第一章11 『回帰』
ヒーロー。英雄。聞いたことがない言葉だ。
なぜか響きだけは知っている。しかしそれが意味するところはなんだろうか。
そしてなぜこうも、じわりと心を侵食してくるのか。
「ヒーローって、なんだ? なんなんだ? ……聞いたことがない」
「……嘘、ですよね? この世界で、聞いたことがないなんて……というか、それこそあなたが知らないはずないんですけど」
シラガは困惑し切っているが、まず何よりも輝義の方が困惑している。突然聞いたことがない言葉を聞かされ、それに関して夢がどうのこうのと……このシラガは電波なのだろうか。白髪電波女はいろいろな意味で少し危ない。
「あなたが言ったんですよ? 自分達で悪役を演じて、腑抜けたヒーローを更生させようって」
「俺が? そんなわけないだろ。――だって、俺はそんなモノ知らないんだから」
「――――」
ああ、そうだ。自分は……輝義は、そんな言葉を聞いたことはない。であるからして、そのような世迷言を言うはずもないのだ。
だいたいなんだ、悪役を演じるって。馬鹿げている。悪役というものは、演じるものではなく自然となってしまうものだろうに。
……って違う。そうではなくて。
「知らない、けど……なんか、妙に苦しくなる。それ聞いてると」
胸の辺りに湧き上がるじくじくとした痛み。精神を搾り取られるようなその感覚は、決して心地の良いものとは言えない。むしろ息苦しく、今すぐにでも解放されたい。それなのに、
「……っ! やっぱり、あなたは知ってるはずです! そんな、あれだけ熱意的にヒーローのことを語っていた人が忘れるなんて……! ――あり得ない!!」
シラガは次々とその言葉を用い、しつこいまでに輝義を追い詰める。
やめてくれ、聞きたくない。その言葉は毒だ。足が震え、背中に脂汗が浮かぶのを感じた。
「知らない、知らないんだよ……! だからやめろ! その言葉を、俺に向かって言わないでくれ……」
脳が、軋む。
ぐらぐらと揺れる。軸がブレ、段々と視界にノイズが走り始める。おかしい、何かが、おかしい。
変わってしまった街。知らない言葉。それに翻弄され、歪な闇に支配されていく精神。
このままでは輝義は――狂う。
「くっそ……!」
「あ、ちょっと――!?」
とてもではないがこの場にいることなどできなかった輝義は、逃走を選んだ。どこでもいい、ここではないどこかへと――
「この……汚らしい奴! なんの説明もなく、私を置いて逃げないでくださいッ!?」
知ったことか。そもそもシラガのことなど一ミリも興味がない上に、初対面にここまで礼儀無しな態度を取る奴と関わる気もない。もうこれっきり、二度と会うことはないだろう。
「どこか、遠くへ……この街じゃないところへ……!」
脳内でエコーする『英雄』という言葉。『ヒーロー』という言葉。
呪いのように輝義を蝕むそれは、いくら走っても消え去ることはなかった――
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六駅分を、息も絶え絶えに走り再び帰り着いた英市。なぜ自分はこんなところまで来てしまったのだろうか。
自分が帰るべき街は、もう輝義の知っている街ではなかった。この街も、輝義の街ではないはずなのに。
「ッ、ハァ! はぁ、はぁ……!」
途中倒れながらもここまでほぼぶっ通しで走り抜いたのだ。体力的にも余裕はない。ただでさえ、精神的な余裕も失われているというのに……これでは、人生終了まで真っしぐらだ。
「水、食べ物……クソ、財布どこに行った……!?」
夕暮れからあの街を飛び出し、すでに明日の昼前である。何かに取り憑かれたかの如く重い身体は、長距離に耐えてはくれなかったため時間がかかりすぎた。
もともと、どこを目指して走っていたわけでもないが。
とにもかくにも、今は水と食料をどうにかしなければ――というのに、肝心の財布がない。
「落としたか……? ああもう、なんだってんだよ!!」
水はまだなんとかなる。その辺の公園の蛇口を捻ればいくらでも溢れ出すことだろう。
しかし食料は? この街に輝義の帰る家はない。つまりどこかで調達しなければならないのだが、前述の通り金はない。スーパーの試食コーナーにでも手を出そうかと考えたが、今の自分のボロボロな格好ではホームレスか乞食と間違えられてしまう。
……もしや、輝義の人生、本当に詰んだのではないか。
「い、いや……一日二日程度なら飲まず食わずでも耐えられる……けど」
それ以降はどうしようか。考えがまとまらない。
衰弱し切った脳は、水と食料と、そして睡眠を求めている。
「……もう、駄目だ――」
結局輝義は、その場ですぐに実行できる睡眠を選んだ。
人通りの少ない路地だったことが幸いしたのか、地面に倒れ込む輝義に近寄る影はない。……あるいはそれは不幸か。
彼は死んだように眠る。
――その間も、『英雄』、『ヒーロー』は脳内で暴れていた。
グルグル、グルグルと。
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目を覚ませば、再び夕暮れを拝むこととなった。
誰も輝義を見つけてくれなかったのか、ボロボロのまま地面にうつ伏せになっていた。身を起こし、痛む身体の節々を解す。
頭痛や耳鳴りは未だするものの、思考そのものは多少澄んできた。思考がまとまらず錯乱するということもないだろう。
であれば、まずすることは。
「食料、水の調達……クソ」
腹が減りすぎて、むしろ胃が痛い。このままでは食料にありつけてもすぐに戻してしまいそうだ。
丸一日何も飲まず食わずで生きてきたことはなかった。……現在の輝義の記憶には齟齬が多すぎて当てにならないかもしれないが。そんな曖昧な記憶から言わせてもらうと、そろそろ限界に近い。
普段から少食であればまだマシだ。しかし輝義はそうではない。なかなか活動的であるため、通常の成人男性よりも多く食事を摂る傾向にあった。
「早く、食うもの……!」
こぼれ出る言葉も段々と単調になってきている。無意識のうちに焦っている証拠だ。このままではいずれ、輝義はまた倒れてしまう。
ただ当てもなく路地を歩く。いっそ誰かが通りかかってくれれば、とは思うものの、自分から面倒ごとを抱えてくれるような人間などそうそういないのだ。
考えられる希望も既に尽きた。このまま輝義は死んでしまうのだろうか。
「……ちくしょう」
自ら招いた失態。なぜ財布を落としてしまったのか。何を考えこの街まで走ってきたのか。そもそも、自分は何から逃げていたのか。
単純にあの街から逃げるにしても、街に行ったのと同じように電車を使うなり様々な手法を取れたはずだ。なぜ走ることに拘った。
――あの街では、走ることが唯一の移動手段だったからか。
昔のことだ。輝義は悪ふざけをはたらく友達と共に、あの街を駆けずり回っていた。それこそあの街で知らないことなどないほどに。
それに自転車などは用いない。ただひたすらに、自分の足のみで走る。
自転車を使う者は裏切り者だったし、外で元気に駆けずり回る姿は親を安心させもした。だからあの街では無意識のうちに『走る』ことに執着していた気がする。
「……この記憶も、どこか間違ってんのかな」
寝たのは五時間程度か。それだけ寝ても消耗した体力は回復せず、輝義の意識を朦朧とさせていく。
――そして、ある地点に辿り着く。
「な、何してんの……?」
「――――?」
聞いたことのあるような……ないような声。そしてまたもや痛烈な印象を与える、蒼天を思わせる頭髪。
知らない人のはずた。だがその声はたしかに輝義に向けられている。どこの誰だ。なぜ自分のことを知っている。
――コイツも、あのシラガ同様の『ウザい奴』なのだろうか。
見ただけではわからない。その目は心配しているようにも、どこか怯えているようにも見える。だから、訊こう。
「……お前、も?」
俺を苦しめるのか。
あのシラガのように、わけのわからない言葉と主張で翻弄し、錯乱させ自滅へと追いやるのか。
「お前も、俺を知ってて……知らないのか?」
お前もあのシラガのように、俺を知っていて……そして、俺を取り巻く不可思議な状況の正体を知らないのか?
期待を半分滲ませ問う。しかし蒼髪の少年は困惑と恐怖の色を濃くするばかりで、
「は、はぁ? 何言ってんのかサッパリ……」
絶望の言葉を口にした。
――裏切られた。期待を裏切られた。期待を裏切るのは悪いことだ。期待する方が悪い? それは違う。期待させる方が悪い。そういう態度を、行動を取る方が悪い。悪い奴は謝らなければならない。土下座し、許しを請い、その上で断罪されるべきだ。コイツは自分を裏切った。だから輝義に対し土下座し、許しを請わねばならない。そして輝義に断罪されなければならない。だから、さあ、土下座しろ。まずはそれからだ。
頭に浮かぶ呪詛をいざ吐き出そうとしたその絶妙なタイミングで、少年が新たに口を開いた。
「そ、それよりも約束! 元ヒーローのオッサンにやる気を出させるんでしょ。そんで早くアレ返してよ」
それよりも? アレを返して?
またもや不可解な言葉が輝義を追い詰める。同じだ、あのシラガと。コイツもアイツと同じで――そして何より、
「元、ヒーロー?」
再び脳内に渦巻く『英雄』、『ヒーロー』。知らないはずのその言葉は輝義を蝕み続けていた。それどころか、今の一言でそれがより強くなったように思える。
辛い、眩暈がする。立っていられない。その言葉だけは――俺に向かって吐くな。
「なん、なんだよ」
そのわけのわからない言葉を吐くな。
「なんなんだよ、なんなんですか?」
記憶に存在しない出来事で俺を惑わすな。知らない言葉で俺を翻弄するな。
なんなのだこれは。呪いなのか? 理解不能。ただ恐怖と苦痛だけが輝義を蝕んでいく。
怖い、怖い怖い怖い怖い怖い。
なんなんだよ――
「――ヒーローって、なんなんだよ!?」
自らの声から漏れた叫びは悲痛で、卑劣で、無知だった。……まさか自らが吐くことになるとは思わなかった、言葉だった。
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「――今頃アイツ、どうなってるだろうなぁ」
紫色の髪を惜しげもなく晒す中性的な人物。名前を於菟という元ヒーローは、一昨日接触した『成り損ない』について想いを馳せる。
想いといっても、『どれだけ絶望しているのか』という最低最悪極まりないものだったが。
於菟の持つ能力である『オペラ座の英雄』は主に『後悔』を扱う。
結界を用いた能力行使では、その結界内にいる者の最も強い後悔を強制的に、蜘蛛の姿として召喚する。これは、後悔を忘れて生きようとする数多の生物に有効な能力である。
しかし、稀にいるのだ。――後悔そのものを生きる支柱とする、酷く後ろ向きで厄介な奴が。
「『成り損ない』にそんなのがいるとは思わなかったなぁ。……アイツら、弱いからねぇ」
単なるヒーローの成り損ない。英雄の劣化物。神クラスの於菟に比べればひどく脆く、弱い存在に違いない。そんな相手に『オペラ座の英雄』のもう一つの能力を使わねばならなかったかと思うと……。
於菟が、そんな彼らを殺そうとする理由は何か。
人々を救うヒーローであったはずの於菟が、人々に恐怖を与えてしまうようになったのはなぜか。
「ほとんど忘れた。けど……その原因だけは、忘れない」
現在の行動に行き着くまで様々な寄り道や意思が介在しただろうが、それら全ては些細なものとして切り捨てる。
突き詰めれば簡単なこと。ヒーローは悪を断罪するためにいる。……ならば、
「悪者である『成り損ない』はぁ、――殺さなきゃ」
許さない。絶対に、彼らを許さない。
彼らのせいで、多くのヒーローは――
「だから殺すんだよ。殺して、殺して、殺して……殺し尽くして、そうして力を取り戻す。ヒーローが輝いていたあの頃と、同じだけの力を」
「――ふぁ、けんな……!」
「あン?」
一人呟いていた於菟のそれに反応する声は、今にも消え入りそうで、
「悪者は、どっちだ……ちくしょう、ちくしょう……!」
「はぁ? お前らに決まってんじゃん? ……ねぇ、お前の『後悔』の味はどうだったぁ? 久々に思い出して、死に物狂いで逃れようとして、それが無理で、鮮明に記憶に植えつけられたその『後悔』は――どんな味がした?」
這い蹲るその男も『成り損ない』の一人。於菟が殺そうと、その能力を用いた結果。
自らが持つ最も大きな『後悔』に飲まれ、耐えることのできなかった雑魚はやがて息絶える。その前の悪足掻き。
「その味を死んでも忘れるな。お前達は最後の最後まで苦しんで死ね」
「ッ、がぁ、ぁああああ――ッ!」
『成り損ない』の男の手から、眩い光が放たれた。
……だが、それだけだ。中途半端な能力は、於菟が作り出した結界の闇すら払えない。本来であれば風穴一つでも空けることができようその光線は、於菟に届く前に掻き消えた。
「じゃあね凡骨。来世も苦しみ死に絶えろ」
「――――」
――そして、その男は死んだ。あまりにも呆気なく、断末魔すら上げずに。
『幻神』於菟。元ヒーローは、今日もまた『成り損ない』を殺す。
殺して、殺して――殺すのだ。
だんだん連日投稿辛くなってきました。これからは5000文字書いたら投稿する形で行きたいと思います。




