第A-2話・ある少女の思い
「私に――」
触るな。
語尾は暴力に変換された。
つかまれた手とは反対の腕を素早く折りたたむ。肘を鋭角にし、感覚で相手の顔面を探り当てる。顎は人体の急所の一つ。それを周知した上で、一撃必殺の元に沈める。それを意図した肘打ち。
相手は、私の手をつかんだことを後悔するだろう。
そんな傲慢な思考と一緒に、少女はひじうちをたたき込む。
イメージは、すぐに現実に変わるはずだった。
「な、何を! 危ないだろ!」
「和輝君!」
もちろん、先の声も、後の声も、少女のものではない。
「睦月……雫か?」
睦月と呼ばれた少女は、うっとうしそうに黒髪を跳ね上げ、腕を組む。
「だったら何なの?」
尻餅をついた和輝に手を貸そうとする少女。
右足を怪我しているのか、包帯の巻かれた足が痛々しい。
松葉杖を転がしてすがり寄る少女は、自分の怪我など気にはしていないようだ。
「ありがとう、水野さん」
怪我の痛みをおして手を貸してくれた水野に、和輝は頭を垂れる。
「軟弱ね」
吐き捨てる睦月の声に、和輝の眉間にしわがたくわえられた。睦月の他人を寄せ付けようとしない姿勢。和輝が知る親友の姿とは、真逆と言っていい態度。
「いいの……和輝君には助けてもらったから」
消えそうな笑みを浮かべて、和輝が拾い上げた松葉杖を受け取った。なんとか和輝に寄り添うことで、不安に心を折られないようにしている。
それが水野の精一杯だった。
「水野さん、行こう」
和輝が松葉杖をつく水野を助けようと、腰に手を回す。
「あ、あの……あり、がとう……」
水野は少しだけ恥ずかしがったが、和輝の思いやりに下心はないと判断し、うつむき加減にお礼を伝えた。
「いいナイト精神ね。彼女も満足?」
「わ、私は!」
好きな人の顔を頭に浮かべた瞬間。
どうしようもなく、大声を張り上げたくなった。
私は誰の物でもないと、高らかに宣言したかった。
私には好きな人がいる。
そう目の前の傲慢な少女に伝えたい。
勘違いしないで欲しかった。
隣で支えてくれる和輝君には悪いと思う。でも、それだけは間違って欲しくなかった。大好きな彼が、少しでも私のことを想っていてくれるなら。身を引いてしまう原因を作ることだけはしたくなかった。
たとえ、私の一方的で馬鹿げた妄想でも。
「水野さん、気にしちゃダメだ」
冷静な和輝の声で水野は口をつぐむ。
「う、うん……」
和輝は水野をかばいながら、舞台袖の放送機器が詰め込まれた部屋に歩を進める。
力強い足取りと、決してくじけることのない強い意志が、水野の足の痛みを和らげていく。
水野はそんなかたわらの優しさの向こうに、和輝という人間を支える、優しすぎる親友の影を見た気がした。
「睦月さんも」
和輝は睦月とすれ違った後、肩越しで。
「助かりたいのなら」
水野の腰を抱く和輝の握力が強まる。
水野はそれを分かっていても、和輝の苦渋の表情の前では、何も言うことができなかった。
「元から私もそのつもりなんだけど」
腕を組んだまま、暗闇に冷笑を浮かべる。
生徒たちの悲鳴、怒声、懇願、自暴自棄な声の真ん中で、それをはねつけるような強固な態度。
自信を見せつけるかのような睦月の所作に、水野は自らの足が再び痛み出すのが分かった。
思うように歩け無いどころか、和輝の助けを借りてしまっている自分と、まるで誰の助けもいらないといった自負を持った睦月。
比べた自分自身に歯ぎしりした。
こんな自分を、大好きな彼が見たらどんな風に思うだろう。
睦月に惚れてしまうのはないか。
そんな悪い予感が水野の頭をかすめた。
「しつこい」
水野を助けて歩く和輝の後方。
睦月は裏拳で、背後から襲おうとした生徒を床に沈めていた。
背後を振り返らない一撃。
自らの肩の位置に、生徒の顔があることを知っていての攻撃だった。
返り血がついた拳を、倒れた生徒のシャツで拭うと、不敵に笑って二人の後に続く。
「松葉杖。早くしなさいよ」
背後でつぶやかれて肩が跳ね上がる。
――松葉杖は、私の名前じゃない。
そう反抗しようとした水野の耳に、奇怪な音が進入する。
トマトがつぶれるような音がしたかと思うと、木の皮を剥がすような音。
布が破れる音がしたかと思うと、ガムをかむような不快な音。
剥がす音、ちぎれる音、硬質な音、つぶれる音。
……今までになかった音。
未知のそれらが、渾然一体となって体育館中から聞こえ始めているのだ。
「な、何……?」
背後から生暖かい風に乗ってやってくる圧迫感に、水野は背筋が凍っていくが分かった。
和輝もそれが分かっているようで、歩幅が水野に気をつかう速度ではなくなっている。
額に汗を浮かべながら転がるように舞台袖に飛び込むと、和輝は水野を手放し、閉めたドアに体重をかけた。
途中で和輝たち二人を追い抜いた睦月は、高価な放送機器を、何のためらいもなくドアの前――和輝の前でもある――に放って緊急封鎖した。
「これで一時しのぎにはなりそうね」
両手をたたき合わせて、ほこりを払う仕草。
いかにも、一仕事終えました、とでも言いたそうに大きな息を吐く。
そんな睦月に和輝は恨めしそうな眼差しをぶつける。
「……物を投げる前に、きちんと確認して欲しいけどな」
「怪我しなかったんだからよかったでしょ。感謝しなさいよ、私に」
小声で、するかよ、とこぼすが、睦月には聞こえるはずもなく。
水野はそんな和輝の悪態に目を丸めている。
普段から優しく人柄の良い和輝の中に、鋭いナイフのような物が隠されていることを知ったからだ。
その瞳は、穏和などとはほど遠く、必要ならば血で血を洗うことも辞さない、という危険なものだった。
予期せぬ和輝の姿に、思わず手に持った松葉杖を取り落としてしまう。
「水野さん? どうしたの? 痛む?」
テレビのチャンネルのように、あっさりと和輝の表情が切り替わった。
取り落としてしまった松葉杖を素早く拾い上げ、きちんと取っ手側を向けて渡す。
誰しも好感触を得るであろう笑顔付き。
「う、ううん、大丈夫です。もう、治りかけなんです」
「でも、無理しちゃダメだよ。甘えるところは、きっちり甘えていかないとね」
水野の作った笑顔よりも、数段上手な笑顔。
二つの作り笑いが交錯した。
無理をして明るい笑顔をつくろうとした水野に対し、和輝はすでに用意してあったシールを貼り付けた感覚だ。
「和輝君は……」
――自分の心の中に、特定の人しか入り込めない聖域を持っているんだね。
「優しいね」
言葉と心は裏腹だった。
私の大好きなあの人と、その人にいつも寄り添う女の子。その二人にだけ踏み込むことの許された、絶対的な領域。
心の内側と外側。
二人以外には、ただの優しい和輝君。
二人には、本当に優しい和輝君。
和輝君の境界線の内側に二人はいて、私は外側。
向けられる優しさも、笑顔も、全く違う。
笑顔の区別はほとんどできないけれど、私は唐突に理解した。
「優しいなんて。ほら、俺って人が良いから」
おどけた調子で笑う。
この和輝君も、きっとよそ行きの和輝君。どうでもいい他人に向けられる笑顔。
そう、きっと世界と二人を秤にかけても、きっと和輝君は二人を選ぶ。
断言できる。
だからこそ、胸が痛い。
……私にはそんな友人はいないから。
私はただの都合の良い友人でしかない。
テストや、学校生活でだけ必要とされるお利口さん。優等生。
誰にも嫌われてはいない。でも、夜にたわいもない話を電話越しに聞かせてくれる友人はいない。
もし、私がお利口さんじゃなかったら。優等生じゃなかったら。
きっと私には何も残らない。
――うらやましい。
私も誰かの特別になりたい。
違う。
誰かのではなく、大好きなあの人の。たった一人だけの特別になりたい。
すぐにでも、今すぐにでも、必要として欲しい……されたい。
「……まさ……」
胸の鼓動が止まらない。
目の前にある命の危険に対する動悸ではない。
精神的な危険。
必要とされていない……満足に走れない足手まとい……。
それらを掛け合わせた、涙も枯れるような焦り。
水野春美という存在の希薄さ。
「水野さん?」
「……おみ」
助けて欲しかった。
呪文のように唱えれば、助けてくれるような気がした。
必要として欲しかった。私が私でいていいと、つなぎ止めて欲しかった。
彼ならそれができる。
……ねえ、助けて。
「水野さん!」
和輝の声に、水野はようやく脳内の迷宮から抜け出した。
危うく抜け出せなくなりそうだった迷路から、強制的に連れ戻される。
「え、あ……和輝君?」
「よかった……いきなり黙りこくっちゃったから」
胸をなで下ろして、水野ではなくドアに視線をくれる。
和輝は、その向こうに蠢く得体の知れない物を見つめていた。
夜目が利く和輝以外には、まだ認知されていない異形の生物。人では到底破壊できないこの封鎖されたドアにも、不安が残る。
「ねえ、いつまで隠れているつもりなの? かくれんぼする気はないんだけど」
和輝は睦月の声の先に身構える。
声の先は、地下室へと続く階段だった。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。いきなりですが、文字数が少なくて申し訳ありません。更新優先……と前向きにとらえていただけると嬉しいです。
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