十
「時」は繋がっている。
それは「時間」という概念ができるずっと前から、全てが形作られるずっと前からそうだった。
数字の羅列で表されたそれは途切れることを許されてはいない。
連続した時は止まることを知らない。
たとえ全てが止まっても、それはきっと変わらない。
「時」は、途切れることなく繋がっていく。
「いーち、にーい」
ああ、お母さんだ。
「さーん、しーい」
お母さんとの約束。
「ごーお、ろーく」
でもね、ぼくはこの約束がきらいなんだ。
「しーち」
だって、かぞえ終ったらお母さんはぼくからはなれちゃうんでしょ?
「はーち」
遠いところに行っちゃうんでしょ?
「きゅーう」
だったらぼくはいらない。
「 」
次のことばは、いらない。
*
カチン――と男の手の中で懐中時計が蓋を開けた。
「『時』とは何なのだろうね」
ほのかに紅茶の香が漂う中、穏やかな陽の光がアンティークを思わせる窓から室内に射し込む。
二十代半ばくらいの男は、紅茶の入ったティーカップに映る自分の童顔をのぞき込みながらそう言った。透き通った琥珀色の液体の中で、それと同じ色の瞳と髪が揺らめいている。
紅茶とクッキーののったローテーブル越しに座っていた十一、二歳くらいの少女は、突然の言葉に手に取ったクッキーを片手にしたまま、向かいに座って懐中時計の蓋を開けたり閉めたりして弄ぶ男に視線を向ける。真ん中に赤いジャムが飾られたそのクッキーは、年相応に甘党な少女の好物だ。
男はもう一度、「『時』とは何だと思う?」と、今度は少女の方を見て言った。
少女は手に持ったままのクッキーをサクリと口に含んだ。砕けた欠片が少女のシンプルなワンピ―スの上に零れ落ちた。咀嚼し終え、紅茶を一口だけ飲むと、おもむろに立ち上がる。クッキーの欠片が床に零れ落ちた。
それにも気をとられず、少女は部屋の隅、棚で埋められた壁際の一番左端の前にしゃがみ込む。そして小さな手には不釣り合いの大きすぎる立派な装丁の辞書を取り出した。近くの机の上に置いてパラパラとめくっていたが、 目当てのページを見つけたのかその手が止まる。
「―――『時。一、時間の意の和語的表現。二、時間の流れの中で、他から切り離してとらえた(ある事象が認められる)特定の中で△時期(時点)。三、昔の、時間の長さを』―――」
「ごめんリオ、もういいよ」
「…シキさんが聞いたんじゃないですか」
少女の言葉を遮ったシキと呼ばれた男は、自他共に認める童顔に苦笑を浮かべる。
そしてパタンと辞書を閉じたリオと呼ばれた少女は、不満そうな声とは裏腹にその顔は無表情に近い。可愛らしい声にも関わらず、その喋り方は可愛らしい見た目にも声にもそぐわない。人形のような、どこか作り物めいた雰囲気を持っていた。揃えられた真っ直ぐな黒い前髪の下からのぞく大きな黒い瞳には、強くもなく弱くもなく、何とも言えない光を灯しているように感じさせる。
「―――で、急にどうしたのですか?」
もとのソファーに戻ったリオは、残っていた紅茶に口をつけてから言った。
「少しね…」
何かを含むような言い方をしたシキは懐中時計の蓋を開けたり閉めたりを繰り返していた。
―――パチン。カチン。パチン。カチン。パチン。カチン。
規則的な音だけが部屋の中に響く。
不意にパチンと音が止まる。
「『時』はね、繋がっているんだ」
なんの前触れもなくシキが話し出した。
*
ずっと小さい頃からのお母さんとの約束。
「十数える間だけ」
そう言って、お母さんはぼくを甘えさせてくれた。
そのわずかな時間だけが、ぼくがお母さんを感じることのできる時だった。
でも、十数えたらお母さんはぼくから離れていっちゃうんだ。
だからぼくは十がきらい。
今もそうだ。
十日になったらお母さんはどこかに行ってしまう。
だから、十なんてきらい。
*
「時は数字の羅列だ。けれどそれは途切れることはない繋がりなんだ」
「途切れることは決してないのですか」
「ないだろうね」
小首を傾げたリオの言葉を静かに、だがはっきりと否定する。
「時は生きていないんだよ。僕等が止まっても時は動き続ける。よく、『生命の時が止まった』と言って『死』を表すことがあるけれど、それはあくまで生命を時に見立てているだけの表現に過ぎない。僕等が生きている空間の時間自体は決して止まらない。止まってはいけないんだ」
「…何故ですか」
「空間が止まってしまったら、そこに存在する者達も止まってしまうから」
「…」
少し目を見開いたまま沈黙したリオから目をそらし、少し冷めてしまった紅茶で喉を潤す。
「…シキさんは、『時は数字の羅列だ』って言っていましたよね」
「うん。正しくは、時という流れは数字によって具現化されたと言ってもいいかな」
「じゃあもし…」
少し震えた声。一度口をつぐんだが、何かを決心したように顔を上げてテーブルの方に体をのりだした。
「もし、その数字がなくなったら…『時』はどうなってしまうのですか」
髪と同じ色のリオの瞳は、不安からなのか微かに揺れている。けれど確信めいた光が宿っていた。
シキはそんなリオの頭に手をやって、艶やかな黒髪に指を通す。
そして微笑んで、リオが期待しているであろう答えを口にした。
「『時』は…止まるんだ。そして生命も止まるんだ。生命は、途切れることなく流れる時の中でしか生きられないからね」
「なんとなくは分かったかな?」と尋ねるシキは、リオが静かに頷いたのを見て、手に持っていた懐中時計をテーブルの上に置いた。
*
ぼくはお母さんにたのまれた買い物の帰り、道を一本外れたところでその店を見つけた。
周りからはどこか外れた雰囲気を持つ木製の扉。
そこは誰の目にもとまらないのか、足を止める者はいない。
あるはずなのに、まるでそこに存在していないかのように。
でもぼくはそこに引き寄せられるようにその取っ手を引いた。
*
「とは言え、僕らに時はあまり関係ないんだけどね」
シキの言葉に、リオは「そうですね」と言った。
キィ―――――――‐‐
古い金具の音を軋ませて木製の扉が開いた。
「行こうか。お客様だ」
シキがソファーから立ち上がると、リオも後に続いて立ち上がる。
「いらっしゃいませ」
静かに声をかける。
店内を不思議そうに見ていた少年は、突然の声に驚いて肩をびくつかせた。肩にかけた大きな買い物袋が重そうに揺れる。
「『預り屋』にようこそ」
「『預り屋』…」
「はい。この店はお客様が預って欲しいものを何でも預ります。形あるものも、無いものも、何でも」
「…何でも」
「あなたがこの店に入ったという事は、あなたにはこの店が必要だったのですよ」
微笑みを向けているはずのシキの茶色の瞳の奥は、何を考えているのか読み取れない。
「え…じゃあ…あの…」
その瞳に見つめられて、少年は口ごもる。
もしかしたら、そのまま言わない方が少年にとってよかったのかもしれない。
けれど、何も知らない少年にこの先のことを、未来がどうなってしまうかを考えろという方が、酷な話だ。
もちろん、少年は口を開いてしまった。
「……形が無い物…『十』も、預ってくれるんですか」
小さな声は、確かに届いた。そして、
「ええ、それをあなたが望むのならば」
シキはその瞳に感情をのぞかせぬまま、静かに微笑んだ。
ここは「預り屋」。
預けたいものなら何でも預ります。それが形あるものでも、無いものでも、何でも。
けれど、このことは忘れないで。
預けるかどうかを選ぶのはあなた自身です。
その結果を選ぶのは―――――――――――あなた次第です。




