第43話〔差し当たって これは事故なのだろうか?〕④
黒髪の少女が自身の丸い小さなショルダーバッグから絆創膏を取り出し騎士の額に貼り付ける最中、見送りという立場で居合わせる預言者が近くに寄ってくる。
「――洋治さま、出発の前に少々宜しいでしょうか?」
ム。
「はい、それは構いません。けど、どうしたんですか? 顔色が悪い様に見えますよ?」
一目見て分かるほどの血色の悪さに、迷うことなく尋ねる。
「おや……。――昨夜は少々、飲み過ぎてしまいましたねェ」
オホホと口に手を当てて相手が微笑する。
「……慎むんじゃ、なかったんですか?」
「ええ、日中は規制する決まりといたしました。が、夜間は大人の時間ですよ」
オホホ。と、頬も緩ませ、笑う。
「……――そうですか。それで……用件は?」
途端にほころんでいた顔が正道の表情となる。
「此度の訪問で、お願いしたい事がございます」
ム――。
「――紙の事なら、忘れてませんよ?」
「そちらとは別に、もう一つ」
言って、体格の割に大きめのローブを着る小柄な相手が密着する手前まで距離を詰めてくる。そして顔も上げずに、そのまま。
え?
「くれぐれも、ご自愛ください」
――ム?
次いで、目の前にあった淡い色の髪がすっと身を引く。
「並びに民の不安は、民に直接聞くのが最も効率の良い手段と心得ます」
顔を上げ、和やかに預言者が告げる。
「……民の不安? 一体なんの」
そして聞き返そうとした途端、ささっと正面に居た相手が自分の後ろに回る。
ふぇ?
「ささ、そろそろ出立のお時間です。急ぎ、馬車にお乗りください」
ぐいと背中が押される。
「え? あ、ちょっと待っ」
しかし背を押す力は弱まる事なく、ぐいぐいと話をする状況から自分を遠ざけ後を押す。
その最中、馬車の乗り口が迫る一方で――別段ニオイはしないんだけどなぁ。と、昨日に比べ酒気のしない相手の言動に内心で首を傾げる。
***
馬車が走り出し、見送って小さく振っていたフェッタの手が後方より近づく浮遊体を見て止まる。そして――。
「ご無事で……」
――と瞼を閉じ、昨夜の事を思い起こす。
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時計の針が刻む新しい日が経って数分、書類の確認作業を終えて溜め息まじりに目頭を押さえる預言者の視界に日中の飲み残しとなるガラスのボトルが入る。
すっと立ち上がり。向かう――色の付いた透明な酒瓶の前で、預言者フェッタの伸ばした手が止まる。と、静かにその手を胸に引き寄せて想う傍らから――。
「――なんじゃ、飲まぬのかえ?」
気配なき主の登場に、心中驚きつつも振り向くフェッタの表情は預言者のまま――。
「――お帰りに、なられたのですね」
「ウム、今しがたの」
そう告げて、預言者の主である女神は窓際の卓上まで行き――振り返る。
「こちらはどんなもんじゃ?」
「……――特に変わりもなく」
「さようか。ワレは、収穫あったぞよ」
にんまりとした雰囲気で女神が口にする。
「それは……――私としても興味がございます。願わくは耳にできればと思うのですが」
「よかろう。ヌシは特別じゃ、神の考えた新たなる計画にも、加担させてやろうではないか、ひょっひょっひょ」
「……それはまた、身に過ぎて光栄なことで」
「そうでもなかろう。ソナタはよく仕えておる。前回の滞在でも世話になったしのぅ」
「……前回は、私ではなく、母と祖母が御迎えをいたしました」
「はて――そうじゃったかの?」
「そのように記憶しております」
「そっか。であらば、何故その者達は居らぬのじゃ?」
瞬間、その言葉を聞いた現預言者の胸に実体の無い衝撃が奔る。
「――……祖母は数年前に還らず。母は……」
フェッタの脳裏に母親の最期が過る。
それは、幼きをまだ残す日の心に恐怖を植え付けた情景でもあった。
よって口ごもる預言者の姿を見た主は――。
「――あー、よいよい。余計な事を聞いたの。強いて言う必要もない、忘れよ」
「……御意に致します」
「ウンム。ではワレの話を先に進めるとしようかの」
応じてフェッタがハイと静かに答える。
「まず、先日の事でワレは益々鬼娘が嫌いになった。じゃが見事に遣って退けた以上、約
束は破れぬ。よって、考えを改めることにしたのじゃ」
「此度の外出も、それが起因でしょうか?」
「そうじゃ。心底、腹が立ったよって東の方へ気分転換をしに行っておった」
「東……。その成果のほどは?」
「ウム。変わった光景、オモシロい連中とも知りおうての。なかなかに有意義じゃった」
「それはよきことで」
「じゃからワシは皆を呼びに、舞い戻ったのじゃ」
「……――どういった訳でしょうか?」
「皆を、あのモノ達の所へと連れて行く」
「……その後は?」
「ちょいと怪我でも負ってもらおうかの」
「しかしそれでは先の取り決めを破る形に……」
「じゃから対象は鬼娘以外、あえて選ぶとすれば、ヨウジじゃな」
「洋治さまを……? なに故でしょう」
「それが鬼娘から見て、最大の嫌がらせになるからじゃ」
際してフェッタの口から、嫌がらせ……。と、呆然な言葉が漏れる。
「なんじゃ、不服かえ?」
「い、いえ――不満に思う事など。私に、そのような権利は御座いません」
「まあそうじゃの。ソナタはワレの従者みたいなモノ、拒む理由も手段もありはせん。為す術なく、神に従うのみじゃ。が――」
スッと近付く女神の麗しい瞳が預言者の顔を、眼を、見据える。
「時には反抗心を示すのも、主を悦ばす秘訣じゃぞ」
そして沈黙する二人の内、一方の胸が音の無い感情で流動する。と呆気なく、瞳による拘束は解かれ――。
「――ほなま、本題じゃ」
そう言って女神は顔を引き、フェッタとの間に適当な距離を空ける。
「フェッタよ。ソナタは我が命に従い、皆を導くのじゃ」
「……畏まりました。して、その場所とは?」
「ここより東にある村じゃ。其処へ皆を誘い出すのじゃ」
「東……、――承知しました。早急に、手配をいたします」
「ならぬ。今日中に、皆が揃い次第、直ぐにでも出発じゃ」
「そのような……事を、急には」
「なんとかするのがソナタの、使者の――務めであろう?」
「……――なに故、それほどお急ぎに……」
「我が御魂、鎮まらぬ故。神を愚弄した酬いとその怒りは、一刻を争うほどの事態じゃ」
熱の無い瞳に高ぶる憤りを燃やし、淡々と告げる神を名乗る存在。
対して代弁者は眼を僅かに逸らし――。
「――……早急に、手配を試みます」
と壁の向こうにある隠された自らの部屋へと足を動かす。
がソレを見逃さぬ神の瞳は預言者の後ろを追い。
「そういえばフェッタよ。ソナタ、従順に見えて即時実行はしたことがなかったのぉ」
次いで何故と続ける主の問い掛けに預言者の足が止まる。そして、振り返らずに――。
「不便な身、ゆえの滞りに他意は一切ございません」
――と答える。その背後から――。
「さればその胸に、直接聴くよってなぁ」
――告げる、声に振り返るフェッタの胸部に――女神の手が突き入る。
「ほっほ、飛んで火に入るとは正にじゃ。明日が楽しみじゃの――いんや、今日かえ?」
時を見て、女神は言い直す。そして、後ろで自身の胸を手で押さえつつ疲弊によって呼吸を乱し横たわる預言者の方を向き。
「ワレは皆に内緒で同行するよってな。決して言うでないぞ」
「……しょ、承知いたしま、す……」
と、かろうじて返す預言者の眼が――。
「ほいだら明日、ではなく朝に備えてワレは寝るとしようかのぉ」
――幼き日の自分に恐怖を植え付けた者の顔を見つめる。
▲
そして開く眼の見える先へ、馬車は遠ざかる。
*
小刻みに揺れる馬車の中、縦にした両拳を合わせて一方の親指を上げる。
「いっせーので、ズイ――あ」
しまった、自分で上げてしまった。――というか、懐かしいなぁ。




