第A-8話・キスが痛みに変わった日
第二棟の三階。
廊下を直進した突き当たりにある観音開きの扉を開けると、そこはパラダイス。
広大な読書スペースには、大きな卓上の机が点在していて、卓の中央には仕切りのための板がある。誰の視線も浴びずに読書や勉学に集中できる点は、さながら専用の個室のよう。
奥には、本棚がまるで碁盤の目のようにぎっしりと林立していて、さらにその向こうの扉の中には、持ち出し厳禁の貴重な本まで置いてある。博物館にあってもおかしくないほどの貴重な初版本や、すでに発禁、または生産終了となっている本まで、まさに宝の山。
自分の通う学校に大きな図書館があるなんて、本当に幸せだと思う。
……そう思っているのは、私だけかもしれないけれど。
「夏美〜、奥からこの本取ってきて〜」
間延びした声で、隣のクラスの中山由美がカウンターから声をかけてくる。
図書委員を通して知り合った子で、自由奔放で茶目っ気たっぷり。けれど、どこかいつも気だるげ。
面倒くさがりの彼女は、いつもそう言って面倒事を私に押しつける。
それでも、飽きもせず私と一緒に活動を手伝ってくれる彼女は、どこかで活動を楽しんでもいるのだろうか。
相変わらず気だるそうにしているけれど、目が合えば微笑む彼女に、私はそう思えた。
……憎めないのが憎たらしい。
そんな言葉が私の辞書に書き込まれた。
「この本って言われても、どの本なのか分からないよ……」
「ごめんごめん、『B』『さ』の『一五四二』の本〜」
やはり彼女は面倒くさそうだった。
「分かった。すぐ持っていくね」
唐突だけど、私は放課後の図書室が好き。
誰もいない図書室に差し込む夕日、揺れる白いカーテン、野球部や、ソフトボール部の威勢のいい掛け声、吹奏楽部の音あわせ……まるで映画の一ページにいるような気分になる。
セピア色に彩られた空間は、太陽の余熱でほのかに暖かく、眠気さえ覚えてしまう。
まさに夢心地。
私は、貸し出し厳禁の本がぎっしりと詰め込まれた、奥の部屋に入る。
「えっと……『B』『さ』『一五四二』は……」
図書委員の私には、大体の場所が分かっている。
可動式書棚のクランクを回すと、大きくて長い書棚が、ゆっくりと動いていく。こんな大きな書棚が、小さなクランクひとつで動いてしまうのだから驚きだ。
その昔、この書棚にはさまれて死んでしまった生徒がいるそうで、学校の怪談のひとつに、この可動式書棚の隙間から漏れ出てくる血、というものがあったらしい。らしい、というのは過去の図書委員が残した日誌に挟まっていたメモを、先日偶然にも見てしまったから。
私は身が震えるような思いでさっさと目的の本を発見すると、その場を後にした。
「ねえねえ、夏美〜」
「何?」
私は持ってきた本を中山さんに渡しながら、次の仕事に取り掛かる。毎日のように繰り返される書庫の整理。
「見て、窓の外」
すでに図書室は閉館しているので、私たち二人以外誰もいない。
私は、中山さんの言葉に耳を傾けながら、脚立に足をかけた。手には大量の本。
「あれ、正臣君じゃない?」
「え?」
私は慌ててしまって、危なく脚立から落ちそうになりながらも、窓の外に目をやる。
「なんか、いい雰囲気」
中山さんが指差した方向には、確かに正臣君がいた。そして、その隣には、いつも正臣君のそばにいる女の子。
……中井香奈さん。
「あの二人、いつも一緒にいるよね。付き合ってるのかな〜?」
私は二人が寄り添う風景から目が離せない。
正臣君は私たちに背中を向けているので、表情は確認できないけれど、正臣君の正面に立っている香奈さんの表情は、はっきりと確認できる。
普段は静かに微笑を浮かべている香奈さんが、信じられないような幸せな笑顔を浮かべていた。
そんな風に正臣に笑いかけている様子を見ると、胸が締め付けられるように痛み出す。
「付き合ってるよね〜、なんかお似合いって感じ」
「……似合ってなんかないよ。香奈さんが一方的につきまとってるだけ」
冷たく、感情のない声を出してしまえる私に驚く。
中山さんもそんな私に気がついたようで、脚立の上で本を抱えたままの私を振り返る。
「どうしたの?」
「え……あ、ううん、幸せそうだね。あの二人」
本をばらばらと床に落としながら、私は答えた。
「その反応〜……いまどきドラマでも見かけないんだけど」
薄ら笑いを浮かべる中山さん。
私は大げさに胸の前で手をふり続ける。
中山さんのアンニュイな空気が、いつの間にやら霧散していた。
「ち、違う違う。私はそんなんじゃ……」
「へ〜、怪しいなぁ」
半眼で見上げてくる意地悪な視線に、私はひるんでしまう。
「違うってば。中山さんが思っている感情なんて、私にはないよ」
「うんうん。分かる、分かるよ、その気持ち」
「……話、聞いてくれてる?」
「この中山由美、水野夏美のために一肌脱ぎましょう!」
「あ、あの、私の話を……」
私の力なく伸ばした手は、脱アンニュイを果たした中山さんには届かなかった。
「なんと偶然にも、男のハートをがっちりとつかむ、いい方法があるのよ」
窓の外の二人は、なにやら楽しそうに話をしているようだった。和輝君と一緒にいる正臣君とは違う、普段見慣れない彼に、私の胸がざわめき立つ。
「夏美、男なんてね、結局は単純なものなのよ。正臣君もしかり」
腕を組んだ中山さんが、胸を張る。
「……名付けて、おまじない作戦〜!」
なんともメルヘンチックな作戦名。
ビルが鬱蒼と生い茂る現代には似つかわしくない作戦名に、私は肩を落とす。
一方の中山さんは、一人で拍手をしながら、満足そうに納得していた。
満足のいく命名だったらしい。
「まぁまぁ、そう肩を落とすのも分かるわ。でも、最後まで聞いてから判断して頂戴な」
よほどの自信があるのか、中山さんは鼻息が荒い。
「まずは、二人っきりになること」
「それが一番難しいんだってば……」
心の中でつぶやいた言葉が、つい口から漏れてしまう。中山さんは耳にしているはずなのに、相手にはしてくれなかった。どこまでもマイペースな人だ。
「そして、次に甘えたような視線で、下から見上げる!」
両手を祈るように組み合わせると、脚立の上の私に、懇願するような眼を向けてくる。子猫のように目を潤ませるしぐさは、確かに可愛らしい。
「ねえ、正臣……元気になるおまじないがあるの……」
脚立の上の私を正臣君に見立てているようで、視線を絡ませるように、猫なで声を上げた。
「……」
私はごくりとつばを飲み込む。同性なのに思わずときめいてしまいそうになった。
「台詞はどうとでもなるわね。要は、ケースバイケース。相手が落ち込んでいるようだったら、今の言葉を使えばいいし。二人っきりで緊張しているようなら、『落ち着かせてほしい……』とかでもいいかな〜」
「でも、変な女に思われないかな?」
「大丈夫。男心に訴えるから、そんなこと思いやしないって〜、それに、夏美はただでさえかわいいんだから、二人っきりになった時点で、半分はもう成功したものよ」
ウインクする中山さん。漫画ならハートが飛び出しているかも。
「半分なんだ……」
「あら、意外と贅沢なこと」
中山さんが、驚いたようにまばたきする。
「あ、違うの! もっと自分に自信があるとか、そんなのじゃなくて、その……もっと確率が高くなってからじゃ駄目かなって」
「夏美、それじゃ、正臣君を取られちゃうよ〜?」
「そ、そうかもしれないけど」
「何かを失うことなくして、何かを得ることは出来ない!」
拳を高々と突き上げる、脱アンニュイ中山さん。
「さ、純粋さを失ってらっしゃい」
お先にどうぞ、という風に私に手のひらを差し出してくる。
「失うのは、純粋さなんだね……」
どういった基準で純粋さが失われてしまうのか詳しく聞きたかったが、中山さんはやはりマイペース。
「私が脱げるのはここまでかな〜。これ以上は、別料金ね〜」
どうやらすでに一肌は脱いだらしい。意味深な言葉を残して、図書室を出て行こうとする。
「と、いうわけで、後は頼みます」
ぺこり、と私に一礼して図書室を出て行く。
「え……え?」
私はよどみのない動作の連続に、あっけに取られて引き止める暇もない。仕事を私に押し付けて帰ったと気がついたときには、すでに中山さんの姿はなかった。
ご丁寧に彼女は、仕事と一緒にアンニュイな気分も置いていったらしい。
その証拠に、私は今まさに倦怠感に背中を押しつぶされそうだった。
「や、やられた……」
私の周囲には私が落とした本が散乱している。そしてさらに、手も付けられていない本の山が、床に山積みになっていた。
窓の外に目をやると、正臣君はいない。
二人で仲良く会話していた姿は、すでにどこかへ消えた。山の向こうに消える太陽のように、恋人同士のような二人も街の中に消えてしまったのだろうか。
仲良く手を握り合って、体を寄せ合って、公園のベンチに座ったりして、唇と唇が接近して……。
「そんなのヤダよ……」
急に涙が出そうになる。妄想に火がついてしまって止められない。
……窓の外で会話をしていた。
たったそれだけの情報なのに、私の心はそれより先を想像して止まない。様々なパターンを想像しては、ありえない、と否定していく。
危機管理シミュレーション。
そんな言葉が、私の頭をよぎってしまって、私は自嘲した。
「何かを失うことなくして、何かを得ることは出来ない……か」
期待して待っているばかりでは、正臣君はいつまでたっても私のことを見てくれない。ただの一人のクラスメイトのまま。自分から積極的に近づいていく香奈さんに、彼を取られてしまうのは、確実。
私は自分の唇に触れてみる。
「頑張れ、水野夏美!」
脚立の上で、自分を自分で励まして、今度は別のシミュレーションをしてみる。
「正臣君……私ね……」
目をつぶって、教室の一角で二人きりになった風景を想像する。
放課後の教室、校庭からは野球部の掛け声、金属バットがボールをはじく音が入り込んでくる。オレンジ色に輝いた夕日が、教室に差していて、正臣君の反対側の頬には淡い影。穏やかな風が、開けっ放しの窓から入り込んできて、二人の間を軽やかに駆け抜けていく――
「……元気になるおまじないがあるの……」
媚びるような声を出してみる。
瞳をまぶたの裏に隠して、ドキドキする胸を押さえて、少しだけ背伸びする。唇を正臣君に向けて、私は来るべき時を待つ。
正臣君の手が私の両肩に置かれて、二人は禁断のキスをする。
「水野さん、話があるって、中山さんから言われたんだけど?」
それは、もっと前の段階。今は、キスのシーンなんだから、その会話はおかしい。
私は脳内で映画監督のように女優に叱咤した。
女優といっても、私なのだけれど。
「水野さん?」
雑念が入り込んでいるようだ。
私は、シミュレーションに集中するために、首を横に振った。
もう一度最初のシーンから。
監督が女優にかける言葉のように、私は心の中で念じた。
……放課後の教室、校庭からは野球部の掛け声、金属バットがボールをはじく音が入り込んでくる。オレンジ色に輝いた夕日が、教室に差していて、正臣君の反対側の頬には淡い影。穏やかな風が、開けっ放しの窓から入り込んできて、二人の間を軽やかに駆け抜けていく――
再び背景が鮮明に脳裏に描かれる。
「正臣君……私……」
「うん。何?」
リアルだ。非常にリアルだ。
私は想像の天才。
正臣君の生声を想像できてしまう私は、きっと妄想の天才だ。
それだけ彼に惹かれていることが理解できて、胸が苦しくなる。
「元気になるおまじないがあるの……」
「おまじない? 元気になるって?」
……なんだろう、この私の想像を超えるアドリブは。
「それより、水野さん、脚立の上でつま先立ちするのは、危ないからよしたほうがいいと思うよ」
「……え?」
私は、つま先立ち、唇を斜め上方に向けて尖らせたままの姿勢で、薄目を開ける。
脚立のそばには、窓の外にいたはずのあの人がいる。
……中山由美、曲者なり。
一滴の汗が、額から頬に流れていくのが分かった。
――見られた。絶対に一部始終見られた。彼は見てた。彼に見られた。見られてしまった。
「あの! これは! 決して、そういうやましいことではないんです!」
慌てて体勢を戻して、頭を下げようとした。
「水野さん、危ない!」
気がついたときには遅かった。不安定な脚立の上でバランスを崩した私は、図書室の床に急降下する。
現実は、かくも厳しいものか。
正臣君が、私を受け止めてくれることはない。そんな超反応が出来る人間は、ドラマの中だけにしか存在しない。
転びそうになった主人公を抱きとめるとか、銃弾に撃たれそうになるのをかばうとか、そんなことは実際には起こりはしない。
正臣君が、私を助けようと必死に体を動かしてくれるのが、視界に映った。
それだけで、私は十分嬉しかった。
彼の頭の中には、今、私を助けようという気持ちしかないのだから。
そんな小さなことでも嬉しくなれる私。
なんて哀れ。
でも、これでさっきの奇行は忘れてくれるかな。帳消しになってくれるかな。
私はスローモーションのように流れる視界の中で、そんなことを思っていた。
――病院に運ばれた私に伝えられたのは、右足骨折という診断結果だった……。