第三節 11話 森崎恋 1
国旗の改変から三日が経った。
一晩寝たら夢から覚めて、中国の国旗は元通り赤い国旗に戻っていたなんてことも無く、今もずっとパンダのまま。英語のテストの時と同じく、この状況を受け入れるしか無いらしい。
幸運にも、あれから深刻な世界の改変は起こっていない。
いや、この状況を幸運とは言わないか。本当に幸運なら、世界は元に戻ってるはず。
コツカツと、君爺が英語を板書する音が教室に響く。ミコの影響で盛り上がっていた勉強熱も、最近は完全に冷えた。というかこの状況で勉強に身が入るわけがない。ノートに何一つ書き取ることなく、ぼんやりと黒板を埋める流暢な筆記体を眺め続ける。
天井から駆動音が聞こえて、エアコンが動き始めた。今日は六月にしてはとても暑く、朝からずっと窓を閉めて稼働させている。
動き始めた送風口をじっくり見ていると、その奥に何かがいる気がした。あれ? と思い目をこらす。
あたしはこの時、完全に油断していた。時々現れるようになった幻覚は、予兆を感じ取るようになれば、目を閉じて精神を集中することにより回避することができると分かっていた。だが、君爺の英語を聞いているうちに眠気を感じて集中が途切れていたらしい。
送風口が生き物の口に見えた。
「うっ」と呻いた途端、その口の周り、天井の黒い部分が虫のように蠢いて、一斉にボロボロと頭の上に落ちてきた。
「うわあっ」あたしは頭の上に落ちたそれを右手で払い、机の上に落ちたやつを左手で机の下にはたき落とした。その瞬間やっちゃったと自覚した。これは幻覚で、本当は虫なんていない。
君爺が振り向き、何事かといった顔をしながらこっちを見ている。教室の生徒達もちらりとこっちを見たが、何が起きたのかよくわかってない。声の主がアルカだと気付いたのは周囲の生徒だけだ。
騒いだのが一瞬だったので、一部の生徒がふざけただけと判断したらしい。君爺は再び板書を始めた。
あたしは何も言わずにそのままとぼけることにした。シャープペンを手に取り、ノートに板書を書きとるフリをして顔を机に近づける。恥ずかしすぎて息が詰まる。
すると、後ろの女子生徒がクスクスと笑っている声が聞こえてきた。
笑われて当然だと思う。けど、頼むからこれ以上騒がないでほしい。お願いだから。
アルカが必死に耐えていると、今度は隣の席に座る男子生徒が「おまえ頭がおかしいんじゃねえの?」と言ってきた。
やめて。ごめんなさい。息が苦しい。
ほどなく笑い声が教室中から聞こえてきた。君爺もいつのまにかあたしを指さして大声で笑い続けている。レンが遠くの席から「何やってるんだよアルカ」と侮辱するような声で言ってきた。ミコの笑い声までも聞こえてきて、それらがようやく幻聴だと確信できた。
あたしは必死に耐える。ひたすら背中を丸めて貝になる。あたしは貝だ。何も聞こえない。何も知らない……。
体育の教師は、あたしの顔色を一目見ただけで体調の悪さに勘付いてくれた。隅の邪魔にならない所にいるだけで出席扱いにしてくれるそうだ。感謝しながら隅のほうに座り込む。
「大丈夫? アルカちゃん」ミコがあたしの顔を覗き込みながら聞いてきた。
「うん。ごめん。心配かけて」
「さっきの授業中も変だったけど、本当に大丈夫? 保健室で寝てなくて」
ミコの席はあたしの席よりもわずかに後ろだから、あたしが騒いでいた所が見えていたのかもしれない。
「ごめん。多分、おとなしくしてると落ち着くから」
「そう……」
あたしが遠まわしに会話を拒絶すると、ミコもそれ以上話しかけてはこなくなった。
このおかしな状況になった主因がミコにあるのではという疑いは、まだ心の奥にくすぶっている。かといって、それをミコに説明しても何らかの解決策を示してくれるとは限らない。むしろ傷つけてしまうほうが怖い。
あたしはただ黙って嵐が過ぎ去るのを待つことに決めていた。耐えていたら、いつかはこの不思議な現象が起こらなくなるのではという希望に賭けていた。それ以上に、自分が話すことによりあたしを見る周りの目が変わることのほうが怖かった。目線に対して敏感になった気がするのだ。
その時、体育館にどよめきが起きた。女子はバスケットボールの紅白戦を行ってて、レンが器用にバックロールターンで相手を抜き去ったのだ。守備の相手はたしかバスケ部のレギュラーだったはず。
ポニーテールを揺らしながら、レイアップシュートを利き手ではない左手で決めた。
ネットの奥でバレーボールをさぼって観戦している男子からも歓声があがる。今のレンは眼鏡をしていないので、キラキラ感も十倍増しだ。
「すごいね、レンちゃん」
「うん。本職をブチ抜いたね」
緑のゼッケンをつけた対戦相手が割と本気で悔しがっている。
「ああいう動き、テレビで覚えるって言ってたよ」
いかにもレンらしいセリフだ。「見ただけでできるようになるものなの?」
ミコは眼鏡を上げる仕草をしながら「出来ないことも出来ると信じる。それができる人間になるコツさ」って言ってた。
レンの物真似が似すぎてて、あたしはおもわず吹き出した。
「二宮、そろそろうちらの出番」
「うん」ミコは立ち上がると、中腰であたしの正面に立った。「見ててね。私もレンちゃんみたいなシュート決めてくるから!」と言い、ミコを呼びに来た生徒と共に離れて行った。
ミコは、性格がかなり変わった。丁度、あたしの部屋に泊まったあの夜から。
前向きで積極的になり、憑き物が落ちたという言葉がしっくりくる。髪を自発的に切るなんて考えもしなかった。
ずっとあたしとお喋りしたから気持ちが晴れたのだと思っていたが、他にも何か原因があるのだろうか。
ミコはレンの使っていたピンクのゼッケンを受け取ると、言葉を交わしてコートの中央に整列した。代わりにレンがあたしの方に向かい歩いてくる。
「どうだい? 体調のほうは」
「うん。少しづつ楽になってる。ごめんね心配かけて」
あたしの言葉を聞いて、レンは不安な顔になった。すぐ隣に座って、手の平で自分の顔を扇ぎだす。試合の直後なのでまだ息が上がっている。
「最近、ごめんが口癖になったね。アルカは」
レンに指摘されて初めて気付いた。そういえばそうだ。無意識に人と関わることを拒絶して、話を打ち切りたがっている。自然と謝ってしまう。
「悩んでいることがあるんじゃないのかい? 僕で良かったらいつでも相談に乗るよ」
レンの視線が横顔に突き刺さる。あたしは膝の間に顔を埋めて、目を合わせるのを拒否した。
「ミコに関係すること?」
そこがあたしも一番知りたいとこ。あたしは軽く頷いた。
「僕の家は、家族ぐるみでミコの家と交流があるからね。ある程度のことなら調べることもできる。ミコに聞けないようなことなら、僕が探ってあげようか」
あたしはそこで初めてレンと目を合わせた。レンはただ穏やかな笑みを浮かべて、返事を待っている。
「……笑わない?」
「もちろん」
「すごく変な話なんだけど。多分レンでも理解できそうにない話」
「理解できなくても、解決策や一定の妥協案は提示できるかもしれないよ」
頼もしい言葉だ。
コートではミコが必死にパスを要求している。チームメイトからボールを受け取りドリブルを始めた途端、バスケットボールが足に当たりコートの外へ蹴り出してしまった。あーあ、慣れてないこと頑張るから。
ミコは反省すること無く「ドンマイ! 次行こう次」と、手を叩いてごまかしている。ピンクのゼッケンをつけたチームメイトも笑っていて雰囲気が良い。昔のミコならとりあえず謝って、その後は目立たないように消極的なプレーを繰り返すだけだったはず。
今のミコには相談できない。あたしの悩みを知ってしまったら、悪い方に戻ってしまうかもしれない。それは悲しいことだと思う。
だが、レンならば器用に立ち回ってくれるはず。あたしは話す覚悟を決めた。
「今日の放課後、二人っきりで会いたいんだけど。時間作ってくれる?」
「Sure thing」舌を前歯の間に軽く挟んだ美しい発音で、首肯しながら親指を立てた。
以前にも二人で訪れた事のあるファーストフード店に入ると、レンに席の確保を頼んだ。財布を開けて飲み物の代金を取り出そうとするレンを、あたしは手で強引に遮る。
「今日はあたしに奢らせて」
「でも」
「いいの。あたしが相談に乗ってもらうんだから。いつものでいいよね」
「そっか。じゃあお言葉に甘えて」
あたしはカウンターでレンの好きな百パーセントのオレンジジュースとあたし用のミルクティーを頼み、注文を受け取ると店の奥の席に向かった。周りに誰もいなくて店の外からも見えない場所で、心置きなく話ができそうだ。
「『いつもの』で、ちゃんとオレンジジュースを選んでくれるところがありがたい」
「レンがこれ以外のジュース飲んでる所は見たこと無いし」
「まあね。アメリカを思い出すから好きなんだよ」
以前に聞いたことがある。アメリカの親戚の家に滞在していた時、ずっと飲んでて病みつきになったとか。
あたしもレンの向かい側に座り、ミルクとガムシロップを入れたミルクティーを口につけて一息吐くと、本題に入った。
「ミコを寮の部屋に泊めて以降、体の調子がおかしいの」
「おかしいって、どんなふうに?」
「夢と現実の境界が無くなるような感じ?」説明したいことがうまく頭の中でまとまっていない。あたしが逆に尋ねてしまった。
「ううん。抽象的な言い方だね。もうちょっと具体的に、何があったんだい?」
世界が改変されている、と、いきなり言ってもさすがに引かれるんじゃないだろうか。
どう説明すれば良いだろう……。
そういえば、レンにはテストのことを一度も尋ねたことが無かった。この際ついでに聞いてみよう。「レン、この前の中間試験のことだけど、英語のテストの最終問題に誤記を見つけて、レンが指摘したことにより全員が正解になったこと、覚えてない?」
案の定、レンは首を捻った後にゆっくりと横に振った。
「それが、アルカの見た夢ってこと?」
「いや、違うんだけど」何かまどろっこしい。もうストレートに言っちゃえ。「今がその夢の世界で、レンがテストを指摘した世界が正しい世界なの」
レンの顔から表情が消えた。
「あたしがなんとなく見た夢が、そのまま世界になるっていうか、夢の中でトンネルみたいなところを落ちると、いや、トンネルを落ちるって変か。長い穴みたいな所に落ちると、そこから別の世界になる」
あたしの説明は下手だが、レンは真剣に聞き入ってくれている。眼鏡のつるをいじりながら考え始めた。
「ミコが昔相談してきた内容と、かなり似てる」
「え?」
「随分前にね、あったんだよ。今のアルカと似た悩みを打ち明けてきたことが。あの時ミコはたしか、『見た事の無い場面なのに、何度も見た気がする』『正しくない世界に迷い込んだ』って言ってた。あの後からだったな。ミコが病院に通いだして、薬に頼るようになったのは」
あたしは唾を飲み込んだ。ミルクティーが口の中で急速に乾いていく。
「ミコが幼稚園から小学生低学年くらいの頃は、つい最近のミコのように活発で前向きでね。自立心と好奇心の旺盛な性格だった。それがいつからか空想好きな感じになって、少しづつ奇行が増えていった。そして、その悩み事を相談してきた時には周囲に怯えるようになってたな。ミコのお母さんが影響してると思ってたが、違ったのかもしれない」
「今のあたしに似てる」
「そうだね。似てるというか、完全に一致してる」レンはオレンジジュースを飲み干して一息吐いた。「僕のパパが斐氏教の信者だってことは既に知ってると思うけど、実はミコのお母さんの家庭教師をしていたこともあるんだよ」
へえ。初めて知った。あたしは強い興味をそそられた。
「ミコのお母さんは十二歳で斐氏神社の後を継ぎ、空位だった宗主になった。ところがその後、中学にきちんと通わなかったことにより、社会常識が足りなくて苦労することも多かったらしい。そこで後に当時大学院生だったパパを雇って勉強を教わったんだとか。ミコが高校に通うことを反対しつつ渋々容認しているのも、一般常識を身に付けさせるというよりは、集団生活の中で社会常識を身に付けてほしいためじゃないかな。だから学校の成績に全くこだわりが無いんだと思う。あのお母さんにミコが反発して変な騒ぎを起こしてるんだと思ったけど、実際はミコの中に別の理由があったのかもしれないね」レンは眼鏡をくいっと上げた。「斐氏教については、アルカはどう認識してるんだい?」
あたしは噂として聞きかじったことを素直に答えた。「あのお母さんが神様を自称してて、ミコも神の一族だとか」
「まあそんなものだろうね。けど、それらはよく知らない人々の悪意と偏見が混じった物言いだよ。実際はミコの母さんも神を自称なんかしていない。パパが言うには、長いこと予知や予言を得意にしてきたそうだよ」
へえ。初めて聞いた。
まあ、あたしも噂は話半分にしか聞いてなかったけど。あの極め道の女のような人が、予知や予言……。
微妙にしっくりくる部分もある。あんた地獄に落ちるわよとか言いそうだ。
「アルカやミコが悩んでいる、夢や世界がどうこうといった話とも重なる部分はありそうだね。うん」レンは紙コップの蓋を取り、中の氷を口に含んで食べ始めた。
「新しいの買ってこようか?」
「いや、いいよ。そうだね。今夜はパパも家に戻るはずだから、アルカの名前は出さずに話を聞き出してみることにするよ。もしかすると何か分かるかもしれない」
「ありがとう。レンに相談して良かったよ」
心の弱った今のあたしに、レンの存在がとても頼もしく感じられた。