第A-7話・放課後の記憶はのちにデジャヴに変わる
夕日にかげる夏の教室で、私は参考書のページをめくる。
宿題はとっくに済ませたから、残るは明日の予習と、今日学んだ範囲の応用問題を残すのみ。
机に立てかけた松葉杖の影が、いつのまにか長く伸びていた。
窓の外からゆるゆると吹き込んでくる風。夕日で橙色に染まったカーテンを優しくなでる。吹奏楽部の個人パート練習がそこかしこで聞こえ、その間をぬうように、女子ソフトボール部の威勢のいい声が、私の耳に飛び込んできた。
教室には私以外誰もいない。
私はシャープペンシルを置いて参考書を閉じると、松葉杖を使って窓に歩み寄る。
「気がつかないうちに日が伸びてたんだ……まだ太陽があんなところにある」
風に揺れる髪の毛を耳元にまとめながら、遠くに見える山々と、赤く燃える太陽を見比べる。
「紅白試合かな」
グラウンドを見渡した。ちょうどネクストバッターズサークルで片ひざを着く加藤さんが目に入る。
今週末の試合にかける思いが、円の中心で素振りをする彼女から伝わってくるようだった。
「あれ、水野さん? まだいたんだ」
和輝君が、かばんを持ったまま教室に入ってきた。
ぐるりと教室を見渡して、私の机に目を留める。
「勉強していたのか……俺も見習わなきゃな」
「見習う気なんかないくせに」
「あ、バレた?」
薄っぺらいかばんを小脇に抱えて笑う。
気持ちのいい笑い声だった。冗談を気持ちよく笑い飛ばせる和輝君が、なぜかうらやましく思える。
「あ、そうだ。正臣と香奈を探してるんだけど、水野さん知らない?」
手のひらを、ぽん、とこぶしで叩くと、私の隣に並んで窓の外を眺める。
「校内を探していないなら、グラウンドにでも……」
「下駄箱は? 見たの?」
「靴はなかった。でも、あいつが俺に何も言わずに帰るとは思えないからさ。……香奈は分からないけど」
和輝君の横顔がかげったように見えたのは、夕日のせいだろうか。
「お、あのごつい姿は加藤じゃん」
「ひどい。和輝君てば、何気に毒吐くんだね。あとで加藤さんに言っちゃお」
「か、勘違いしてもらっては困るな、水野さん。これは褒めてるんだ。ソフト部としてのがっちりした体格は、対するピッチャーにとっても脅威だ、ってことを俺は言いたかったんだ。うん」
「今の絶対に後付けだね」
和輝君の慌てた身振り手振りで、そう判断した。
そんなやり取りも露知らず、加藤さんはぶんぶんとバットを振り回すと、体を伸ばしながら右バッターボックスに向かう。
ランナーがいないところを見ると、前のバッターはアウトになってしまったようだ。
「最近、加藤さんと仲いいよね」
「……ん、そうか?」
数秒の沈黙を苦にしたわけではないけれど、私は開口していた。
「私にはそう見えるよ」
加藤さんが、一球目を見逃した。余裕を持って見逃したボールは、キャッチャーが要求したボールよりも高めに外れていた。まずワンボール。
「正臣の隣の席だから、話す機会が多いだけだよ」
和輝君は真っ直ぐに加藤さんの打席を見つめている。表情のない顔からは何も読み取ることができない。
「でも、加藤さんと話しているときの和輝君は、とても楽しそうに見える」
二球続けたストレートを、待ってましたとばかりに鋭く振り抜く加藤さん。芯で捕らえた打球は、ヘッドスピードが勝ってしまったのか、サードベースを巻き込んでファールになる。これで、ワンストライク、ワンボール。
「きっと和輝君と気が合うんだね。男性の話題にもすごく溶け込んでるし、次々に話が飛び出してくる感じで……相性ぴったり。みんなそう思ってるんじゃないかな?」
加藤さんの圧力に恐れをなしたのか、三球目は外に大きく外れてツーボール。
キャッチャーの指示だったが、ピッチャーは納得がいっていないようだった。
「水野さんは、俺に何を期待してるの?」
「え……?」
和輝君の瞳が私の顔を映す。
不覚にもどきりとしてしまった。
悪いことをしたわけでもないのに、罪悪感にさいなまれてしまう。
「和輝……君?」
夕焼けの微風が、窓から入り込む。
和輝君の前髪をなびかせ、耳元でまとめた私の髪の毛を散らす。
風に乗って、ミットにボールの収まる音が聞こえた。間髪いれず審判のストライクコール。
私の記憶が正しければ、加藤さんはツーストライクで追い込まれたはずだ。ツーボールということもあって、次が勝負球となる。ボールひとつ遊ぶことができるという余裕は、逆に命取りになる。
だから、次がどちらにとってもウイニングショット。
「クラスのみんなや、加藤自身、そして」
和輝君の声に申し合わせたように、吹奏楽の演奏も止む。
放課後とは思えない静寂が、緊張感を生みだした。
「水野さんがどう思っているかは知らないけど」
胸に痛みが走る。和輝君の表情が怖いくらいに冷静だった。
「――俺は加藤のことをなんとも思ってない」
ストライクバッターアウト。
審判の声が私の耳に届いた。
「どうしてそんな言い方……」
和輝君の瞳を見ていられなくて、視線をグラウンドに逃がす。
三振した加藤さんが、夕陽を背負いながらベンチに引き下がっていく姿が見えた。
その背中が、ひどく小さく見える。
「もっと別の言い方してもいいと思う」
「だったら、どう言ったらいいの?」
和輝君は微笑みながら聞いてくれる。
でも、どこかその微笑みは作られたもののような気がした。オレンジ色の光がそう錯覚させるのだろうか。
「そんなの、私に聞かれても分からないよ……」
「ごめん、水野さん。でも、俺はね」
かばんを小脇に抱え、両手はポケットの中。夕日に目を細めて、ゆっくりと息を吐く。
そんな和輝君の横顔は、二枚目だと思える。正臣君も素敵だと思うけれど、和輝君はおそらく誰が見てもそう答えるくらい格好良い。
「――香奈が好きなんだ」
悲哀をたたえた微笑。
好きという気持ちを誇る、というよりは、どうして好きになってしまったんだろう、という後悔のほうが強い。
少なくとも、私にはそう感じられた。
「水野さんが、正臣を好きなようにね」
いたずらにウインクして見せた。
「やっぱりバレてたんだ……」
「うん、バレバレ。おそらくクラスで知らない奴は、正臣本人を残すのみだと思うよ」
クラスメイトの態度から薄々感じてはいたから、いまさら驚きはしなかった。
そう考えると、最後まで気がつかない正臣君は、もう超が冠に付くくらい鈍感で、鈍感で、鈍感だ。
女心が分からない、という冠もおまけで付けたいくらい。
「気がつかなかったな。和輝君が香奈さんを好きだったなんて」
「隠していたつもりはないんだよ。ただ、俺の周りには、積極的に好意を態度で示す人間が多くてさ。木を隠すなら森の中というか。意図せずにそうなったみたい」
「香奈さんも……そうだもんね」
グラウンド上では、スリーアウトで守備と攻撃が入れ替わる。それを一瞥した和輝君が、興味を失ったように窓から離れて、教室の出口に歩いていく。
話は終わり、背中から和輝君の声が聞こえてくるようだった。
「香奈は正臣が好き。水野さんも正臣が好き。俺は、そんな香奈が好き」
出口近くで立ち止まった和輝君が、香奈さんの机を見下ろしている。
「俺の親友はさすがにモテるな。でも、あいつは……」
「正臣君は?」
私は思わず声に出していた。正臣君のこととなると、耳を手のひらより大きくすることが出来るのが、私の隠れた特技――悪い癖――だ。
「……あいつの好きな人って誰かな、と思ってさ」
でも、に続く言葉としては不適格だと思う。
とっさに言おうとした言葉。それが禁句であることが分かって、あわてて取り繕った。
私の第六感はそう教えてくれた。
「和輝君は知ってるの?」
「……知らない」
平板な声は、これ以上の言及を許さない。
「でも、もしも、あいつが他の誰かを好きだとしたら……」
和輝君の言おうとする言葉が、テレパシーのように私の脳に伝わった気がした。
でも、それは幻聴に過ぎなくて。
テレパシーはシンパシーに過ぎなくて。
「――救われないな、俺たち」
肩越しにその言葉を残して、和輝君は教室を出て行く。
和輝君の言葉に負けそうになる私がいた。
引っ込み思案で、香奈さんのように積極的になれない私。
勉強しか取り柄がなくて、正臣君を笑わせる冗談も思いつかない私。
和輝君の言う通り、救われないのかもしれない。
――正臣発見! かなり探したんだぞ! それこそ掃除用具入れの中まで!
――そうそう、体中縛られて、口にはガムテープ……って、いじめかよ!
遠くから、正臣君と和輝君が出会う声が聞こえて、私は自分のことのように嬉しくなる。
「生きている限り、可能性はゼロじゃないよ……きっと」
攻守の交代したグラウンド。
ピッチャーマウンド上では。
バッターから三振を奪った加藤さんが、天に向かってグローブを突き上げていた。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。面白いものって何でしょうね……自分の小説を読んでいて、面白いと感じたことがないのでそれが分かりません。プロットに沿って書いていると、時々流れ作業になっていることに気がつきます。第三者になって、自分の小説を読んでみたいです……。世迷いごとでした。
評価、感想、栄養になります。