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第B-3話・弓道場の二人

 早朝の弓道場。


 射場に立ち、盛り上がった安土を見つめる一人の男。


 射法八節をゆっくりと行い、弓を引き分けた。

 自らの動きを脳裏に描きながら、流れるように射法に従うその姿は、袴姿ということもあって実年齢よりもだいぶ大人びて見える。

 弦が引き絞られると、まるで心までも張り詰めていくようだった。



 引き分け……会。



 弓を引き絞る極限の状態が、男は一番好きだった。

 矢を放ち、的の中心を射る瞬間にも、もちろん爽快感や達成感はある。けれども、男は思うのだ。



 ――精神、身体、弓矢。



 その三者が渾然一体となり、今まさに爆発しようとしている。

 度重なる段階を、礼節を経て、やっとたどり着ける爆発の時。


 その先に待つであろう解放感。


 己の中にみなぎる気迫をたたえ、隅々まで伸ばした自分の体に行き渡らせる。

 足袋をはいたつま先から、ゆがけをはめた指の先まで。天と地に届くようなイメージで体の隅々を伸張し、発射の機をうかがう。


 無意識のうちに体の奥底からふくれあがってくる透明な力。


 有視界が限りなく狭まっていき、やがて視界は的と矢をつなぐ一本の線のみとなる。

 肌にまとう袴でさえ、億劫だ。

 弓が体と同化する。そんな極限までたどり着きたい。

 そのためには、まだ。

 まだ、何かが足りない。

 男は大きく息を吐く。肺が酸素を失ってきしみ出す。

 遠く離れた的の中心が、残像を伴ってクローズアップしていく。

 集中力を帯びた目がそうさせるのだろう。

 手を伸ばせば、的に触れることが出来そうだった。



 吐く息を止めた。



 力はまだそこにある。

 求める力ではない、解き放つ力。

 抑圧、その先に満を持す解放。



 ――カタルシス。



 だが、まだ……まだそのときではない。



 もう少しだけ、もう少しだけ待てば、極限にたどり着ける。

 今までずっと追いかけて、手の中からすり抜けていったもの。

 あと、ほんの少し待てば。

 きっとこの手の中に、抱くことが出来るはずだ。

 理解できるはずだ。

 けれど、手ですくった水が、指の隙間から流れ落ちていった。

 カタルシスを待つ男の意志に、初期微動が走る。

 限りなく膨張させた精神と身体が、我慢できずに弓と矢からあふれ出したようだった。

 均衡を失い、暴走する。

 ゆらりゆらりと動き始め、均等に行き渡っていた力が身勝手な方向へ。

 まるで綱渡りだった。

 一度バランスを乱せば、立ち直すのは容易ではない。

 男の迷いは、そのまま弓へと伝わる。

 抑圧された戦場では、たった一発の銃弾が、戦争の引き金となるものだ。

 本人が望んでいなくとも、恐れる心が、震えた指先が、誤って引金を引かせてしまう。



 極限とは、一歩間違えば破壊にも、再生にも変わる。



 いわば未知のエネルギーの集合体。

 男のアンバランスな心が、指先を動かす。


 今。


 男は望まない引き金を引いてしまったのだ。



 ――離れ。



 一瞬遅れでやってくる脱力感と、的に命中する音。それは、銃声のように男の耳に届いていた。

 快哉を叫ぶ声はそこにはない。

 残心の中に、やりきれぬ思いを抱きつつ、男はゆっくりと息を吸い込んだ。

 久しぶりの酸素に、体が喜ぶのが分かった。



「アンタは離れるまでが長いのよ」



 的の隅にかろうじて命中した矢尻がぶるぶると震える。


「一矢射るのにそんなにもたもたしてたら、射る前にアンタは失格。そんな奴は矢を欠ける必要なんて無いわね。練習用のゴム弓でも引いてるのがお似合いよ」


 ふてぶてしい態度で壁により掛かっている女。腕を組んで、小さな口をつり上げた。


「睦月、そんなことを言う前に上級生に対する口の利き方を少しは学んだ方がいいと思うぞ。もっと言葉遣いをしとやかにするとか、目上の者に敬意を払うとかだな……」


 残心を十分な時間をかけて解除すると、男は睦月に向き合った。

 矢尻の揺れが止まるのと同時に、朝の少し冷ややかな風が、射場に吹き込んでくる。

 朝露のみずみずしい匂いに混じって、弓道場独特の匂いが戻ってきていた。

 木と汗が長年かけて培ってきた匂い。たとえるなら、神社の境内のそれ。


「私は誰にもこびたりしない。それに、高く買う価値もないのに、払う敬意なんてあるわけないじゃない。逆にこっちに払って欲しいわ。それとも、アンタには私に敬意を払わせるだけの価値があるって言うの? 弓道部副部長、暁大あかつきだいセンパイ」


 センパイ。

 そう言った睦月の言葉には、込められるだけの皮肉が込められている。日本全国どこを探しても、その発音の仕方は見つからないだろう。


「ああ言えばこう言う女だな……」


 大は困ったように眉根を寄せるが、それ以上に感情が高ぶったりはしなかった。


 日頃から困らせられている。


 そんな気配すら漂うあきらめがそこには漂っていた。


「アンタがつまらないこと言うからでしょ」

「……俺はそれ以前に、睦月が面白いと思うことがあればそっちが知りたい」


 この世に存在するかどうかすら怪しい睦月の面白いこと。

 大も睦月と同じく皮肉を込める。


「アンタが吠え面かいて土下座したあと、安土に横たわって頭の上に的をのせるのよ。それで、私がその的に向かって射るわ。生と死の紙一重って興奮するし、どんなショーより面白いわ」


 腕を組んだまま、大の横に並ぶ。


「お前はウイリアム・テルか」


「睦月雫よ、私は」


「知ってる」


「ならいちいち間違わないで。痴呆症?」


「……ボケが通じない奴」



 無遠慮な言葉の応酬の中で、幼馴染みの姉妹を思い出す大。

 物心ついたときから隣に住んでいて、機会さえあれば一緒に遊んだりした遠慮の知らない幼馴染み。

 どうやら、睦月との遠慮のない会話が思い出のトリガーになったようだった。



 中山姉妹。



 中学を経てからは、男女間のプライバシーやら、社会への体裁から、大手を振って――それこそ本当に手をつないで――遊びに出ることはなくなったものの、今でも交流が途絶えることはない。他人に話せば本気ともとられかねない冗談でさえ、言葉の機微を感じ取って冗談だと即断できる腐れ縁。



 中山姉妹。


 姉、中山由美。



 一見ぼけっとしているが、興味のあることには積極的。珍しく放課後も図書委員の活動をこなしているらしいが、ただ単に恋に悩む委員仲間にいらぬお節介をかけているだけという噂がある。

 面倒くさがりは子供の頃からで、背負った荷物――責任――をよく周囲に押しつけていた。

 することは子供っぽく、どうでもいいことに頭を使うことが得意だ。そのくせ、体だけはしっかりと大人びていて、グラビアもつとまるのではないかという反則技。


 体は子供でも、頭脳は大人。


 そんな少年探偵とは正反対な彼女は。


 頭脳は子供でも、体は大人。


 面倒くさがりな人間だからこそ、そこまで育ったのだろうかと首をかしげたくなる。

 寝る子は育つ……とは、よく言ったものだ。おそらく、全国の婦女子が聞いてうらやましがる成長の仕方だろう。



 中山姉妹。


 妹、中山真由。



 母体から早く取り出されたために、妹というレッテルを貼られてしまった哀れな子羊。

 面倒くさがりな姉をことごとくフォローしてきたために、人一倍精神年齢の成長が急速だった。

 料理は、小学校に入学した頃にはすでに熟練の域に達していて、背伸びをしながらキッチンに向かっていた。その後姿は、驚嘆を通り越して尊敬の域。

 ぶかぶかのエプロンを花嫁衣装のように床に引きずる様は、本当の意味での幼妻だった。

 掃除機の口にほっぺたを吸い込まれて大泣きしたのは、今でも良い笑いの種。

 興味のあることだけに熱心な姉とは大違いで、何にでも一生懸命。さらにはある程度こなしてしまうせいか、器用貧乏なところもたまにきずだ。


 ……最初に母体から取り出したのが真由の方であったのなら、周囲の納得する良いお姉さんになれただろう。


 そんな絵に描いたような姉妹と、そして、幼馴染みの構図。

 今時ドラマでも流行らない、時代錯誤な設定の元で成長してきた。



 幼い頃、公園の帰り道。

 夕焼けに染まる空の下で、電柱にぶら下がっている電灯に少し早めの明かりがともる頃。



 ――大ちゃん、今日はカレーだよ!



 右手には姉由美の手があって、わがままぶりを象徴するかのようにぐんぐんと先へ進む。



 ――由美お姉ちゃん、早いよ! 大君だって苦しそうにしてるのに!



 左手には妹真由の控えめに握る手があって、自分も苦しいはずなのに中央の俺を思いやってくれる。

 とても心地の良い、幼き頃の思い出。

 今でも、思い出さずにはいられない、淡く懐かしい思い出だ。

 微笑みが無意識のうちに作り出されていく。



「大……アンタ、何を薄ら笑い浮かべてるのよ。気持ち悪い」



 大は射場からのぞく早朝の空に、いつのまにか過去を投影していることに恥ずかしくなる。


 急騰。

 

 大の顔が燃え上がった。


興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。区切りが悪いので、今回は二話に分けてしまいました。申し訳ありません。アクションパート……あと少しで……たどり着きます。久しぶりにアクションが書きたいです。

そんな作者ですが、これからもぽつぽつと頑張ります。

評価、感想、栄養になります。

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