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預り屋  作者: 蒼斗
9/20

 愛してるよ。

 何度も囁く。大好きな優しい声色で。

 愛しているわ。

 そう言って言葉を返す。

 甘く、甘く。

 でないと、きっと壊れてしまうから。

 きっと崩れてしまうから。

 だから、今日も愛を囁く。


 愛しているよ。


 愛しているわ。







「シキさんは人を愛したことがありますか?」


 ――――ガシャン

 ある晴れた日の午後、日の当たる部屋でリオの淹れた紅茶を飲みながら古い装丁の本を広げていたシキに、向かいのソファーで同じく本を読んでいたリオが不意に顔を上げて前述の問いを投げかけた。

 途端、持ち上げようとしていたティーカップが音をたててソーサーの上で倒れ、まだ微かに湯気を上らせていた茶色の液体がテーブルの上にこぼれた。

 だが、それをこぼした本人であるシキは、その状態のまま固まっていた。


「……シキさん?」

「…急にどうしたんだい、リオ」


 訝しげに首を傾げてシキの顔をのぞき込むリオ。肩の上で揃えられた艶やかな黒髪が顔にかかり、強くもなく弱くもない光が灯る同じ色の瞳を片方だけ隠す。そんなリオに、いつもの微笑みを浮かべたシキが言う。その微笑みがいつもより若干引きつっているのはおそらくリオにしか分からないだろうが、リオはあえてそれには突っ込まないことにした。その代わり、手にしていた本をシキの目の前に掲げる。


「この本の主人公が、人を愛する『恋』というものをしているそうなんです」


 本の題名を見ると、なるほど、確かにそれは恋愛物と呼ばれる類のものだった。しかしながら、


「どうしてそれを僕に聞くのかな?」


 今度はシキが首を傾げた。童顔だからか、そんな行動にあまり違和感を感じないのが逆におかしい。


「シキさんの方が年上ですから」


 無表情のまま事もなげに言うリオに、シキは片手で軽く頭を抱え込む。瞳と同じ明るい茶色の髪がクシャリと乱れた。しかし「それに…」と言葉を続けたリオに、顔を上げる。


「私は、そういうことはよく分からないんです」


 淡々とした口調だが、微かに伏せられた瞳に影を落としている。

 シキは少しだけ目を細めるとおもむろに立ち上がり、リオの隣に腰かけて柔らかな黒髪をすいた。そして「リオ」と小さく呼んだ。


「さっきリオは、僕に人を愛したことがあるかって聞いたね」

「はい」

「結論から言えば、僕は人を愛したことがあると言えると思う」


 シキは静かな声で、そう言った。



 *



「彼女の『狂った心』を預かって欲しいんです」


 棚に寄りかかるように立つ二十代後半の男性。もとは甘い顔立ちだったであろうその容姿は形を潜め、今では目の下にできた大きな隈と、どことなく疲れた雰囲気が男性を実年齢より上に見せていた。


「本当にお預かりして良いのですか?」


 シキが感情の読めない微笑みを浮かべてそう聞くと、男性は虚ろだった瞳を少し見開いて暫く固まった後、口を開けた。



 *



 ああ、狂っている。

 今日も僕は彼女に愛を囁く。

 でないと、彼女はきっと壊れてしまうから。

 僕の愛が、彼女の生きる糧だから。

 愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる――――――――――――

 どれだけ言えば僕の心を表すに足りるのだろうか。

 どれだけ言えば君を満足させられるのだろうか。

 ああ、早く言わないと彼女が壊れてしまう。

 いっそ壊れてしまえば、彼女は一生僕のモノになるだろうか。

 大丈夫。僕は壊れて狂った彼女も愛しているから。


 ああ、狂っている。



 *



「これで…よかったのでしょうか?」

「『愛』の形は人それぞれだ。それに僕等が口を挟むことは許されないんだよ」

「ですがこの店は、この店を必要とする人にしか入れないのですよね。あの方は結局何も預けられませんでした。なのに、何故あの方は入れたのですか?」

「彼には確かにこの店が必要だったんだよ。預けるモノもちゃんとあった」


 シキの言いたいことがよく分からないのか、リオは前髪の下で眉根を寄せる。そんなリオに、微笑みを浮かべながら静かに言った。


「ここは『預り屋』だ。お客様が預けたいと思う物なら何でも預る。それが形ある物でも、無い物でも、何でもね」


 シキの言葉にリオが頷く。


「でも、それを本当に預けるかどうかを決めるのはお客様自身だ。僕等は彼らの選択を決めてはならない。あくまで、未来を決めるのは彼ら自身だからね。『愛』には様々な形がある。彼らにとっての『愛』はあれで正しかったのかもしれない。間違っていたのかもしれない。けれどそれを決めたのは彼ら自身だ。一つの選択が、必ずしも全ての人に最良となるわけではない。何が最良の選択であるかは、人それぞれなんだよ」


 もう一度リオが頷いた。

 キィ―――――――

 店の方から古い金具の音を軋ませて木製の扉が開く音がした。


「リオ、行こうか。お客様だ」


 いつものように微笑みながらそう言って立ち上がったシキの後をリオが追う。

 店に出ると、そこには一人の二〇代後半くらいの女性が立っていた。ウェーブがかった長い髪を背中に流したその姿は一般的に見ても綺麗と呼べるだろう。しかし、目の下にできた大きな隈と、どことなく疲れた雰囲気が女性を実年齢より上に見せていた。


「『預り屋』にようこそ」


 シキが微笑みを浮かべながら言う。その声でようやく二人の存在に気が付いたのか、女性は虚ろな瞳をこちらに向けた。


「『預…り屋』…?」

「ええ。ここは『預り屋』です。あなたが預けたいものなら何でも預ります。それが形あるものでも、無いものでも、何でも」


 女性はフラフラとした足取りで二、三歩歩くと、立ち止まった。


「預ってください…」


 喉の奥からようやく絞り出したようなか細い声。


「彼の…『狂った心』を預ってください」


 壊れそうな声で、そう言った。



 *



 ああ、狂っている。

 今日も私は彼に愛を囁くの。

 じゃないと彼はきっと壊れてしまうから。

 私の愛が、彼の生きる糧だから。

 愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる――――――――――――

 どれだけ言えば私の心を表すに足りるのでしょうか。

 どれだけ言えばあなたを満足させられるのでしょうか。

 ああ、早く言わないと彼が壊れてしまうわ。

 いっそ壊れてしまえば、彼は一生私のモノになるのでしょうか。

 大丈夫。私は壊れて狂った彼も愛しているから。


 ああ、狂っている。


 でもね、こんな狂った心でも分かることはあるわ。

 例えば、もうこんな感情に疲れっちゃった私の心、とかね。



 *



「結論から言えば、僕は人を愛したことがあると言えると思う」

「そう…ですか」

「でもね、僕は今、リオに愛情を持っているつもりだよ」

「え?」

「『愛』は一つじゃないんだ。その本のように、恋という形で誰かを愛する人もいる。でもそれだけじゃない。人は家族や友人、大切な人全てに愛を持っているんだ。……僕はリオのことを大切だと思っているよ」


 艶やかな黒髪をすきながらそう言って微笑むと、リオは一瞬目を見開いて、それから泣きそうな顔をした。

 その表情にシキは、かつての少女を重ねた。

 今の「リオ」は覚えていない。でもきっと、心は覚えているのだろう。

 愛されなかった過去を。

 愛されず、愛することのできなかった父を。

 だからシキは言葉にする。リオに知って欲しくて、感じて欲しくて行動に表す。



 かつて、大切な人を愛することができなかった自分だから、そうするのだ。



 愛を知らないリオ。

 愛することのできなかったシキ。


 この二人が愛を語るには、全てが稚拙な言葉の羅列になってしまう。


 けれど、それでいいのかもしれない。


 そうでなければ、全てが壊れてしまうのかもしれない。


 だからきっと、これでいい。


「預り屋」の形は、これでいい。






 ここは「預り屋」。

 あなたが預けたいものなら何でも預ります。それが形あるものでも、無いものでも、何でも。


 この店を訪れる人は、皆ここを必要としています。けれど、本当にこの店を必要と決めるのはあなた自身です。


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