ラインイントゥーザスカイ
「柳瀬様」
柳瀬が銀行での手続きの最後に印鑑を押そうとした時、女の行員が彼を制した。
「その欄には手書きでのサインで結構です。こちらのペンをお使いください」
「いやあ、使えと言われても」
差し出されたペンを受け取り、少し困った表情で誓約書にペンを走らせる。書き終えたのを見計らって行員が自分の元に誓約書を引き寄せる。
「ありがとうございます。それでは確認を……」といつも通りの仕事の会話を始めようとしたその時、契約書からカサカサと何かが動いているような音がした。
不信に思った行員が誓約書を見てみると、
「文字が……」
思わず言葉を失った。先ほど柳瀬が書いた文字が行員の目の前で浮き上がり、扉の方に向かって飛んでいってしまった。
「こうなっちゃうんでねえ」
そういうと、柳瀬は行員から誓約書を奪い取り、手慣れた手つきで印鑑を押し、呆然としている行員に「早くしてくださいよ」と催促し、手渡した。
まったくこの性質ときたら本当に使えない。字を書こうにも書けない。なんでこんな性質になってしまったのか。そう思えたことは今日も含めたびたびあった。
しかし一度だけ、役に立ったことがある。
それはビル火災が付近で起こった時である。
柳瀬は自らの性質に機転をきかせ、巨大な階段を書き上げ、ビルの屋上に避難し、逃げ場を失った人々を救出したのだ。
それ以来、柳瀬はちょっとした街のヒーローになった。
街を歩いていると、「おじちゃん!」という声が膝もと辺りで聞こえ、その声の主を探してみると、4歳ほどの子達だろうか。色紙を手に柳瀬を見上げている。
「どうしたんだい?」
柳瀬は膝を折り、子どもの目線に合わせて言う。
その時、その子たちからちょっと離れた後方に女性の集団をみつけた。その女性たちは柳瀬を見るなり軽く会釈した。ははあ、どうやらこの子たちの親御さんのようだな。柳瀬も軽く会釈する。
「あのね。うんとね。おじちゃんのサインがほしいの」
おおかた、お母さんにもらってきてと頼まれたのだろうな。柳瀬はそう解釈し、その子に答える。
「ごめんね。おじさん、事情があってサインができないんだ。でもそのかわりに……」
そういうと、柳瀬は持っていた鞄から色鉛筆を取り出した。子どもから色紙を受け取ると赤、青、緑と色鉛筆で様々な模様を書いていった。
やがてその模様は浮かびあがり、空へ飛んでいく。それでも気にせず、また別の色、今度は桃色、黄色、水色でまた模様を書いていく。そしてまた浮かび上がり、飛んでいく。
色とりどりの線や丸や三角、四角……。子どもたちは空へ飛んでいくそれらを見上げ、あるいはただただその美しさに見とれ、あるいはそれを捕まえようと手を伸ばし、それぞれが目の前に映る光景にのめりこんだ。
柳瀬も書き続けた手をいっとき止め、空に浮かぶ自分の線を眺めた。
まったく、この性質ときたら……。