最終話成立過程
落選した私は俊の秘書を務めることとなった。その中で俊はわざわざ私のために平和党のベテラン議員さんに頼んで平和党自転車議員連盟というものを作った。議員連盟を作ったことで私も部外者ながら顧問として入れてもらえることとなった。議員連盟には平和党の議員さん以外にも与党民友党の議員さんやほかの野党の議員さんも参加してくれた。それだけ自転車に対する関心があったことを知り私はとてもうれしかった。
それから4年後与党民友党は追い込まれていた。第2次神崎内閣は総理の病気により退陣、その後宇佐美内閣は失政と党内対立により1年で総辞職、大串内閣は参議院議員選挙の敗北で退陣そして現在は山田内閣だがすでに内閣支持率は12パーセントとなってしまい起死回生のためにも内閣改造をしたがまったく変わらないという状態だ。内閣改造をした後に閣僚の中から疑惑を持つ人がわずか9日で辞任したことが大きな原因だった。
国民の中ではすでに平和党政権が確実だとまで言われている。
そんななか衆議院議員の任期切れまであと1週間と迫った山田改造内閣はついに衆議院を解散した。そんな中で与党民友党からは造反者も出ていた。
私は今回も神奈川3区から平和党の公認を受けて立候補をした。前回厚生労働大臣であった長塚氏は現在は民友党筆頭副幹事長という微妙な立場にいる。筆頭副幹事長とかいったい何をやっているのだろうか? 完全に名誉職であると思う。県連の中には長塚氏を落選させれば政権交代の象徴にまでなるという人もいる。そんなわけで私は人生2度目の選挙へ愛用の自転車と共に挑戦した。
「平和党公認候補佐藤、佐藤俊彦をよろしくおねがいしまーす」
ちゃりんちゃりん
私は徹底的に自転車で選挙をした。選挙カーなんて使わない。お金がないというのもあるが、自転車を使う人のためにも住みやすい社会にする。それが私の政権公約であった。なので、自転車で選挙をすることはその宣伝にもなる。そう考えたのだった。そして私の読みは当たった。
そして、見事に長塚氏を辛くも237票差で破り私は初当選を果たしたのであった。もちろん、平和党は298議席と圧勝し俊介も2期目の当選を今度は小選挙区で果たした。私は初当選を果たしたとき夢か現実かはっきりと理解できなかった。テレビで政権交代の象徴として取り上げられたときは本当に驚いたものだ。しかし、長塚氏が比例復活したことを考えると油断はできなかった。
これからだ。これから自転車の社会をようやく作れる。私は気持ちを新たに入れ替えて当選後平和党本部に行き挨拶、その後国会に初登院をしていよいよ1期目の政治生活を始めた。
ただ、1期目は政治家としても下準備の時期であり私がやりたかった仕事はあまりできなかったというのが感想だ。一応、平和党自転車議連の副会長を1年生議員ながらやらせていただいた。後は、衆議院国土交通委員会で自転車について政府見解を求めた。それぐらいだ。国会の国土交通委員会はニュースでも注目される機会がなかったので淡々と議論が進んでいた。実際に、自分で国会論戦をするのはテレビの国会中継やニュースを見ているのとだいぶ違った。
こうして私の1期目は終わった。衆議院はすぐに解散されたため2年間の1期目が終わり次の選挙では長塚氏がさすがというべき力を見せて1203票差で負けてしまったが平和党が第一党を維持し比例代表の票もトップということで悔しくも比例南関東ブロックで比例当選を果たした。それが2期目の始まりだった。
2期目は新たに中野井内閣が成立した。私はその中で国土交通大臣政務官に任命された。中野井さんの配慮だということが分かった。私は頑張って働き始めた。古巣の国土交通省を敵に回さないように慎重に自転車に対する見解を求めていった。ただ向こうにも私に対しての役人時代の警戒心が残っており、結局は私が個人的に出した議員立法自転車基本法は廃案へと追い込まれてしまった。
1年近く国土交通大臣政務官を務めた私は次に平和党幹事長代行に着任した。幹事長代行何て特に仕事はなく名誉職も同然であったがここで私はしばらく次の政策への休憩とできたことから中野井総理がわざと選んだということに気が付かされた。
2期目も終わり3期目へと突入することとなった。長塚氏は政界を引退し後継には西山修氏がなった。私は自転車選挙をまたまたして町の人からあなたは相変わらずねと評判を受けた結果西山氏をダブルスコアで破り自身初の圧勝となった。ちなみにちなみに、もちろん俊介も小選挙区で当選をしている。今回は平和党に風が吹いたということだ。
3期目にして私は第2次中野井内閣の国土交通副大臣に任命された。もともとはまた政務官という話であったが中野井さんが側近の梶原官房長官や尾井副総理の意見を押し切ってまで採用したそうだ。
だから、私は頑張らないといけないと思った。この副大臣の任期中に私は自転車運動と言うものを始めた。積極的に自転車に乗ろうというものだ。もちろん、理由がある。環境に悪い車や、運動をしない人のためにも自転車は良いと宣伝することだ。これは国土交通省だけでなく環境省、文部科学省、内閣府まで巻き込んだ計画だ。その結果、自転車に乗る人は微増したが官僚の中には自転車が素晴らしいと思い直す人も出てきてある意味作戦は成功したと言える。
4期目。
衆議院国土交通委員会委員長になった。私は中野井派に属していたため中野井総理が任期満了で総辞職すると対抗派閥の佐々木圭吾元財務大臣が総理総裁になったため不遇の時代がやってきた。なので、目立った成果を残すことができなかった。しかし、自動車議連で毎週多くの議員さんと話し合うことが不憫だと感じることのない唯一の救いでもあった。
5期目。
4期目の活動があまりなかったため危うく選挙では小選挙区で落選しかけたが、4期当選してきた安定した票で見事当選を果たした。固定票を作ることができたことはうれしい。そして、固定票が生まれてきてもなお自転車選挙は未だ続いている。平和党の一部の議員特に若手の議員は私のまねをするようになった者さえいる。うれしいことだ。
久保内閣が成立した。幼馴染の川崎俊介が6期目にして初めて内閣府特命担当大臣行政改革担当として初入閣を果たした。本人は前日に会食をしたときにこうぼやいていた。
「どうせ、初入閣をするのだったら厚生労働大臣がよかったな」
俊は介護分野が専門だった。そのためにも政治家になったのであって厚生労働大臣になることは悲願の夢なのだ。
私は再び国土交通副大臣として仕事に励んだ。
6期目
私はなぜか初入閣をせずに平和党の幹事長になっていた。これは総裁に原因があるのだ。今の総裁は何と俊だ。俊は内閣府特命担当大臣、厚生労働大臣、幹事長を歴任しついには内閣総理大臣になっていたのだ。そんな彼は私を初入閣させずに幹事長にしたのだ。彼の言い分はどうせ、
「俺だって、初入閣が自分の期待通りじゃなかったらお互い様だろ」
とか言うにきまっている。ただ、2年が経って高支持率の川崎内閣はいや、川崎改造内閣は2度目の内閣改造をすることとなった。そこで私はついに念願の初入閣を国土交通大臣で納めることができた。
「私が国土交通大臣となったのは……」
就任後の記者会見では絶対に成立させてやると言った自転車社会構築法の説明をした。マスコミからの反応はいろいろであったがこれからどうにかしなければならないな。私にはそう感じることができた。私が国土交通省で必死にこの法律について粘り強く説明を繰り返しているうちに一部の人がついてくれることとなった。そのことはありがたく感謝してもしきれないものだ。
そして、衆議院は解散し投票日の午後8時に私の7期目の当選が決まった。
それからしばらくして新内閣発足のニュースが流れる。内閣総理大臣の俊自らが閣僚名簿を発表している。
第2次川崎内閣
では閣僚名簿を発表します
内閣総理大臣川崎俊介
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国土交通大臣
内閣法第九条指定第一順位大臣(副総理)佐藤俊彦
内閣府特命担当大臣海洋政策担当
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私は第2次内閣でも再入閣をした。ただ、その時俊が私を副総理にしてしまった。副総理になんか興味がなかったのに迷惑なことだ。国土交通省を根回しにした私は野党議員相手に衆議院予算委員会や国土交通委員会でも徹底的に説明をし続けた。
そして、ついに時期が来たと思い法律を国会に提出したのだ。議員立法としてではなく内閣提出の法律としてだ。国道交通委員会で可決された後、参議院で可決。法案は参議院を通り、衆議院についに送られた。
「ではこれよりこの法案に賛成の方は起立してください」
山岡議長がそう発言する。本会議場にいたすべての議員が起立した。山岡議長は議長席から議員席を見渡す。
「本法案は只今満場一致で可決されました」
山岡議長はそう言う。
ようやく、ようやく私の夢はかなった。自転車のためにももっといい社会を作っていかなければならない。これはゴールではない。新たなスタートなのだ。
自転車には可能性がある。環境にも良い。健康にも良い。だから、もっともっと多くの人にその素晴らしさを伝えていきたいと思う。そう、それが私の政治家としての使命である。自転車を世間からのいい評価にするために私はもっともっと努力しなければならないのだ。
今回で最終回です。短い間ありがとうございました。