ」

「えっと、森崎さんだっけ。どうしてここに?」

 あたしが尋ねると、森崎は眼鏡をくいっと上げた。「忘れたのかい? ゴミ拾い組は向こう側から回ってきてたのさ。そしたらミコの悲鳴が聞こえたから慌てて来たってわけ」

 森崎の指さすほうから二年生を含む数名がやってきた。ゴミ袋をいくつか持っている。

「野球ボールは途中で落ちてるのを見つけたんだ。まさかこんな形で役に立つとは思ってもみなかったよ」

 目の前の黒い犬はボールを咥えたまま、あたし達とゴミ拾いをしていた生徒達をキョロキョロと見回している。

 その時ようやく、犬の飼い主が騒ぎに気付いて家から出てきた。犬にリードをつけると、コメツキバッタのようにぺこぺこと頭を下げてきた。「散歩に行こうとしたら飛び出しちゃって」「今日は曇りで涼しいから興奮したみたい」などと言い訳を連ねてくる。

 彼女がそこで噛みつかれたんですよとミコを指さして怒ったら「おばあちゃんがその花畑を手入れしてたところを何度も見てるから、勘違いしてじゃれついたんだと思う」と言ってきた。

 ゴミ拾いをしていた二年生も加勢して犬の飼い主に抗議してると、ミコが「怪我も無いので別にいいです」と全員を宥めた。

 襲われたミコがもういいと言ったことにより、他の生徒も追及する意思が薄れていく。

 結局、あたしがばらまいた草の山を、ゴミ拾い組から抜けた森崎が加わり、三人で片づけることになった。

「ええと、森崎さんだっけ。本当ありがとね」

「ああ。造作もない」

「レンちゃんありがとう。レンちゃんが来なかったら危なかったよ」

「いやあ、あの犬なら僕の来るのが遅れても大丈夫だったと思うよ」

「え? どういうこと?」

「ラブラドールレトリバーだったからね。賢いから滅多に噛みつく犬じゃない。あの飼い主が言ってた通り、ミコのことをおばあちゃんと思っただけじゃないかな」

「まじで?」

 あたしはさっきの犬の姿を思い浮かべた。黒くて尻尾が無かったから、土佐犬やピットブルのようにも見えた。

 森崎はあたしの驚きから疑問点を察したようだ。「すごく太ってる上に、尻尾が無かったから分かり難かっただろうけどね。犬の中には自分の尻尾を噛み切る犬もいるんだよ。それか子犬の頃に多頭飼いしてて、兄弟に噛み千切られたことも考えられる。まあ、それほど心配はいらなかったさ」

 へえ。あたしがパニックになってる間に、そこまで観察してたとは。すごい。

「とにかくありがとう森崎さん。ほんと助かったよ」

「恋」

「え?」

「広瀬さんだよね。ミコと仲良しの。あたしの名前はレンだから、今後は下の名前で呼んでよ」

 おお、なんとフレンドリーな。一瞬で距離を詰めてきた。

 あたしは若干照れて顔が熱くなった。

「わかったよレン。じゃあ、あたしのこともアルカって呼んで」

「OK。よろしくアルカ」



 夕暮れの寮の部屋から、あの時の犬がいる家のあたりを眺めていた。遠くに見える男子寮の手前、野球部の用具倉庫の横に、赤い屋根がちょっとだけ見えた。多分あそこだ。肥満体型のラブラドールレトリバーは、今でも元気にしてるだろうか。

 女子寮はサッカーグラウンドと隣接してるので、部活の時間はかなり声が響いてくる。

 西日を浴びて顔が真っ赤に見える一年生らしき男子部員と目が合い、あたしは窓を閉めた。

 幻覚や幻聴は、今日のように油断していると突然起きるものなので、ちっとも気が休まらない。

 夢に至っては完全にランダムとしか言いようがない。人よりも睡眠時間の長い体質であり、夢を見る事も多かったが、狙った夢を見ることなど不可能だ。そのあたりはレンから話を聞いてみなければどうしていいかわからない。本当に斐氏教に関連した事象なら、この先もう一度ミコの母親と対峙する必要もありえる。

「ああもう。やめやめ」

 明日以降のレンの報告に期待しよう。あれこれ悩んでも仕方ない。

 夕食の時間になり早めに食堂に向かうと、既に半分ほど席が埋まっていた。そういえば昨日は寮生の中で一番所属者が多い吹奏楽部のコンクールがあったらしい。今日は部活が休みなのだろう。

 あたしはトレーを持ち生徒が並ぶ列の後方についた。普段の夕食は全員同じ料理だが、調理をするおばちゃんが足りない時は、適当にバイキング方式にする事もある。今日はそれなのだろう。三種類程度のメイン料理の中から好きな物を選んで取る形式だ。

 遠くから見た様子ではから揚げと豚キムチ、それにパスタの三種類らしい。から揚げと豚キムチは、ご飯と味噌汁を受け取るため時間がかかる。あたしはパスタに決めた。あまり食欲も無いし。

 前の生徒に続いてのろのろと進み、パスタの前まできて大皿にかけてあるトングを握った。横に積んであるプラスチックの皿を空いた手に持ち、パスタを掴もうとした瞬間、パスタが蛇になった。赤いミートソースの海の中を、無数の白い蛇がうねうねと泳いでいる。

 あたしは一瞬で失神した。



 悪夢を見ていることには気づいていた。大量の蛇が体中を這いまわり、あたしの体を締め上げていく。

 手首から肘を伝い二の腕に登って来た蛇が、あたしの肩に噛みついた。これは夢だから痛みは無いと思い込んだら、思いが通じたのかやはり痛くなかった。しかし、足からも別の巨大な白蛇が絡みつくように登ってきた。かと思ったら、背中にも巨大な鱗がぞりぞりと擦れる感覚がある。暗闇の中、あたしの肌がどんどん蛇に埋もれていく。

 一匹の巨大な蛇があたしの正面に立ち、顎が開いた。体は白いのに口の中は薄いピンク色をしている。牙を持たないその蛇は、あたしを頭から丸呑みしようとしているようだ。額に嫌な肉の感覚があり、目の部分が隠れて光が見えなくなる。

 変な夢にはもう慣れていた。だが、これ以上この夢に引き摺られるとまずいことになる。そんな予感がして、あたしは腹の底から力を振り絞り叫び声をあげた。

「あああああーーっ!」



「あああああーーっ!」

「ひゃあっ!」

「ちょっと、大丈夫か? 広瀬!」

 叫びと同時に両目を大きく見開くと、見覚えのある二段ベッドの底板が見えた。

 ほらね。やっぱり夢だった。

 夢と解ってるなら、蛇なんか恐れるに足らず。あたしはくくくと笑い声をあげた。

「広瀬?」

 頬をぺしぺしと叩かれた。眼球だけで左を見ると、怯えた顔の同級生が見えた。一年の時に同室だった友達だ。その後ろにも見覚えのある生徒が二人ほどいるが、どちらも震えて手を繋いでいる。

「ごめん。ええと、あたしは食堂で倒れた?」

「うん。覚えてる?」

「うん」パスタが蛇に見えて、ついさっきまで蛇に食べられる夢を見てた、ってところまでは言えないか。

 その時、ドアがノックされた。寮母さんが顔を覗かせ「大丈夫?」と言いながら、皿に乗せてラップで包んだおにぎりを持ってきた。

「ああ、よかった。広瀬さん起きたのね」

「はい。ええと」アルカは手元にある目覚まし時計に手を伸ばそうとした。

「今はお風呂の時間。夕食はもう終わってて、今から浴場に行っても間に合わないわね。皆さんが看病してくれるっていうから、あたしは食堂でおにぎりを作ってきたの。広瀬さん、何も食べてないわよね?」

「ああ。ええ。色々ごめんなさい」

「良いのよ。体調が悪い時は遠慮しちゃだめ」

 思っていたよりも時間は経ってなかった。眠っていたのは一時間半くらいだ。

「えっと、みんなもごめんね。びっくりさせたみたいで」

「いいって。そんなことより寝てろ」

 後ろの二人も首を上下に振っている。

 そばにいた生徒は強引にあたしの肩を押さえつけてベッドに寝かすと、布団を首までかけた。

「そうね。今日は早めに休んだほうが良いわ。明日になっても体調が優れないようだったら、学校を休んで病院に行きましょう。あたしも付き添いますから」寮母さんはおにぎりを机の上に置いた。「夜中に目が覚めてお腹が減ってたら食べてね。さあ、みんなも騒がしくしちゃダメ」

 手で三人の生徒を追い払う仕草をすると、生徒達も寮母さんに従った。

「じゃあな。広瀬」「ゆっくりしてね」

 生徒達は口々にあたしを励まして、寮母さんと共に部屋を出て行った。

 一人になると、あたしは布団をめくりあげた。背中が冷や汗でぐしょぐしょに濡れていて気持ち悪い。シャツを変えようとクローゼットの所まで行くと、ドアのすぐ奥でひそひそ話す寮母さん達の声が聞こえてきた。

「大声をあげて……笑い出して……」

「目だけがギョロって……」

「絶対に誰にも言わないようにしなさい……」

 おいおい、聞こえてるよ。もう少し離れた所で相談してよ。

 数十秒ほど立ち聞きしていると、やがて四人はドアの前から離れたらしく、気配が消えた。

 まさか今のも幻聴だったわけじゃないよねと思いながら、クローゼットの扉を開けたが、立っていた間に汗が引いたのでそのまま閉じた。椅子に座り、目の前のおにぎりを見るとお腹がくぅと鳴った。寮母さん力作のおにぎりは、両方とも海苔でニコちゃんマークのデコレーションが施されている。

 あたしはラップを剥がして、おにぎりを一口食べた。中の具材はシャケ。まだ熱く焼きたてのようだ。かなりおいしい。

 パスタよりこっちのほうが良いかもと思いながら食べ口を見たら、ご飯が白い蛇の口に見えて、ピンク色のシャケが蛇の舌に見えた。襲いかかってくる気がして、すぐにゴミ箱の中に投げ入れた。もう一つの手をつけていないおにぎりも口をつけずに放り込む。

 あたしはベッドの中に飛び込み、布団を頭までかぶった。

「全部幻覚だ。全部幻覚だ。全部幻覚だ」



 まただ。

 また、夢を見ている。

 あたしは全身を舐めまわすように確かめた。ごく普通のセーラー服を着ていて、蛇は一匹も付いていない。

 ひとまずは安心した。あたしは胸をなでおろしたが、ひょっとして背中にまだ蛇がくっついてるんじゃないかと思い、手を後ろに回してバタバタと叩いた。それでも手には何の感触も残らなかったので、大きく息を吐いた。

 心がかなり弱っているのを、自分でも自覚している。

 はっきりとした夢を見るのは良くないことだと、あたしの直観は警鐘を鳴らし続ける。

 どうしよう。もう一度大声を出せば、夢から覚めることができるんじゃないだろうかと思い、試すべきかやらないべきかと悩んでいると、泣き声が聞こえてきた気がした。背後からだ。

 耳を澄ますと、薄ぼんやりとしていた視界が徐々に形を成していく。それと同時に声もだんだん大きくなってきた。聞き覚えのある声。レンだ。

「レン?」

 あたしが声をかけると、レンがはっきりと姿を現した。泣きじゃくっている。向こうはあたしに気付いてないようだ。

「レン」

 あたしはレンが泣く所なんて見た事が無い。だからこそ言える。これは間違いなく夢だと。

「レン!」

 これ以上は危うい。行くな、行くなと頭の中で自分に言い聞かせるが、泣き続けるレンがどうしても気になって仕方ない。

 しょうがないじゃん。レンを助けたいんだから。

「レン!」

 あたしは手を伸ばした。

 その手が、みょいんと伸びた。

 ああ、またやった。

 やってしまった。

 手の先からレンの泣き叫ぶ世界に落ちていく。

 うわん。うわん。

 うわん。うわん。



 目覚めはすっきりしていた。カーテンの下が明るい。

 手元の目覚まし時計を見ると、もうすぐ起床時間だった。たっぷり十二時間以上寝たことになる。そりゃあ疲れも取れるはずだ。

 すると、目覚まし時計の数字が蚊のような羽音を立てて空を飛び始めた。

 ああ、これを忘れていたっけ。さすがに慣れてきたので驚かない。

 8や1、0の字が回転しても意味が変わらないね、などとぼんやり思った。

「……」

 またやってしまった。また、落ちた。

 あたしはベッドに寝転がり、目を瞑って全身の力を抜いた。

 また、何かが変わったはずだ。世界が。

 三度目になると、さすがに夢の中で何が起きていたのかが分かってきた。

 夢で見た事に近寄ったり、手を、いや手ではないか。あたしが夢の中で自分の手と思い込んでいる体の一部を近づけると、そっちに引っ張られる。

 なんなのこの現象。とにかく異常だ。

 起き上がろうとしたが、寝すぎて全身がだるい。頭はすっきりしているのに、手足の指が冷たくて額が汗で濡れている。昨日お風呂に入りそびれたことを思い出した。体が気持ち悪い。

 多分、顔色も悪いだろう。こんな姿を寮母さんに見せたら、学校を休ませて病院に連れて行かれる。それだけはだめだ。

 確認しなければならない。レンに何が起きたかを。



 教室に着くと、ミコがすぐに近寄ってきた。

「アルカちゃん大丈夫? 顔色すごく悪いよ」

「うん。ごめん、レンは?」

「まだ来てない」

「そう……」

 ミコの家とレンの家は、学校を挟んで逆方向だ。北東方面の山の中がミコの家。レンの家は西側の駅を越えた港方面。一緒に登校はしない。

「カバン持とうか?」

「そのくらい平気だよ」

 言った途端に強烈なめまいでよろけた。ミコがあたしの脇の下に体を入れて支える。

「あ、ありがとう。ごめんね。やっぱりお言葉に甘えようかな」

「うん」

 ミコにカバンを渡して、肩を借りながら席に辿りついた。体は鉛のように重く、水の底を歩いていたような抵抗感があった。

 このままじゃまずい。ミコに礼を言い、背筋を伸ばして首をコキリと鳴らす。

 多分あたしは病人のように見えているだろう。このままじゃ朝のホームルームが始まる前に保健室へと連れて行かれてしまう。少しビシっとしなきゃ。

「座ったら楽になったよ。もう大丈夫だから」精一杯の笑顔をミコに向けた。

 ミコはそれでも心配そうな顔をしていたが、「一時間目の予習をしたいから」と言うと、渋い顔をして自分の席に戻った。

 あたしは教科書とノートを出して勉強するフリをしながら、心の中で必死にレンを呼んだ。頼むから普通に登校してよ。今日はちょっと遅れているだけだよね?

 教科書の字がグルグルと回る。じっと見てるとこっちまで気分が悪くなるので、視点を遠くに合わせて見ないようにする。

 時間の過ぎるのがやたら遅い。イラついて人差し指でトントントンと机を叩く。長時間叩いてると指が痺れて痛くなり止めたが、指を動かしていないのにトントントンという音がその後もずっと続いた。幻聴だ。しつこい。

 ホームルームの時間になったがレンは来ない。嫌な予感がブクブクと胸の中で膨れあがる。あたしは苛立ちながら教室のドアを横目で何度も見る。

 やがてドアが横に開いた。レン? と目を凝らしたが、入ってきたのは君爺だった。頬が引き攣って神妙な顔をしている。あたしの心が絶望で黒く染まっていく。

「ええ、今日はホームルームの前に大事なお知らせがあります」

 君爺が声を張りあげると、ざわついていた朝の教室がしんと静まった。

「森崎さんのお父様が、昨日の夜遅くに事故で亡くなられました」


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