封筒
ここは「預り屋」。
預けたいものなら何でも預ります。それが形あるものでも、無いものでも、何でも。
そう言って微笑む彼のもとに来てから、何度季節が巡ったのか、私は知らない。
色の禿げた窓枠から薄いレースを介して入ってくる柔らかな陽の光。
髪を揺らす心地の良い風。
時折訪れる、様々な思いを、そして預けものを抱えているお客様。
優しい微笑みと共に私の名前を呼ぶあの人。
ここに預けられている様々なもの。
それを知るだけの時間をこの店で過ごしているけれど、私は、『預り屋』のどれだけのことを知っているのだろうか。
いつものお茶の時間になっても部屋に表れないシキさんを探しに廊下に出ると、左斜め前三つ目の扉が開いて、探していた人物がそこから顔を出した。
何故か埃まみれで。
「リオ、もしかしてお茶の時間だったかな?」
「…ええ…」
どうやら追求しないでおくのがこの状況では適切らしい。しかしそのままでいられると後の掃除が大変なので、手で肩や服についた埃を払うシキさんを手伝う。届かないところはシキさんに屈んでもらった。
一通り払ったところでシキさんはありがとう、と微笑むと部屋の中に入った。
「ところで、何を探していたんですか?」
「ああ…封筒をね、探してたんだ」
「封筒…ですか?」
「うん、普通の茶封筒。どうも風に飛ばされたらしくて…」
困ったという表情でほこりを払う。いい天気だからと、あちこちの窓やドアを開けて空気の入れ替えをしていたのが悪かったらしい。
開け放たれた窓を見て、ふと思い立つ。
「もしかして、外に飛ばされてしまったのでは…」
「いや、それは絶対にないよ」
疑問に思ったことを口に出すと、即座に否定された。その否定の仕方がなんだかシキさんらしくなくて、首を傾げる。そんな私に気付いたのか、シキさんは苦笑しながら言葉を続けた。
「前に、ここが外とは違うと話したことがあったよね」
それなら覚えている。
『預り屋』は、確かに外と繋がっている。時間も、場所も、「今」に繋がっている。しかし、店自体の存在は曖昧なもの。ここを必要とする人しか気づくことはできないし、まして入ることもできない。
シキさんはその理由を知っているようだったけど、あまり積極的に話そうとはしない。きっと聞けば答えてくれるのだろうけど、そこまでして聞こうとは思わなかった。きっといつか、私にも分かる時がくるのだろうと、根拠もなくただ漠然とそう思っていた。
「シキ」はシキさん。この預り屋の店主。そして「リオ」と、微笑んで、私の名前を呼んでくれる人。
それだけでいい。それが、いい。
「リオ?」
シキさんの声でふと我に返る。考えている間、どんな顔をしていたのだろうか、少しだけ眉を下げて心配そうにのぞきこんでいた。「なんでもありません」と返すと、ほっとしたように微笑む。
「ところで、何故外に出ていないと分かるのですか?」
「ここの空間は、必要とする人しか入ることはできない。それは知っているね?」
確かめる言葉に頷く。
「外から風は入る。日光も届く。花びらや木の葉が舞い込む時もある。それらはある意味形の変わらない自然のもの。自然は、自然のままに動くことを必要としている。だからこの店は受け入れるんだ。けれど、そうでないものはこの店を勝手に出入りすることはできない。そもそも、この店はどの時間とも、空間とも繋がっているけど、繋がっていない。ここは、そういう空間だから」
「…よく、分かりません」
俯くと、頭の上に暖かいものがのった。感覚で分かる。シキさんの手だ。顔を上げると少しだけ目を細めたシキさんの顔が映った。
「まだ分からなくてもいいよ。それに、封筒はこの店にある。僕には分かるからね」
また首を傾げそうになったが、自信を伴ったその言葉に、そういえば、と気付く。
回数は圧倒的に少ないが、リオがこの店に来てから何度か、預けたものを取りに来たお客様がいた。そしてその度に、シキさんがきちんとその人が預けたモノを探し当てていたことを。もし、シキさんが預けられたものの場所が分かるのだとしたら…
しかし、同時に新たな疑問が出てきた。
「…ならば、どうして詳しい封筒の場所が分からないのですか…?」
シキさんは「ハハ…」と微笑みながら乾いた声を漏らす。
「僕にもよく分からないんだけど…普段、預ったもののなんとなくの位置は分かっても、はっきりとした場所はその時にならないと分からないんだよ。部屋は分かっても、その棚の場所までは、自分の目で探さないと見つけられない」
「その時?」
「うん、預りものを取りに来る時、それが『その時』だよ。『その時』が来れば、はっきりと分かるようになるんだ」
その言葉で、とある女性のお客様を思い出した。彼女は、かつて預けていたものを取りに来たのではなく、新たに預けにきた。その時も預かり物を探していたようだが、今回のように埃まみれになっていた。絵描きのおじいさんの時はそんな様子もなかったのに。今ならその理由も分かる気がする。
あの時、シキさんは預りものの場所をはっきりと分からなかったからあんな埃だらけになっていたのだ。
一人納得をしていると、なんだけど…とシキさんが言葉を濁らせた。じっとその明るい茶の相貌を見つめて、続きの言葉を促す。
「…あの封筒は、正しくは預りものではないんだよ。預かっていたのはとある本で、その封筒はそこに挟まっていたみたいなんだ」
と言っても、僕もついさっき気づいたんだけどね、と苦笑した。
「もともと預けられたと認識していたものが本の方だったせいか、その封筒の感覚が弱くて、正直この店の中にあることしか分からないんだ」
なるほど。よく分からないけれど、確かにそれは困ることなのだろう。
私も封筒を探しに左右に等間隔に並んだ扉の一つを開けた。
*
シキさんは、私がそれを知っていることを知らない。
小さなテーブルと、その上の二つの瓶、そして優しい蒼の石のペンダント。
瓶の一つは蓋が開いている。
もう一つは、何も入っていないにもかかわらず、蓋がされている。
蒼いペンダントは窓からの光を受けて瓶へと反射し、何も入っていないはずの瓶の中身を揺らめかせる。
何のための部屋なのか、誰の預けものなのか、私は知らない。
知らないはずなのに、何故か分かってしまった。
*
いくつかの扉を開けて、中を確認していく。高いところは私では見えないから、後でシキさんに頼もうと、机の下や本棚の隙間を見ていった。
そうして見つからなかった部屋の扉から出て廊下の先を見ると、茶色い薄い四角いものが落ちているのに気づいた。
近づいていくにつれて、それは確信に変わった。つかもうと手を伸ばすと、その封筒は窓から入ってきた風にふわりと浮き上がって、手の中をすり抜けていった。その先を目で追うと、何故か少しだけ開いた扉の中に、招かれたように吸い込まれていく。
私は少しだけ扉を開いて、顔を覗かせる。そこは他の部屋と同じ作りをしていたけれど、棚も、椅子もなくて、広々としていた。そんな寂しい空間の真ん中に、一つだけテーブルが置いてあり、丁度その下に探していた封筒を見つける。
部屋に足を踏み入れると、すぐに封筒を拾い上げる。意外にも埃が溜まっていないことに気づいた。
顔を上げて、テーブルの上を見た。
二つの瓶、そして優しい蒼の石のペンダント。
瓶の一つは蓋が開いている。
もう一つは、何も入っていないにもかかわらず、蓋がされている。
透明な瓶に触れようと思って、止めた。伸ばしかけた手を下ろす。
何故だか、触ってはならない気がした。
*
「シキさん、封筒ってこれですか?」
手渡すと、シキさんは少しだけそれを見つめて、そうして微笑んだ。
「よく見つけたね。どこにあったの?」
早速本の間に挟み込みながら、そう尋ねた。
「廊下に、落ちていたんです」
言ってはいけないと思った。
あの部屋は、
あの瓶は、
あのペンダントは、
シキさんの、
そして『預り屋』の大切なものだと思ったから。
*
私がそこを知ったのは偶然だった。けれど今思えば、それは必然だったのかもしれない。
そんなこと、誰にも分からないけれど。
*
預り屋は「今」と繋がっている。
けれどどことも繋がっていない。
必要のある人しか入ることのできない空間。
あの古びた重そうな木製の扉を開けて、誰かがここに来るのだろう。
そして大きな棚の陰から恐る恐る中をうかがうんだ。
私はいらっしゃいませと、いつものように丁寧に迎えるだろう。
「預り屋へようこそ」
と。
ここは「預り屋」。
預けたいものなら何でも預ります。それが形あるものでも、無いものでも、何でも。
それが、きっと『預り屋』がある理由だから。
シキさんが望んだ形だから。




