第B-5話・引き絞られた想い
……私は何をしているんだろう、と思う。
少し大きめのため息をついてみても、肺がきしむだけで、内側にため込んだもやもやに晴れ間はささない。
私はどんよりと曇った空の下、いつやってくるかも分からないある人を、偶然を装いながら待っていた。
もう何十回目かも分からない予行演習を終えて、何十回目かも分からない自己嫌悪にため息をつく。
鞄の中には、出番を待つ二枚の映画のチケット。
石造りの厳つい校門に背中を預けると、ひんやりとした感触を制服越しに感じる。鞄を足下に置いてハンドミラーを取り出すと、周囲の視線を自意識過剰気味に受け止めながら、そっと自分の顔をのぞき込む。
そこには、少し疲れたような自分の顔があった。
ふっくらとして血色の良い姉の顔に比べて、やせこけた印象のある青白い顔。
長くて綺麗にカールした姉のまつげに比べて、力なく気持ち程度の上向き加減。
ぷるんとして潤いのある姉の唇に比べて、リップを何度も塗らないとすぐに乾燥してしまうかさかさの唇。
小さくてしみ一つない姉の鼻に比べて、鼻の穴の形が気にくわないし、一回りも大きい。
なめらかで化粧ののりの良い姉のもち肌に比べて、ファンデーションすらうまくのってくれない乾燥肌。
分けた髪の隙間からでも分かる形の良い姉の額に比べて、少し広すぎるとさえ思える私の額。
「お姉ちゃんばっかり……」
ハンドミラーを乱雑に閉じて、足下に置いた鞄にしまう。胸ポケットに入れておいたら、また自己嫌悪を誘発する元になるから。
「はぁ……あ、またついちゃった」
知らず知らずのうちにため息をついてしまう。
ため息をつく度に幸せが逃げていく、なんて言う人がいるけれど、実はそれは迷信なのだ。
夜に爪を切ると親の死に目に会えない、というのと同じで昔から語り継がれてきたもので、これといって根拠がない。
さらに、最近読んだ書物によれば、ため息は、体の中にたまった悪い気のことで、吐かずに溜め込んだままにしておくと、ストレスが蓄積し、不安感や自信の喪失などのマイナス思考を引き起こすのだそうだ。
つまりは、ため息により体の中から悪い気が吐き出され、その反動で深くゆっくりと酸素を吸い込むことで、内臓の動きが活発になり、血行が促進される。そして、全身に新鮮な酸素が行き渡り、心身ともにリフレッシュすることができる……とかなんとか。
「でも、やっぱりため息をついている自分は、幸せから疎まれている気がするよ……」
根拠や、実説を並べ立てて、前向きという方角を向いてみる。残念ながら、その方角にあったのは空虚な曇り空だけだった。
曇り空のようによどんでいく自分の心から逃げようと、今度は足下に視線を落とす。
ふと視界に入ってしまった自分の体に、またコンプレックスが膨らみ出す。
制服の上から、自分の胸に手を当ててみる。お椀型で形は悪くない。
……少し外向きなのは気になるけれど。
一方で、手のひらサイズなので大きさは悪くない。
近年上昇しているバストサイズの平均だって、まだかろうじて上回っているんだから。
本音を言えば、膨らんでいくコンプレックスのように、バストサイズも膨らんで欲しいところだけど。
「でも、お姉ちゃんは……」
タオルを用意し忘れて、バスルームに飛び込んでしまった姉が、私を大声で呼んだときときだ。
私は日課になっているため息をつきながら、バスルームの扉から半身をのぞかせる姉に目をくれる。姉は舌をぺろっと出して、申し訳なさそうに片目をつぶる。
そんな姉の姿を見て私が真っ先に浮かんだ感情は、他でもない、嫉妬心だった。
大きさに似合わず形の良いバストは、誇らしげに、上向きにその存在を主張している。ウエストはモデル顔負けのくびれ具合だし、ヒップですら重力を無視した向上心に溢れている。
けなす言葉が見つからないほど、姉は魅力的だった。
濡れた髪の毛が鎖骨を通って、胸の谷間に張り付く様は、女の私、妹の私ですら、息をのんだ。
……その夜、バスルームの鏡の前で滑稽ポーズをとりながら、姉に対抗する自分がいた。
バスタブの中であまりにも悶々と考えすぎて、のぼせてしまったこともある。
「本当、情けないな……私」
足下の鞄をそっとつま先でこづくと、鞄はバランスを崩して簡単に倒れた。ちょっとした八つ当たりだった。すると、鞄の取っ手につけられたキーホルダーが鞄の外側に付いたポケットから飛び出す。
ずっと昔、ある人が私にプレゼントしてくれたものだ。
私と姉、その人。
三人でみたホームビデオ。そのすり切れたビデオテープの中で、キーホルダーのモデルとなったキャラクターと、私は運命の出会いを果たした。
真っ黒な姿で、まん丸で、つぶらな瞳で、人見知り。
一見すると真っ黒な綿あめか、真っ黒なたわし。
森の中に住んでいる空飛ぶ毛むくじゃらの巨大動物や、猫のバスが人気の大半を占めた映画だったのに、私の心は彼――彼女かも知れないが――に首っ丈になってしまった。
それを見かねたその人が、後日そっと手渡してくれた。
「ごめんね……蹴っちゃって。痛かったよね」
私は校門前に座り込んで、倒してしまった鞄にぶら下がったキーホルダーを優しくさすってあげる。もう何年も前のもので、黒い塗装がはげてしまっているけれど、大事に鞄の外ポケットにしまっているせいか、老朽化はそれほどでもない。
私は無傷で住んだキーホルダーをじっと見つめ続ける。
ドラマだと、こんなところを大好きな人が見つけてくれて、こういってくれる筈。
「……そのキーホルダー、まだ持っていてくれたんだな」
そう、こんな感じで。
「それさ、だいぶ昔に俺が買ってあげたヤツだよな。それだけ気に入ってくれると、贈った俺としても嬉しい」
事実は小説よりも奇なり。
いや……少し違うかな。
私はドキドキする胸を押さえて、慌ててキーホルダーを所定の場所にしまう。
「好きなキャラクターだもん。当然のことだよ」
「確かに。真由は物持ちも良いし。……誰かさんと違ってさ」
右肩に担いだ弓を抱え直して、夕暮れの景色に笑顔がこぼれる。
私はそんな彼から視線をそらしながら立ち上がった。
「で、その誰かさんはまだ現れないのか?」
「……え?」
「あ、いや、だから由美を待ってるんじゃないのか?」
校門から校舎を眺めていた彼は、見当違いであることに気がついて、私に視線を戻す。私は、予行演習を思い出す。
「あ……う、うん、そう! お姉ちゃんを待ってたら、たま、たまたま大君が通って。あはは……偶然だよね、ほんと偶然偶然」
なんのための予行演習だったのだろう。噛んでしまっては練習の意味などない。
「どのぐらい待ってるんだ? あいつ図書部員だから、そんな時間かからないはずじゃないか。真由は帰宅部だとしても、二時間以上は待っていた計算になるぞ」
携帯電話を取り出して時間を確認する大君。困ったように眉をハの字に曲げて、お姉ちゃんへの愚痴をこぼす。
「ったく、出来た妹を持つと、姉がだらしなくなるっていうのも考え物だな。約束してるんだろうに」
「あはは……本当にお姉ちゃんには参っちゃうよ」
ごめんなさい、お姉ちゃん。
いつかポテトのLサイズをおごります。なんなら、ドリンクもつけます。
「真由さ」
「うん?」
夕陽を背中に背負いながら、大君は頬をぽりぽりとかく。
「由美のことはいいから、一緒に帰らないか? 三人一緒じゃないっていうのも新鮮でいいだろ」
鞄の取っ手をつかむ私の手が汗ばんでいく。
緊張しちゃ駄目だ。
緊張したら、言葉につまずいてしまう。
つまずいたら、もう二度と繰り返せなくなりそうで怖い。
だから、緊張しちゃ駄目だ。冷静に、慎重に。かつ、普段の私の調子で。
「大君、その、あの……」
……きっと、つまずいたよね、今の。
本当、コンプレックスだらけ。
「あ、駄目だよな。由美と約束してるんだもんな。悪い悪い今のは無しだ」
私はうつむきそうになる顔を、慌てて右に左にぶんぶんと振り回す。
「違うの! 私もね、もうお姉ちゃんのことあきらめて、帰ろうとしていたところだから。だからオッケーです。もうオールオッケーなんです!」
私は人差し指と親指で円を作り、大君の顔をその中に納める。
大君の愁いを帯びた顔が、夕陽の下で笑顔に変わっていく。大君の表情を変えてしまえる自分が嬉しく思う。
コンプレックスだらけの私が、ほんの少しだけ自信家になれる瞬間だ。
自信家というよりは、策謀家かな。
こぼれてしまった微笑みに、大君が疑問符を浮かべる。
「どうしたんだ?」
「なんでもないなんでもない。帰ろうよ、大君」
「ん」
大君が、手を差し出してくる。
「いいよ、鞄ぐらい私が持つよ。大君だって、鞄と弓、持っているんだし」
さしだされた右手を丁寧に辞退する。
「ん」
それでも大君は右手を差し出し続ける。
「だから、大君、気持ちは嬉しいけど鞄ぐらいどうってことないよ」
私はダンベルよろしく手に持った鞄を上下させる。案外軽いかと思ったけど、鞄を上下させるのは重労働だった。最近、運動不足だから、仕方がないのかも。
「鈍い奴め……仕方がない。真由、今から俺がマジックを見せてやる」
大君が困った顔を浮かべている。私の腕力の無さが見抜かれてしまったのだろうか。だとしたら、情けないかも。
……それはそれとして。
「えと、マジック?」
「そうだ。世にも奇妙なトリックだ。あらかじめ言っておくけどな、種も仕掛けもない。いいか、真由、俺の手のひらを良く見つめるんだ」
真剣な顔だ。弓を引くときと同じかそれ以上の面持ちだ。
「うん、わかった」
私は頷くしかない。
大君の手のひらは、大きくて生命線が長い。ごつごつしているその手も弓道の産物だと思うと、自分のことのように誇らしげになれる。指の付け根が黄色く、堅くなっているのは、豆がつぶれて新しい肉が付き、だんだん厚くなっていったためだ。
別名、努力の証とも言う。
野球部ほどバットを振るわけでもないのに、そんな手のひらになってしまっているのは、それこそ何千、何万という練習の積み重ねの結果だった。
「では、真由の手を俺の手のひらの上にのせる」
大君が宣言する。
私は、おそるおそる大君の手のひらの上に自らの手のひらを重ねる。
やっぱり、大君の手のひらは硬かった。
大きくて、堅くて、でも、斜陽のように暖かくて、たくましい……まるでお父さんの手のよう。
「そして、俺はゆっくりと真由の手を握り、十秒待つ――」
大君が驚いたような声を上げ、私に微笑みかけた。
「――さて、帰るか」
「…………え? 帰るって大君!」
「なんだ?」
何食わぬ顔で笑い、白い歯を見せる。
この顔は、分かっていて馬鹿にしている顔だ。幼馴染み経験から推測する。
「マジック! 起こってないよ!」
「怒ってるだろ」
「意味が違うの! こう、コインが消えてなくなるとか、何もないところから取り出すとか……そういうのがまだ、起こ……現出してないよ!」
しっかりと私の手を包んでいる大君の暖かさに、思わず大げさに照れ隠し。
「起こったと言わずに、現出と言うところが、何とも冷たいな。ボケを未然に防いでいる」
弓を担ぎなおしながら、大君が笑った。
「だから、違うんだってば!」
「なぁ、真由」
大君が私を引き寄せた。握りあった手……私もつい握り返してしまった手を少しだけ強引に。
抱きしめあったわけではない。体を触れあわせたわけでも、口づけあうわけでもない。距離が少しだけ縮まっただけ。夕陽の下で、学校の校門前で。
放課後にだけ許される少し危険な距離。
「真由と手をつなぎたかった」
大君の目が私の瞳を吸い込み始める。視界に広がる大君の顔が私の記憶に否応なく、すり込まれていく。夕陽の下というシチュエーションはこの上なくムーディだ。
私もムードに弱い女の子だと言うことが再認識させられる。
でも、きっとそれは大君だけのはずだから。
――心の中でずっと引き絞ってきた私の想い。
すでに淡くなく、濃厚な一色に染められた感情の矢尻。
いつ解き放たれても不思議ではないくらい引き絞られている。私の心の中で磨き上げられてきたこの矢が、目の前の彼の心を打ち抜くことが出来るのかは分からない。
ずっとずっと引き絞ってきた。
弦が切れてしまうんじゃないかってぐらいの力で、長い時間をかけて極限まで引き絞ってきた。
もう、駄目だよ。
こんなことされると、溢れそうになる。矢を放ちたくなる。
他でもない、あなたに向かって。
「だから、真由さえ嫌じゃなかったら。ごつくて、荒れた手で申し訳ないんだけど」
「……ごつくて、荒れた手じゃなかったら、大君の手じゃない。頑張り屋の手がいい」
胸の中が暖かさでいっぱいになる。
締め付けられて、こぼれそうになる。胸の中で引き絞り続けた矢が、言葉となって口から……ううん、体中から出たがってる。
――もう、いいよね。我慢しなくて、いいよね。
「大君、私……」
「うん?」
バッグを落として、大君の制服をつかむ。足下に落ちたバッグは音を立てて倒れた。
「私、私ね」
「うん」
大君は優しい笑みを浮かべながら、私の言葉を受け止めようとしてくれる。
「私!」
小さな頃から。
「小さな頃から――」
大君が。
「大君が――」
好きでした。
「あれー、二人とも待っててくれたの? お姉ちゃん嬉しいな〜」
弓につがえたはずの矢が、足下に転がった。
弦は切れ、極限まで伸ばされたそれは、鞭のように私の頬を打つ。頬からは血がでて、私の唇を赤く染めた。舌でその赤い液体をなめとってみると強烈な鉄の味がした。
吐き気を催すような鉄の味。
「由美! お前な〜、真由をあれほど待たせるとはどういう根性してるんだよ」
大君の手が素早くほどかれる。
「え? 私、約束なんて、したっけな……?」
ふりほどかれた手から温もりがゆっくりと抜けていく。
さらには、夜に変わろうという町から抜けてきた冷たい風が、私の手から加速度的に大君の温もりを強奪する。
私は、その温もりをわずかな間だけでも噛みしめたくて、わずかな間だけでもすがっていたくて、自らの手を強く握りしめた。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。作者多忙のために、一ヶ月ほど作品を更新できませんでした。大変申し訳ございません。
これからは、しばらく定期的に作品を更新していけると想います。
こんな作者ですが、これからもよろしくお願いします。
評価、感想、栄養になります。