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預り屋  作者: 蒼斗
17/20

シキ 前編

 ――パチン。カチン。パチン。カチン。パチン。カチン。


 懐中時計の蓋を開け閉めする規則的な音が、静かな、薄暗い部屋の中に響いていた。

 男の手の中で弄ばれるそれはもはや時計としての働きを成してはおらず、ある時からずっと同じ時を指し続けている。

 男がここに―――「預り屋」に来た時から、ずっと。


 ――パチン。


 急に音が止んだ。







 本当は、知っていた。

 リオの知らない過去を。

 莉緒りおの過去を。

 そして、璃乃りののことを。


 知ったのは偶然だった。けれど、今になって思う。もしかしたら、僕は無意識のうちに知ろうとしていたのかもしれない、探していたのかもしれない。


 僕がいなくなった世界のことを。そこで生きる璃乃のことを。



 *



「『時』はね、繋がっているんだ」


 いつかリオに言った言葉。

 預り屋も繋がっている。どんな時にも。

 この店に来るお客様の時代は様々だ。

 外からこの店に人が来ることがあるならば、店から外に出ることもできる。今は当たり前のように外と中を行き来しているとは言え、僕がそれに気づいたのは店に来てから一週間もしてからだった。

 そして気づいたことがもう一つ。

 僕は、店の外で会った人の記憶に残らない。

自分で言うのもなんだが、僕は通常の日本人の容姿とは大きく異なっている。明るい茶の髪と、それと同色の瞳。一目見ただけで記憶に残るその色は、今まで幾度となく奇異の目を向けられていた。

 けれど、店主となってから何度か同じ店で買い物をしていたが、毎回初めてのお客さんと認識されていた。どうやら外に出ても、そこで出会った人々に僕に関する記憶は残らないらしい。「預り屋」はそこを必要とする人にしか認識することはできない。僕はその預り屋の一部だ。外で出会う人々に、預り屋は、僕は必要ではない。つまりは、そういうことなのだろう。

 なんて都合の良いものなのだろうと、その時は自嘲じみた笑みさえ浮かべた。


 その日も、僕は必要なものを手に入れるために店から出ていた。毎回外の年や季節はまちまちであるが、買い物をしようと店を出る時は何故か僕やリオのいた時代から大きく外れることはないおかげで、価値観や物の有無に悩まされることもない。

 けれど、怖かった。

 いつか、僕の大切な人たちに、僕が記憶を預ってしまった人たちに、出会ってしまうかもしれないことを、僕は恐れていた。周りの音に敏感であると共に、周りから遠ざかるようにしていた。

 けれど人というものはそう簡単に本心を隠すことはできないのだろう。耳に入ってしまった聞き覚えのある名に反応してしまうくらいには、どうやら僕は彼女を求めていたらしい。

 その日は天気がよく、散歩がてら少し寄り道をしようかと新しく出来たと思われる店を見ていた。ふと目に入った桜の散りばめられた便箋を思わず手に取った時だった。


――芦原家のお嬢さんの話、聞きました?

――ええ! まさかあのお嬢さんが…


 声の方に顔を向けると、店の入口のすぐ横で、何人かの奥様らしき人が立ち話に勤しんでいる。僕が視線を向けたことに気づかない程夢中になっているようだ。

 アシハラ――――芦原…?

 このあたりで芦原といえば、璃乃の家系しか存在しない。分家には、璃乃と同じ年頃の娘はおろか、子ども自体いなかったはずだ。

 期待か、不安か。大きく鳴る心臓を無視して、耳は彼女たちの発する音を拾おうとする。抑えたような、それでも若干甲高い声が空を震わせる。


――精神のご病気を患ってしまっていたとか…

――まあ、本当ですの?あんなに明るい子だったというのに

――どうも存在しない恋人の妄想を繰り返していたそうよ

――芦原家も大変ねぇ

――三井家のご長男との御婚礼も差し迫っていたというのに


――雨の日に家を飛び出して行方不明になってしまうなんてねぇ


「え…」


 誰が――璃乃が―――――行方不明――どうして―――――だって璃乃は――何で―――記憶は消したはず―――――恋人―――覚えているはずはない――――消した――確かに僕が―――消したんだ―――――璃乃――なんで――――どうして――――


 視界が回る。揺れる頭を抑えた。手にしていた便箋が音をたてて床に落ちた。桜の花びらが床に散らばる。あの日、あの雨の日、璃乃の髪から落ちた花びらと重なる。


――――璃乃!


 僕は店を飛び出した。



 気が付いたら、僕は預り屋の店にいた。木製の扉を背にずるずるとしゃがみこみ、荒い呼吸を繰り返す。首筋を冷たい汗が伝った。落ち着かない思考のまま先程聞いた言葉を繰り返す。


 「芦原」

 「精神の病気」

 「ありもしない恋人」

 「行方不明」


 僕が、あの時逃げてしまったから。

 璃乃のいない現実から逃げて、彼女達から僕を消してしまったから。

 だから、璃乃は壊れてしまった。


「璃乃……っ……」


 久しぶりに口にしたその名は、声にならなかった。



 *



 それからしばらくたって、僕は「莉緒」を預った。

 黒髪の、大きな瞳の少女。


「皆、私には近づかないから。私は娼婦の子だから」


 父親に道具としか思われず、愛されることを、愛することを知ることのできなかった少女。

 なぜか僕は彼女と璃乃を重ねていた。ころころと表情を変えていた璃乃とは違い、莉緒は表情自体めったに変えなかった。今でこそ子どもらしい表情を見せるようにはなったのだけれど、あの頃の莉緒は感情というものを全て消し去っているようだった。なのに、どうしても璃乃を思い出してしまう。


「消して! 私なんかいらない! 消えてしまえばいい! すべて消えて! 存在なんていらない! 私を消して! ……私を…預って…!」


 彼女は自分を預けることを望んだ。そして僕は、彼女の望み通り預った。

 それが正しかったのかどうか、今でも分からない。

 莉緒を預ると決めてから、僕はまず記憶を預ることにした。いくら大人びているとはいえまだ幼い彼女では、この記憶を持ったままでは精神が壊れてしまうと思ったから

 いつか、彼女が受け入れられる時が来たら返そうと。せめて、それまでは穏やかに過ごせるようにと。

 透明な、何も入っていない瓶に、記憶を預る。

 これで何人目になるのか。慣れてしまった手で瓶の蓋を外した。

 途端、目の前から僕の部屋の風景が消えた。頭の中に直接見える、違う景色。



 さして広くない部屋。一つのベッドと、テーブルと、他にも簡素なものがいくつか。裕福な家でないことは分かる。けれど、どこか暖かい。白いレースのカーテンを通した柔らかな光が当たる窓辺。木製の椅子に座って編み物をする一人の女性と、女性に駆け寄る少女。二人ともそっくりな艶やかな黒髪を背中に流している。

 女性の腕の中で、少女は――今よりももっと幼い莉緒は、無邪気に笑っていた。


「お母様」


 そう言って頬をすりよせる。その視線の先には――――



「璃…乃……?」


 僕らしくない、珍しく焦った声。

 今、頭の中に流れこんできた映像は…莉緒の記憶…? 今までこんな、人の記憶が見えたことなんてなかった。

 しかも、今見えたのは間違いない、璃乃だ。記憶の少女――莉緒は璃乃のことを「お母様」と、そう確かに呼んでいた。

 ベッドに横たわり穏やかな呼吸を繰り返している少女と、手の中の蓋の閉められた透明な瓶を見る。

 シーツに散らばった黒髪に手を伸ばした。


「ごめん…」


 こぼれ落ちた言葉。


「ごめん」


 シーツの上に、丸いシミがいくつか広がった。それはいくつもいくつも、言葉と共にこぼれ落ちていく。


「…ごめん……っ…」


 誰に向けているのか、自分でも分からなくなってくる。それでも言葉は止まらない。

 空洞のように見える瓶の中身が、微かに揺れ動いた気がした。



 *



 僕は、璃乃を守れなかった。

 だから、せめてこの子だけでも守ろう。

 璃乃の大切な子を、守ろう。

 愛されることを教えよう。

 愛することを教えよう。

 ここで。この「預り屋」で。

 莉緒を、

 リオを、守ろう。


「僕の名前はシキ。この『預り屋』の店主だよ」


 目を覚ましたリオにそう言った僕は、ちゃんと微笑んでいられたのだろうか。



 *



 静かなノックの音に、僕は懐中時計から視線を外した。お客様が店に来たのならば、僕にはすぐ分かる。だからこれはきっとリオだろう。そう思い、返事を返す。

 ドアが開けられる。肩で切りそろえられた真っ直ぐな黒髪が、リオの動きに合わせて小さく揺れる。いつものように感情のない表情。強くもなく弱くもなく、何とも言えない光を灯した大きな瞳が、僕の姿を映し出す。

 それはいつものことのはずなのに、どうしてか、僕は違和感があった。


「リオ、どうしたの……」


 リオの後ろに人がいることに気づいて言葉を切った。

 お客様…? だとすれば、なぜ僕がそのことに気づかなかったのだろう?

 そう考えたのは一瞬で、その姿を見た瞬間、目を見開いた。

 背中まで伸ばされた真っ直ぐな黒髪が空を踊る。桜の花びらが見えた気がした。大きく見開かれた黒の瞳に、僕の姿が映し出される。

 どうして、ここに、彼女が――――


「し…き……?」

「璃乃…」


 かすれた声が、喉の奥から空気のように出てくる。何度も、何度も呼んだその名前を。

 璃乃は何も言わない。

 僕もそれ以上の言葉が出てこない。

 ただ、リオだけが真っ直ぐに僕に瞳を向けて、静かな、けれど部屋に響く声で言った。


「シキさん…いえ、識さん。お迎えが来ました」


 リオの言葉とともに、遠くの部屋で、ガラスの割れる音がした。

 それがあの部屋の透明な瓶だと分かったのは、いつかこんな日が来ることを心のどこかで望んでいたからだ。


――――――カチリ。


 手の中で、あの日以来初めて懐中時計が音を立てた。



 そして知った。

 もう、僕はこの店の店主ではなくなってしまったことを。





 ここは「預り屋」

 預けたいものなら何でも預ります。それが形あるものでも、無いものでも、何でも。


 此処に預けられているモノ達は、時を待っている。

 薄暗い棚の奥から、太陽の下に出される時を。

 温かな手で触れられる時を。

 いつか、

 いつか、迎えが来る時を待っている。




 僕も待っていた。ずっと、この店で。


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