幕間・事件の朝、彼女が感じ、彼女が思ったこと
携帯電話を開き、暗証番号を入力。再度メールの内容を確認する。
「とうとうこの日がきちゃったね……」
そこには、私にしか分からない文章がつづられていた。私の頭の中で速やかに暗号は解読される。知りたくもないのに、メールは計画の決行日が今日であることを告げている。
組織にとって、今日は重大な転機。
組織の人間なら、誰しも十分に承知している。もちろん私も例外ではない。私が組織の中で育つ過程で、嫌というほど、頭に、体に叩き込まれてきたから。
孤児だったらしい私が、餓死寸前のところで組織に引き取ってもらって、そこで初めて人生の歯車が回り始めた。
孤児だったらしい……とは、幼い頃の自分の記憶でさえ、私は持っていないから。餓死寸前で引き取られたということも、実は文字上のことだけで、私の記憶にはない。好奇心として組織にその疑問をぶつけて、初めて私は自分がこの場所にいる理由を知った。
もちろん、母の記憶も、父の記憶も、家族の記憶も皆無。
生まれてから初めて記憶した風景は、私が知る限り、白、だった。
無ではなく、白。
上下左右、東西南北、喜怒哀楽。
今では当たり前に思えるそう言った事柄でさえ、私には新鮮に思えて仕方がなかった。
そんな私。
自意識が芽生える前の段階で、命を散らしていたはずの私。
その私をここまで育ててくれた人。父とも呼べるその人のために、私は尽くさなければいけない義務がある。
それは結果的に、組織のためでもあるし、その人のためでもある。
それは結果的に、私にとっての恩返しでもあるし、親孝行でもある。
瞳を閉じて、私はその人の姿を脳裏に浮かべた。
誰よりもたくましい、鋼のような肉体。多くの屈強な部下を従えながら、先陣をきるその人の姿。誰もが羨望のまなざしで見つめる彼は、組織特殊部隊の部隊長。私と大好きな彼を迎えに来てくれる人……。
深い思いから抜け出して、瞳を外界にさらした私の目前には、アパートがある。そのうちの一室。扉の前にたたずむ私は、メールの履歴画面を下にスクロールさせていく。
画面に現れるのは、色の異なった二つの手紙。
組織からの通達メール。
大好きな人からのメール。
その二つのメールが、交互に入り混じっている。
組織からのメールは定期的に届くけれど、大好きな人からのメールはなかなか届かない。
何度も何度も勇気を振り絞ってメールを出して、やっと手に入れることができる彼の意思。そっけなく、面倒くさそうにメールをうったであろう彼のたった一言が、今では私の生涯で唯一の宝物になった。
私はまるで馬鹿の一つ覚えのように、彼からのたった一言を音読して、彼の表情を、声音を想像する。暗記してしまった彼からの数少ないやり取りは、この世のどんなものよりも深く私の心を打った。
寄せては返す波のように、飽くことなく私の心をかきたて、胸を高揚させる。
私は彼のアパートの呼び鈴を鳴らした。
「……大好きだよ」
つぶやいてみる。
メールを受け取る度に、私は今すぐにでも彼の元へ飛んでいって、私だけのものにしてしまいたくなる衝動に駆られた。
彼に全てを捧げてもいい。
彼の望むことなら何でもしてあげたい。
どんなことをされてもいいから、彼のそばにいたい。
どんなことをしてでも、彼のそばに居続けたい。
ただそれだけの望みのために私は生きている。
組織から下された命令は、もちろん実行しなければならない。
でも、重要度で言ったら、この町に派遣されてきた当初から比べれば、雲泥の差。そう断言できてしまうほど、組織の命令よりも、彼のことのほうが大切に思える。
だから私は、組織に、父と呼べる人に、最初で最後のお願いをした。
――大好きな人ができました。その人を助けてもいいですか?
きっと本来なら許されないことなのだと思う。
でも、組織はそれを許してくれた。完璧な教育をされた私が、ここまで執着したことが初めてだったから、少しだけ興味を持ったのだろうか。
いや、それ以前に、計画実行の段階まで来て、最適任者である私が裏切ることを恐れたのだろう。
計画の齟齬は、即組織の瓦解を意味しているから。
過程はどうあれ、私は彼を手に入れることを、彼と二人で生きることを許された。後は、彼と心を共有するだけ。
私のわがままを許してくれた父は、そんな私の頭を優しくなでてくれた。
生まれて初めてだった。
私を張り倒すことはあっても、決して優しく手を伸ばしてくれたことはなかったその手。仏頂面は相変わらずだが、手のひらの大きさと、温かさだけはいつまでも消えることはなかった。
今でも、頭の上にはその大きな手の感触がある。
私は寄りかかった扉から体を起こし、彼の登場をひたすらに待つ。彼が一向に出てこないのを訝しがって、私は玄関前をうろうろしたりしてみたが、彼が出てくる様子はない。
……計画実行までの時間は残り少ない。
地域担当者である私は、バッグの中にあるものを、体育館に放り込むという使命を帯びている。彼が遅刻することは、私があらかじめ仕組んだこと。でも、もし彼に会うことができなかったら。
――愛は、ここで途切れてしまうことになる。
考えるだけで、心が刻まれるように痛い。
「はい、今開けます」
待ち望んだ声とともに、彼と私を隔てていた扉が開かれた。
「……何をやってるんだ?」
長く伸びたぼさぼさの髪をなでつけながら、彼が顔をしかめる。そんな彼が、なんだかとても可愛い。
「あれ、正臣も遅刻? 奇遇だね」
私は自分ができる唯一の感情表現を、満面に浮かべる。
「奇遇だね……って、香奈も遅刻か。珍しいな」
「うん、なんか完全に遅刻って分かったら、あわてるのも億劫になっちゃって」
本当は違う。でも、今は普通の二人でいたいから。
「和輝は?」
私は首を横に振る。
「今日は雪でも降るのか? いつも遅刻してるあいつが遅刻しないなんて……」
「同感」
すべては計画通りに進んでいる。和輝が遅刻をしなかったのも、正臣が遅刻したのも。
この町で組織が自由にならないことなんてない。
「にしても、だ。遅刻した人間が、どうして俺の家の前にいる」
「う〜ん、なんでだろ。正臣も遅刻するような気がしたんだよね」
自分で言って本当に馬鹿だと思う。でも、そんな嘘も正臣となら本当に楽しく思える。計画なんてそっちのけで、日常に戻ってしまったみたい。
でも、正臣はそんな私に不満げだ。
「あ、置いて行かないでよ、つれないなぁ……」
私の言葉を無視して通り過ぎる。頬を強張らせて、怒ったふりをしている正臣が、ますます愛しい。
「正臣、髪の毛切ってあげようか?」
無視される度に、彼が意地を張っているのが分かる。
「私としては、短い髪の毛のほうが好みなんだけどな」
正臣の髪の毛がゆらゆらと揺れる。
「そういえば、睦月さんが、正臣のこと……」
私の切り札に、正臣は足の動きを止める。
「……なんて言ってた?」
「髪の毛切らせてくれる?」
本当は出したくなかったこの話題。正臣は誰にでも優しいから、そんな正臣をみんな好きになってしまう。
でも、本当に正臣を分かってあげられるのは私だけ。
「……短すぎないように」
渋々承諾する正臣が、唇を尖らせる。
「どんな髪型にしようかな……」
正臣の髪型候補が、私の頭の中をぐるぐると回る。
「……で、その、睦月さんの件。なんて言ってたんだよ」
言われなくても分かっていたけれど、私はあえて忘れていたふりをする。正臣と二人きりなのに、他の女の話なんてしたくない。
「聞きたいの?」
「決まってるだろ!」
無人の通学路に正臣の大声が響き渡る。
「……そんなに大声出さなくたっていいじゃない」
どうして正臣は私がいるのに、他の女の事を考えるのかな。
「悪かったよ……」
やっぱり、正臣の周囲を軽くしてあげないと私を見てくれないのかな。
「睦月さんは……こう言いましたとさ」
でも、ごめんね。
睦月さんは、正臣には気がないみたい。
「東城正臣? 知らないわ」
私がそのときの光景をリアルに演じながら、正臣に伝える。正臣はまるで世界の終わりでも訪れたかのように、顔を真っ青にする。
「……は?」
「一言一句もれなく伝えました。短かったから、忘れようも、間違えようもないけどね」
「本当にそれだけ?」
「本当にそれだけ。『東城正臣? 知らないわ』」
正臣に分かってほしくて、私は繰り返す。
「『東城正臣? 知らないわ』」
正臣には私がいる、他の女なんていらない。
ね、分かるよね。
「『東城正臣? 知らないわ』」
「聞こえてる!」
「……あら」
「いや、当然といえば当然の結果だよな。かたや、学校一の優等生にして、スカウトの目にもかかるほどの美女。かたや、ただの男子高校生だもんな……」
正臣が肩を落として私の前を歩いていく。
「正臣……だいぶ落ち込んでるね。でも、いいじゃない。私がいるんだし。ほら、慰めてあげるよ。この大きな胸に飛び込んできなさいな」
私は正臣に向かって両手を広げる。いつでも正臣を受け入れる準備はできてる。あとは、正臣次第なんだよ。
「そんなに胸大きくないだろ」
「あ、セクハラ」
確かに、胸は大きくはないけれど、小さくもないはず。
「正臣……。私、胸、小さいのかな」
「気にしてたのかよ」
「正臣がそう言うから、気にした」
私は制服の上から胸の大きさを確認する。手のひらサイズで、形もいいし、きっと正臣に気に入ってもらえると思っていたのに。
「じゃあ、例えば俺が髪の毛の短い子が気になるって言ったら?」
「短くする」
正臣がそう思うなら、私は正臣が思うがまま、私を変えるよ。正臣が好きになってくれるなら、私は自分の色を正臣の色に染め替えるよ。いつでも、どんなときでも。
私には、その準備がある。
「厄日だな……これは」
正臣が、校舎に向かって黒いため息をつく。
「厄日なんかじゃないよ。きっと最高の一日になる」
私は立ち止まり、正臣の背中に向かって精一杯の感情を届ける。
「だって今日は、二人にとって人生で一番大切な日になるんだから!」
私は正臣が好き。大好き。
誰よりも、何よりも、この世界よりも。
この愛は、誰にも止められない。
――そして、私はその愛を止めるつもりもない。
「それが中井香奈なんだよ」
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。
最近、気がついたことです。
現在「スクール・オブ・ザ・デッド〜ジ・アナザーデッド」と「多重人格な彼女」を同時連載しているのですけれども、作者は作品ごとの読者数というものが分ります。ちなみに、この二つの作品でいうと、実は「多重人格…」の方が「スクール・アナザー」よりも、二倍以上の読者数があります。ホラーとラブコメディの差でしょうか。作者的には、力を入れているのは、「スクール」なのですけれど……もともと悲しいお話好きですし(笑)
それが気がついたことです。どうでも良いことでしたね。
それでは、評価、感想、栄養になります。