第104話〔ちゃんとワタシ達の責任とってね〕⑤
キュっと蛇口を閉め、伏せていた食器類に手を伸ばし拭いていく。
そして拭き終えた皿を棚に戻す彼女が最後のコップをしまい。
「――何でしょう?」
と優しく微笑んで聞いてくる。
「なにがですか?」
拭き終えた布を洗って絞り、水を切ってから所定の位置に掛けつつ聞き返す。
すると何故かモジモジと小さく体を振り動かし困った様子を感じさせて――。
「――何故、先程から私のコトを度々見るのでしょうか……?」
ム。
「……ええと、見てましたか?」
「はい。何度もチラチラと」
ム、――そう言われると見ていた気がする。ので。
「すみません……」
「何故、謝るのでしょう?」
「ぇ、ええと……」
ん?
不意に何かを思い出しそうになる。――が。
「……不快な気持ちにさせたのなら、好くないなと思って」
「不快? 何故、不愉快と思うのでしょうか?」
「いやそれは――、その……」
思わず口ごもる。
と次の瞬間、唐突に笑い近付いて来た相手がふんわりと自分を抱き肩に顔を寄せる。
「ヨウに見られて気を悪くするなど、ありえません。寧ろもっと沢山見てください」
「……――もっと見る?」
ハイと淀みの無い瞳が向けられる。
「ヨウの目はいつも、いろんなところを見ています。ですから私の事だけを見て欲しいと常に思うのです」
いろんなところ……。
「ぁ――カ、勘違いしないでくださいねっ。移り気だと、言っている訳ではありませんのでっ。むしろ――そういう意味では何一つ心配はしていません」
「そうなんですか?」
次いでハイと肩に寄りかかっていた顔が離れる。
「もしもヨウに言い寄る者が現れれば、断じて私が護ります。ですから何も心配する、必要すらありえません」
にこりと笑む。その表情を見て、コワい。
「……――ジャ、ジャグネスさんは他にと言うか――これまでに誰かを好きになった事ってあるんですか?」
「それはヨウ以外の男性に、と言うコトでしょうか?」
「はい、そうです」
「でしたらありません」
「速答ですね……。けど、なら逆にどうして自分なんかを、その――……好きに?」
いくら男子の比率が少ないとはいえ居ない訳ではない。その上で性格を含め、あらゆる面で一際優る当人に貰い手が見付からなかったとは到底思えない。
「無論、私自身がそう判断した事ですから、理由などはありません」
胸に手を当てて、彼女が告げる。と続けて口を開き――。
「――ただ“これまでに出会った誰よりも”傍に居て欲しいと心から、そう思います」
「……もし、居なくなったら、どうなりますか……?」
「その時は再び私の視界がボヤけて、世界が見えなくなってしまいます」
と、相手の瞳が微かに揺らぐ。
ああ、そうか。――ようやく分かった。
彼女は同じ時を生きようとしたのではなく。
自分と同じ刻を見ていたかったのだと。
――不意に気付いた。
休日である今日、朝食を終えて予定していた外出の身支度を済ます。
そして玄関扉の前で馬車が来るのを待っていた。
「忘れ物はないですか?」
自分の前で待ち遠しそうにそわそわとしている相手に聞く。
「はい、何度も確認しました」
と、あの朝の様に、微笑んで答える。
すると遠くから蹄の音が聞こえてきた。――ので。
そろそろ。と言い、手首が掴まれる。
「はい。それでは行きましょう!」
持たれた手が引かれ、玄関扉が僅かに開く。
「――? ……ヨウ?」
外の光が微かに見えた扉が静かに閉まり、グッっと前に出るのを拒んだ自分に彼女の顔が向く。
「ジャグネスさん、一つ質問してもいいですか?」
「はい? 何でしょう」
相手がこちらへと向き直り、不思議そうに小首を傾げる。
「もし……俺が、ジャグネスさんが居なくなっても悲しまないとしたら、どうですか?」
「……――それは、私が死んでしまったら、と言う話にもなるのでしょうか?」
真剣な面持ちをして聞いてくる相手に、ハイと頷き返す。
「だとすれば、私には女神の加護があります。暫しの期間を経て再び会えるのであれば、心苦しくはあっても煩う必要まではないと思われます」
「……いえ、死んでも生き返らないかもしれない。としたら、どうですか?」
「かもしれない……? ――それはどの様な状況、理由で……」
「ええと、難しく考える必要はないです。そのままを想像して、答えてみてください」
「はい……、――ですが事実とは異なりますので絶対にそうとは思えません」
「全くかまいません」
「でしたら――嬉しくは、ありません……」
まぁ当然か。
「ただ前々から気になっていた事を伝えます」
ム。
「――何ですか?」
「はい。それは以前から、いえ最初から――ヨウが私の事を好きなのかという疑問です」
ム……。
「確かに私達は出会った当初と比べ、互いの気持ちが近付きました。事実ヨウは私にだけ見せる優しさをくれています」
自分から見ても分かる様に、ぎゅっと胸の前で回想する思いが握り締められる。
「しかしそれすらも不確かになるくらい、時としてヨウから受ける感情が希薄になります。それを明らかにするのが、ずっと恐くて、今まで聞けずにいました」
「……――そうですか」
納得して、目を伏せる。
とその視界を急接近した彼女の身体が占め、心ともなく顔が上がる。
「真実を述べてください。ヨウの、本当の気持ちをっ」
本当の気持ち……。
「……俺は」
※
両親と妹が死んだ後、いつだったか――ふと空を見ようと上を向いた。
けれど見えたのは空ではなく、自分が住んでいるマンションのベランダと其処の住人。
一瞬ではあったが、なんとなく、目が合った気はした。
ただ自分には関係のない事と割り切った。
そうやって物事に踏ん切りを付け、自分なりの生き方で生きてきた。
平凡とはそういうもので、日常とは差し障りのない日々。
だから理由は全くない。
逆に平穏を望む自分にとって絶えず動き回れる生き方のが非常にすら見えるし。
自らがする事、成す事に何かしらの理由を求めるのも違うと思う。
ただそれは彼女達と会うまでの自分だった。
根本は何も変わっていないのかもしれない。
事実“悲しい”という気持ちより、日々の暮らしに追われるのがツラい。
――楽しくはあるけれど。
無頓着ではなく、思索するほどの者ではないと自覚している。
それは時に自分自身の事であったり、他人事、人の――身近な死すらも深く考える必要はないと認識していたと思う。
オカシイというのなら今でも周囲の方がそうだと改めてはいない。
何かがあれば必ず理由を求め、考え方が違えば過去を探り――無いと不思議がる。
何故かは分からないが、大抵の相手は自分が過去に想像し難い何かを体験していると思うらしい。
――正直、何にも無かった。
まぁ最近で身内の死を経験したものの、それ以外で人格が形成されるほどの事は何一つ意識上には無い。
だから、皆が自分を慕う発言が全く分からなかった。
※
紡ぎかけた言葉を一旦戻し、内に秘めた思いを固め直す。そうして改め――。
「――今でも、ジャグネスさんが自分の事を好きだと言った気持ちが理解できません。普通に考えればもっと適切な誰かが居て、そっちを選ぶべきだと思うからです」
「でっですが、それはっ」
「分かっています」
途端に相手が、ぇ。と声を落とす。
「ジャグネスさんに――いえ皆には、いい加減正直な気持ちを伝えていこうかと最近は特に思っていました。だから、そろそろ帰して貰えますか? 女神様」
彼女の顔を真っ直ぐに見て告げる。
と次いで声を立てずにニヤリと、その口に笑みが浮かぶ。




