≪在り来たりな始まり方≫
とある世界の、とある場所。強い砂嵐と狂った磁場で人々を寄せつけない『魔の黄砂』と呼ばれる荒野。そのただ中にポツンと佇む邸宅、その地下室の床に、とある男性が銀色の塗料で怪しげな方陣を描いていた。
円のそこかしこにその世界共通の、または一般に知られていない文字を、幾何学模様と加えて書き込んでいく男。緑色に輝く髪を振り払い、片手に塗料の入った碗を持って、もう片方の手にある筆を一心不乱に滑らせる。体を動かす度、ランプの灯りで照らされた男の影が揺らめく。
作業を終えて体を起こした男は、くたびれた無地のシャツの袖で額の汗を拭い、結果を満足げに眺めた。書物などの雑多な物が隅に置かれた部屋の真ん中、出来上がった魔方陣は薄暗い中で淡く輝いていた。
男は胸の手前で両手を合わせ、自身の内に流れる魔力を操り、方陣に働きかける。知人から教わった方式に独自の手法を取り入れた召喚の技で、異界に住む人間一人をランダムに喚び出そうとする。
偉大な魔術師である男の、大いなる野望のために―――。
「くくく。やっとこの日が訪れたぜ。さあ、俺の望みを叶えよう。部屋を片付けてくれる召使い兼肉奴隷を、具体的な要望としては眼鏡に巨乳な美人妻を、いざっ喚ばん!」
多くの男達が願って止まない大望を実現せしめようと、魔術師フェイベル・ラインバルは異界への門を開いた。
眩く輝いた方陣の上に、毛布を被って布団に寝転ぶ、どう見ても役に立ちそうにない灰色髪の青年が姿を現した。
「……………まあ、部屋掃除だけでもこなしてくれれば、ね。むしろ残念な顔立ちの者を引くより、明らかなハズレを引いた方がね。諦めもつくってものだし別に落ち込んでないし、あーあ。チッ(舌打ち)」
多分に露骨な不満を漏らしながらも、苦労して精製した塗料を用いて喚び出した手前、お試し程度に扱き使おうと気を取り直した。発生した“結縁”により、召喚対象を意のままに操れる『服従契約』を結ぶため、テレビゲームに熱中する青年の本名を聞き出そうと優しげに話しかける。
途中からうっかり本音を含みながら、笑顔で彼を歓迎した。
「異世界へようこそ。どうぞ末永く俺に扱き使われてくれ、『奴隷』くん」
…数日後、フェイベルは青年を屋外に追い出した。家事を一つもこなせない、研究の邪魔ばかりする、召喚と送還に必要な方陣と塗料を片付けてしまった、諸々の理由で。
たまたま邸宅に訪れた知り合いの流浪人に身柄を渡し、死と危険が隣り合わせの過酷な世界へと連れ出してもらった。ひと月とかからずに野垂れ死ぬだろうなと薄情な予想を抱いて。実際は、フェイベルを悩ませていたG並みの生命力でしぶとく生き長らえて。
元いた世界に帰るのを頑なに拒み、望郷への未練を断ち切るために自らを“ドレイク”と名付けた青年は、流浪人に付き従って永らく旅していくことになる。
「臭う。臭うねぇ」
「え?」
規模は小さいながらに多くの住人が賑わう村。藁葺き屋根に石組みの家が建ち並ぶ中で、その内の一軒の戸口にて、ドレイクはずんぐり体型にエプロン姿のおばちゃんからそう言われた。
厳しい視線に晒されてたじろぐドレイクは、鼻をすんすんして体臭を窺うおばちゃんから少し離れる。勘違いで済ませられるかと期待したが、おばちゃんは徒労だと言わんばかりの険しい表情でさらに指摘してきた。
「ドレ坊、アンタ体を洗ってないだろ。すえた臭いがここまで漂ってくるよ」
「う…。そうは言っても、こっちは根無し草だし、風呂なんて上等なものも一般的にないじゃん」
「誰も貴族方と同じ贅沢をしろとは言ってないよ。濡らした布で体を拭けって言ってんの。髪も脂でギトギトじゃないか。服も毎日替えて洗ってるのかい? 汚いねぇ」
やや黒ずんだ灰色の髪と、黄ばみの目立つ無地のシャツとズボンを、汚いものを見る目で見つめられながら詰られる。精神的に打たれ弱いドレイクにその責めは辛く、非難めいた助言を受ける度に肩を落としていく。
おばちゃんが母親宜しく衛星管理について語っていると、戸口の奥からおばちゃんの子供が顔を出した。十才足らずの男の子だ。
ドレイクは力なく笑いながら挨拶をして、男の子はそれを無視して辺りに首を振った。目当てとなる人物を捜しに来たようだ。
いないのを確かめると、今度はドレイクを視界に入れた。
「ドレイク、トキお兄ちゃんは?」
「…。あぁ、おっさんは用事があって来れないんだ。残念だったな」
「えー、遊びたかったのになー。また面白い話とか聞きたかったのに、ドレイクなんか来なくてもいいのに」
「はっはっは、この正直者め〜。………ハア(鬱)」
「こら、旦那に迷惑をかけたりしたらいけないっていつも言ってるだろ。ドレ坊で我慢しときなさい。こっちはなにやらかしても良いんだから」
「親子揃って酷いなチクショウ! もっと気遣って、優しく扱ってちょうだい。でないと一生立ち直れなくなるんだってば」
「「うん、どうでもいい」」
親子は声を揃えてバッサリ斬った。ドレイクはとことん落ち込んだ。
体育座りで地面に「の」の字を書き始めたヘタレに、おばちゃんは慰めるでもなく屈んである物を寄越した。手頃な大きさの、長方形をした取っ手付きの木箱だ。
おばちゃんはドレイクの耳元で囁くように話しかける。
「旦那によろしく伝えといてくれ。こっちは上手くやっているとね」
「あい、さー。みんな大好き“屠る鬼”さんに、伝えときますよって。ふーんだ」
拗ねる子供に、面倒見の良いおばちゃんは母親の顔で続ける。
「ドレ坊も、無茶するんじゃないよ。アンタは旦那みたいに強くないんだから、逃げたければ逃げな。誰も咎めやしないからね」
「…どうも。それじゃ、そろそろ行くな」
ドレイクは木箱を受け取って立ち上がった。二人に手を振って別れ、親子は村の出口へ向かうドレイクを見送ってくれた。
村の周りに広がる森へ歩きながら、親子に声が届かないのを確かめた上で、ぼそりと呟く。
「そういう訳にも行かないって。これ以上逃げたら、俺はただの人でなしだ」
上を見上げ、木々から覗く青空と白雲を眺める。
羽ばたく獣は、一羽も飛んでいなかった。
およそ半年前、自宅で引き籠もりニート生活を送っていたドレイクは、魔術師フェイベル・ラインバルの手によって異世界へと召喚された。
現実的には有り得ない話なのだが、この業界ではよくあることだし、なにより彼は幻想が大好きなので、あっさり信じて受け入れた。むしろ暴力沙汰も辞さない構えで送還を拒んだりした。ゆとり教育の賜物である。
自堕落に生きていた経歴もあって、ドレイク家事を何一つこなせなかった。どころか、迷惑ばかりをかけた。結局疎まれた彼は、邸宅を追い出されてフェイベルの古い友人である流浪人に預けられることになった。
自分の住んでいた世界と似通った―――決定的に違う異なる世界を巡る旅に出た。
初めに赴いたのは、風属の魔力濃度が高く、物質が宙に浮く≪浮流地帯≫という秘境。この世界特有の生物『材獣』の生き残りを捜し、地・水・火・風―――“四属の魔力”を操る『獣具』を制作するための素材を手に入れた。
次に向かったのは、灼熱の太陽が照りつける繁栄する小国≪卦倶州≫―カグス―。流浪人と親しかった孤児院の子供達がとある殺人鬼に殺され、その仇を取った。
山々を治める大国≪鼎楼≫―テイロウ―では、流浪人は恩師の死を知り、ドレイクは自身の秘密を知った。
巨獣“深きを往く者”の遺骸、その内部に造られた街≪骸骼都市≫が、『輝けるもの』(デーヴァ)と呼ばれる組織の魔術師に襲われた際、被害拡大の阻止に尽力した。失ったものは多く、残されたものを全力で守った。
それから、二ヶ月を足して、半年。
現在、ドレイクは流浪人が拠点としているヤノカ村付近の森林地帯で野営を行っている。村には近隣諸国から派遣される衛兵などはいないが、何処に賞金狙いの傭兵がいるか分からないので、首に賞金を懸けられている流浪人と従者のドレイクは野宿で済ませていた。
≪弥之乎≫―ヤノカ―は、余所と比べれば治安の良い村だ。どの国にも属さずに自給自足を基本としながら、遠く離れた町村との取引で潤っている。“とある資金援助”により、幸運にも低迷する各国の経済に影響されずに済む。
村に暮らすほとんどの者が地に足を着けて生活しており、飢えた物乞いの姿はとんと見かけない。行き倒れに遭っている人物も、ドレイクはこの村周辺では見かけたことがない。長閑で平和な土地だ。
だが、そこに災いの種が持ち込まれようとしている。
浅い歴史の中で、ひとときの安らぎを得ているヤノカ村。その平穏と日々の営みを打ち破ろうとする不届き者がいる。
ドレイクの鼻先で、往来をせき止める形で、目を回して横たわっている人物。
滅多に現れないはずの行き倒れが、年端も行かない少女が、地に伏せていた。
「子供? おっさんが喜びそうだな…、じゃなくて。息はしているから良いとして、なんでこんなところに?」
「きゅー…」
少女は幼い顔に茶髪のツインテール、恐らく十代半ばとなる。服装は丈の短い簡素な衣服に裾の長い外套を羽織り、腰元を長い白布で結んでいる。そこそこ使い込まれた節のある長靴を履き、すぐ脇には旅荷物と思しきショルダーバッグがある。
一見すれば旅行者の出で立ちとなる少女の姿に、立ち止まったドレイクは考えた。この怪し過ぎる少女を助けるべきか、否か。
この殺伐とした時世に十代の子供が、それも可愛い部類に入る女児が、一人で国の内外を歩いたりするだろうか。
城壁を一歩越えれば、そこは法に縛られない者達が跳梁跋扈する無法地帯だ。ヤノカ周辺地域の≪紅原≫―クレバラ―は、統治する部族の抑制効果もあって比較的安全だが、そこに辿り着くまでが容易ではなく、少女も例外なく襲われただろう。しかし、ドレイクが見た限りでは、彼女は無傷で襲われた形跡はない。
危険な香りがする。寝ている姿は無防備なのに、食肉植物が口を開けて待ち構えているように思えてくる。
少女に関わって大丈夫なのか?
助けなくていいのか?
助けが、必要なのか?
「よし。見なかったことにしよう」
触らぬ神に祟り無し。
スルースキルを発動して、脇を通り抜けた。
「いたいけな女の子が窮地に立たされているのに、無視して行っちゃうんだ。サイテー」
「…」
「まあ、でも、襲いかかるよりはマシかもね。このご時世だもの。肉欲に走るケダモノが多いから、そういった観点からすれば、充分善人だよね。ねー?」
「…」
後ろから、起き上がった少女が遠慮なしに話しかけてきた。口振りからして狸寝入りだった。
変な輩に絡まれたドレイクは、無関心を決め込んで歩き通す。振り返ったら負け、反応したら負けと自身に言い聞かせる。
ひたに我慢。
「ねーねー美少女だよ。“美”がついてるんだよ。もっとときめいたって誰も引いたりしないよ。少女にムラムラしちゃう変態でも気にしないよ?」
―――うん、そだね。可愛いね。でも自分で美少女って言うな、たかが知れるぞ。あと変態は俺の連れの方だよ。
「あ、もしかすると不能なのかな。女性相手だと反応できないの? なんか、ごめんね?」
―――あらぬ疑いをかけるな。てか、その疑惑があるのもウチの連れだから! …もう付き纏わないでくれないかなぁ。俺、急いでるんだからさあ。
「それとも好きな人がいるから?」
「げふッ!」
何気ない一言に、我慢しきれず咽せた。
少女はニンマリと笑ってドレイクの弱みを狙う。
「あれ図星。ねえ誰なの、教えてよっ」
「どうでも良いだろ! 言ったって分からないだろ! 放っとけ!」
「あ、やっぱりいるんだ。それにその様子だと片思い中と見たね。告白しないの? 意気地なしなの? いっくじーなし!」
「余計なお世話だ! うわーもう、めんどくせえのに出会っちゃったなあ!」
過去、自身を喚んだ魔術師相手に似たようなやりとりを繰り広げたことも忘れて、ドレイクはかつての自分に良く似たハイテンションの絡みに苦悩する羽目になった。
とある異世界の、とある森の中。二人は、運命的な出会いを果たした。
これから先、数々の苦難や試練が待ち受けていることを二人は知らない。共に行動して、共に乗り越えていくことを。
二人がこの世界の存亡を駆けた争いに巻き込まれていくことになるのを、誰一人として想像していなかった。
「なにそれ胸熱って言いたいところだけどこのウザい子とのコンビはやだー」
じゃあこの話はなかったということで…。
「こらこら有言実行」
「いっくじーなし♪」
「やかまし!」
始まるよー。