第四話 父の不在 安子の涙
これから年齢の表記が出てきます。
この物語では数え年という設定で
表記します。
また金太郎というと菱形の腹掛け、
おかっぱ頭に頭の中央を剃りあげた
姿を思い浮かびますが、
この姿は江戸時代になってから
出来上がった姿なので、
この物語ではポニーテール風の髪型、
ひざ丈の長さの着物姿をイメージしながら
書いています。
安子と金太郎が足柄の里に来て半年後の皐月のころ。
彼女は金太郎と共に兄の屋敷を出て、
近くの空き家を譲り受け、ふたりだけの生活を始めた。
家の裏手には小さな畑があり、安子は畑を耕していき
野菜と芋を栽培しながら金太郎を育てていった。
心配していた安子の乳も出続けていたので
金太郎に飲ませることが出来た。
母乳を飲ませながら安子は金太郎に語りかけた。
「お前を愛し守ることが出来るのは、
このわたしだけ。
お前を強く立派な男に育てよう。
亡き殿さまと奥方さまとの約束を果たさねば」
足柄の里に住むようになってから安子は
一日一回、金太郎を負ぶって足柄明神に
訪れることが日課となった。
安子は金太郎が強く立派な男に育つこと、
義家の叔父による捜索の手が足柄の里に
及ばないことを祈り、
駿河国の方角に向かって金太郎の実の両親、
夫と娘の冥福を祈り手を合わせた。
菩提を弔うことの出来ない
安子のせめてもの供養だった。
ふたりのすぐ近くには兄夫婦と伝助夫婦が住み、
兄夫婦と伝助夫婦は複雑な事情を抱える
安子と金太郎『親子』を助け続け、
ふたりのことを助ける里の人々も日増しに
増えていった。
金太郎の素性を知る者は安子と兄夫婦、伝助夫婦だけで、
里の人々には彼は安子と道直の息子ということで伝えた。
金太郎が歩きまわり、言葉を覚える頃には、
彼にも友達ができるようになった。
ふたりが足柄の里に暮らすようになって
七年が経った。
金太郎は大きな病気をひとつせず、
安子の愛情をいっぱい受け、
畑仕事や家の手伝いをしたり、
友達と野山を駆け回る元気で心優しい男の子に成長した。
七年の間に兄清久夫婦には一男一女、
伝助夫婦にはふたりの息子が生まれ、
安子と金太郎の周りは以前にも増して
賑やかになった。
安子の祈りが届いたのか、金太郎への捜索の手が
足柄の里に及ぶことはなかった。
彼女は金太郎に出生の事実を話してはいないものの、
武家の血をひく金太郎が立派な武士になることを
希いながら読み書きなどを教えた。
安子の兄清久も時間がある時は、
金太郎の学問の師匠を務めた。
そのおかげで金太郎は、
ほかの子供たちよりも早く読み書きなどを
覚えていった。
金太郎が十歳になる頃には、野山で駆け回った
おかげなのか里一番の力持ちになっていた。
ある日、里の男たちが沢山の岩が転がっていたり、
切り株があり荒れていた土地を耕そうとしていた。
それを見た金太郎は、
「おらにも手伝わせてほしい」と男たちに頼んだ。
男たちは子供のする仕事ではないと言って断った。
だが金太郎は土地に入って、自分の頭より大きい岩を
簡単に持ち上げて、土地の外へ次々と放り投げたり、
大きな切り株もいとも簡単に引き抜いてしまった。
里の男たちは、金太郎の怪力に舌を巻いてしまった。
別の日には、木こりたちが山に入り木を切りだし、
運び出さなければならなかった。
金太郎は木こりたちに
「おらも山に連れて行ってほしい」と頼んだ。
木こりたちも、その場に居合わせた安子も
子供が行くべき場所ではないし、危険だと言ったが
どうしても行きたいと言って聞かなかった。
木こりたちは金太郎がどうしても行きたいと
いうのならばということで山へ連れて行くことにした。
安子は納屋に鉞がしまってあったのを思い出し、
金太郎に与えた。
「いいかい金太郎。
木こりたちの言うことをよく聞くのですよ」
「うん、わかった」
金太郎は木こりたちと一緒に山に入り、
鉞で次々と木を切り出し、運び出していった。
木こりたちも金太郎の怪力には舌を巻きながらも
手伝ってくれたことを喜んだ。
やがて季節が秋になった頃。
伝助夫婦の息子佐太郎と時助、安子の甥清信、
他の友達が里のはずれにある栗と柿を取りに行こうと
金太郎を誘った。
金太郎が断るわけがなく、籠を背負って友達と一緒に
出かけて行った。
友達と山道を歩いていくと、
向かいの場所にかかる橋が
一週間前の嵐で流失していた。
「どうしよう、向こうに行けないよ」と友達が困っていると、
「おらに任せろ」と金太郎は上半身を露にし、
近くに生えていた大木に押しかかった。
友達はいくら力持ちの金太郎でも、
この大木は倒せまいと思った。
そのうえ金太郎が普段使っている鉞も
この日は持っていなかった。
金太郎がぐーっと力を込めて踏ん張るため、
肌が真っ赤になり、鼻息荒く、ぐーっと押し続けた。
すると木は根元から折れ倒れ向かい側に橋をかけてしまった。
友達は喜んで向かい側へ渡っていった。
向かいの場所には、柿と栗の木があって沢山の実を
つけていた。
金太郎はそれぞれの木に強く体当たりすると
振動で実が沢山落ちた。
皆が喜んで籠の中に身を入れていた時だった。
後ろの茂みのほうからガサガサと音がした。
皆が振り返ると、額に白い三日月の模様を持った
大きな熊が姿を現し、金太郎たちに襲いかかろうと
していた。
友達は恐ろしさのあまり逃げ出してしまったが、
金太郎は怖がるどころか、
熊に立ち向かい取っ組み合い、じりっじりっと押したり引いたり。
友達は離れたところから熊と戦う金太郎を守り応援した。
金太郎は、ここ一番の力を出して熊を持ち上げて
放り投げた。
熊は金太郎の強さに恐れおののき山奥へ逃げてしまった。
友達は熊を負かした金太郎に拍手を送った。
金太郎たちは籠一杯に柿と栗を入れて里へ帰った。
里に着くと友達の親が迎えにやって来て、
柿と栗を分け合った。
だが金太郎は、友達と両親が楽しそうに分け合って
いる姿を見て、寂しいものが込み上げてきた。
それは安子が迎えに来ないことではなく、
自分には他の友達のように父親がいないことだった。
安子が遅れて金太郎を迎えにやって来た。
「金太郎、遅くなってごめんね。
まぁこんなに沢山採れたの、すごいわ」
安子の姿に気づいた甥の清信が
「叔母上、金太郎は大木を倒して橋を造ったり、
熊を負かしたんだよ」と教えた。
「まぁそんなことを」
安子は金太郎の行動に驚きたしなめたが、
金太郎の表情はうつろで安子の声は
耳に入ってこないようだった。
「どうしたの金太郎。
元気がないが具合でも悪いの」
「ううん、何でもないよ。
早く柿と栗を持って帰って食べようよ」
安子と金太郎は柿と栗を持って家路についた。
家に帰る道すがら、金太郎は安子に聞いた。
「なぁ、おっ母。
どうして、おらにはおっ父がいないんだ」
金太郎の思わぬ質問に安子は驚き戸惑った。
「それはね・・金太郎が生まれてまもなく
おっ父は病気で亡くなったんだよ。
おっ父は、お前が生まれた時はとても喜んでいたわ。
だから・・おっ母もお前のことが大好きだし、
どんなことがあってもお前を守るわ。
亡くなったおっ父も空の上からお前とおっ母を
見守ってくれているわ」と
虚実入り混じった答えをするしかなかった。
それは金太郎の命を守り、心を傷つけないための
精一杯の答えだった。
その夜、ふたりは採れた栗で栗ごはんにしたり、
畑で採れた野菜で料理を作って食べた。
金太郎の御馳走を頬張る姿を、
安子は喜びながらも色々な思いで見つめていた。
こうしてふたりで過ごせるのはいつまでだろうか。
いつかは伝えねばならない過去の真実すべてを。
この子との別れの日は必ず来るのだと。
ある日の午後。
金太郎が友達と遊んでいた時のこと。
金太郎たちの目の前を、おさよという少女が
両親と一緒に歩いていた。
母親の腕には白菊の花束を抱えていた。
「おさよちゃん、どこへ行くんだい」と金太郎が聞いた。
「今日は爺さまの亡くなった日だから
お墓参りに行くの」と答え、
おさよは両親と一緒に墓地へ向かった。
おさよの言葉を聞いた金太郎は、
あることに気づいた。
自分は父親のお墓参りに一度も行っていないことを。
金太郎が家に帰ると、安子が夕食の支度をしていた。
「お帰りなさい、金太郎。
お前も夕飯の手伝いをしておくれ」
金太郎は夕飯の準備をする安子に聞いた。
「おっ母、おらのおっ父の墓はどこにあるんだ」
金太郎の質問に安子は驚き返事に窮しながらも、
「そ、それはね・・おっ父の墓は遠くて、
金太郎ひとりで行けないところにあるの。
お前がもう少し大きくなったら連れて行くからね」と
答えたが金太郎は
「どうして大きくなってからじゃ駄目なの。
どうして遠くにあるの。
おら明日にでも行きたい。
おさよちゃんは今日、爺さまのお墓参りに行ったのに」と返した。
金太郎の言葉に安子は
「金太郎が大きくなったら必ず連れて行くわ。
もう少し待ってね、今は駄目なの」と苦し紛れな答えをしたが、
金太郎は食い下がった。
「おっ母はおっ父のことを隠している。
そういえばおっ母はおっ父のことを話してくれない。
どうして話してくれない、お墓参りに行くことはできないの」
「そ、それは・・」
「わかった、おっ父は死んではいないんだ。
おらとおっ母を見捨てて遠くへ行ったんだ!」
「ち、ちがうわ・・」
「おらとおっ母を嫌って見捨てたんだ!
おらが生まれてもおっ父は喜ばなかったんだ!
愛してなんかいなかっただろ!
おっ母のことも愛してなんか・・」
「金太郎!」
安子は金太郎の頬を平手打ちをし、金太郎は横ざまに倒れた。
その倒れた拍子に金太郎は額を釜戸にぶつけた。
彼女は仁王立ちになって烈火のごとく金太郎に怒鳴りつけた。
「なんてことを言うんだ!
おっ父が亡くなってから、
お前を育てるためにおっ母がどれだけ
大変な思いをしたか、お前はわからないだろう!
おっ父はお前を愛し、そばにいられないことを
悔やみながら亡くなったんだ!
おっ父のことを悪く言うなんて、おっ母は許さぬぞ!
そんなことを言うなら、今すぐこの家を出て行け!
悪いことを言う子供に育てた覚えはない!」
横ざまに倒れた金太郎は大声をあげて泣いた。
今まで安子に叩かれたことも、声を荒げたところも
聞いたことがなかった。
金太郎の泣き声に安子は我に返り、
彼の額に目をやると出血していることに気づいた。
主君から託された子に手をあげ、怪我をさせてしまい、
怒鳴りつけたことに罪悪感がわき、
平手打ちをした右手は痛みと震えが増していった。
安子は膝をつき、金太郎を抱きしめた。
「金太郎、許しておくれ・・
痛かったろう・・。
可愛いお前を叩いてしまって・・
怪我をさせてしまって・・。
怒鳴りつけるなんて・・怖かったろう・・
許しておくれ・・。
お前を連れて行くことは出来ないの・・
おっ父の墓のあるところには・・。
もう少し待っておくれ・・
必ず・・連れて行くから・・許しておくれ・・」
「おっ母・・あぁー!!」
大声をあげて泣く金太郎を抱きしめる安子の目からも
涙が止めどなく溢れた。
「安子、金太郎どうしたんだ」
騒ぎを聞きつけた兄清久と伝助が訪ねてきた。
「あぁ・・ごめんなさい・・
お騒がせして・・色々あって・・」
安子は大泣きする金太郎を抱きながら
混乱する気持ちを抑えようにも抑えられなかった。
その夜、金太郎が眠りについた後
清久が安子の元を再び訪れた。
彼女は、あの騒ぎの一部始終を清久に話した。
「そのようなことがあったのか。
実は一昨日、金太郎がわたしに自分の父親のことに
ついて聞いてきたのだ」
「あの子が、兄上に聞いたのですか。
父上さまのことを」
「わたしは何とか金太郎の心を傷つけないため
父上はお前が産まれてまもなく亡くなったこと
お前のことを愛していた優しい父親だったと話したが、
金太郎はわたしと初子、子供たちと揃っているところを見て
寂しげな表情を見せたのだ。
金太郎は家族全員が揃っている家庭が羨ましいのだろう。
本当は父親に甘えたい、頼りたい、愛されたい、
ひとつ屋根の下で家族揃って暮らしたいのに
それが出来ないことが悲しいのだろう」
「そういえば、あの子が栗拾いに行った日にも
うつろな表情を見せたのは、
両親のいる家庭が羨ましかったからなのですね」
「安子は金太郎を守るために気が立っていたのだろうが
両親の代わりを務めるお前が冷静にならないでどうする。
あの子の過去の事実を必ず話す時はくる、その機会を待つしかないのだ」
「兄上・・」
清久が帰った後、安子は心の中で亡き義家と良子に詫びた。
『殿さま・・奥方さま・・お許しください。
実の両親のことを知らない若様に手をあげたことを。
怒鳴りつけ、怪我をさせたことを。
わたくしは駄目な育ての親です。
もう少し冷静になれば・・』
その時、良子の声が聞こえた。
『安子、あなたは悪くはありません。
あなたの愛情をいっぱい受けた金太郎は
強く優しい男の子に育っているではありませんか。
金太郎との血の繋がりはなくとも、
何も知らないあの子は安子を
たったひとりの母として慕っています。
どうか自信を失わないで下さい。
金太郎の育ての母としてあの子を
どうか守り愛し育ててください。
来たるべき時が来たら必ず伝えてください。
あの子の過去の事実を・・』
『奥方さま・・』
安子の頬を一筋の涙がつたっていた。
彼女は金太郎の寝姿を見て思った。
来たるべき時が来たら必ず、
お前にすべてを話そう・・過去の事実を・・。
その頃、金太郎の生まれ故郷・駿河国酒田では
大事件が起きていた。
金太郎の父を殺し、すべての実権を握っていた
酒田兼家が他の豪族たちの攻撃に遭い殺害され、
彼の一族郎党が屋敷に火をかけ自害するという事件が起きた。
この事件で兼家の一族は滅び、
金太郎の命を脅かす者は完全にいなくなった。
酒田の領主になったのは
この事件の当事者であり
金太郎にとって遠戚にあたる人物
笹倉幸家だった。
幸家は九年前の焼き討ちで行方不明になっている
義家の嫡男金太郎のことを密かに案じ、
どこかで生きていることを願い続けていた。
兼家の横暴に苦しめられた
領民たちは兼家一族は義家に呪い殺されたのだと
囁き合うのだった。
兼家一族滅亡の報せは
その後、足柄の里にも伝わった。
安子、兄夫婦、伝助夫婦は
金太郎の命を脅かす残党がいる可能性も
ぬぐいきれないことから、
報せを鵜呑みにすることは出来なかった。
何も知らない金太郎は友達と遊んでいたが
金太郎の表情は、あの出来事がまだ
引っかかっているのか、どこか寂しげだった。
第五話につづく