第A-最終話・彼女が見つけた結晶
真夜中に蛇口から落ちるたった一滴の雫。
蛇口の先につららのようにゆっくりと水がたまっていって、やがて……人知れず落ちる。
涙のように、一滴、ぽとり。
無人のキッチンに響くその清澄な音は、長い時間をかけて溜まっていった無為なものなのに、なぜか胸が締め付けられるように寂しく心に響いた。
真夜中に目が覚め、窓から差し込む白刃のような月光が、キッチンに差し込んでいる。
恐ろしいほどの静寂と、張り詰めた空気。
不意に私はそれが不気味に思えてならなくなる。
寒くもないのに身震いしたかと思うと、急に不安に襲われた。
私はしっかりと蛇口を閉めて、水漏れのないようにする。
それは、私の心と一緒だから。
確たる自分を持って、きっちりと閉じておかないから。
だから、すぐに揺らぐ。すぐに、染み出す。
長い時間をかけて一滴は落ち続け、気が付けば大河になっていた。大河になれば、もう止めようがない。
心も、涙も。
私がこぼした涙はまさにそれで、最後の一滴は、時間が止まったかのようにゆっくりと落下し、和輝君の袖に染みこんでいった。
「格好いいわね、さすがナイト」
私が放棄していた松葉杖を、和輝君に突きつける。
「女の扱い方も、心得てるのね」
和輝君は、心底忌々しそうに睦月さんを見上げた。
「――俺には、守りたいものがある」
松葉杖をつかむ。しかし、睦月さんは離さない。
二人の間に、意志の火花が垣間見えた気がした。
お互いに譲ろうとしない視線での戦いは、和輝君の先制攻撃で幕を開ける。
「それを守るためなら、どんな犠牲だって厭わない。たとえ世界中が敵になっても、世界を犠牲にしても、俺には守りたい大切なものがある」
松葉杖を握りしめあう膠着状態。
「そのためなら……もし、そのときがくれば……俺は迷わずこの場にいる全員を見殺しに出来
る」
周囲の飽和した空気が動き出す。
生徒会長は興味深そうに頷きながらメガネをなおし、佐藤君は和輝君の言葉に少なからず動揺していた。
睦月さんは、均衡していた松葉杖の競り合いをあっさりと止めて、立ち上がる。
「……アンタ、和輝って言ったわよね」
私は真っ赤に晴れ上がってしまっただろう目をこすり、二人を見比べた。
お決まりのポーズなのか、鷹揚に腕を組み、和輝君と再び視線を重ねる。
重ねると言っても、恋人のように甘い視線の絡み合いではない。
かといって、剣戟のように火花散るものでもなく。
「そういうの、嫌いじゃないわ」
まるで握手でもするかのような、敵同士、健闘を誓い合う行為にも思えた。
もちろん、馴れ合いなどは微塵も存在しない。
「私も似たようなものだし。他人を助ける義理なんて、もらうのもあげるのも嫌。ま、そんな私でも、売られた喧嘩は高く買うけど。もちろん、格安で売ってあげてもいいわ」
鼻で笑う。
「勝手にしてくれ」
「ええ、言われなくても勝手ににさせてもらうわ」
組んでいた右手を軽く振って、和輝君を見下した。
「……水野さん」
私は腫れぼったい目をぱちくりさせて、後ろから抱きしめてくれた和輝君を見上げた。膝をついて座り込んだ私を労って、背中を支えてくれている。
抱きしめてくれた、と一言で言っても、女らしい部分には直接触れようとはせず、そこを避ける形で抱きしめてくれていた。
「和輝君?」
右手は私の首元から回すように、左手は腹部を回すように。私が正臣君を好きだと知っているからなのか、どさくさであっても無遠慮なことはしない。
私が自分を見失いかけたときでも、和輝君は慌てずに、そこまで頭を回転させていたのだ。
逆に言えば、その冷静さ、思慮深さが、和輝君の聖域内に私がいないことの証。
そして、その証から導き出される結論は、先ほど和輝君が宣言したとおり。
――この場にいる全員を見殺しにする準備が出来ている、ということ。
流れ落ちたはずの汚れ。
白い家に、未だわずかな黒ずみが残る。
「今はそのときじゃない。だから、それまでは……」
無理しないで。
そう言ってしまいたかった。言ってあげたかった。
けれど、足手まといの私には、自分一人で出来ることなど極端に限られていて。
和輝君の手を借りずに、大好きな人に出会える可能性はゼロに近くて。
私は、本当にずるい人間。
和輝君の優しさからくる責任感や罪悪感に、みっともなくすがりつくしかない情けない人間。
分かっていて、おんぶにだっこをしてもらうしかない弱い人間。
甘えてもいいと、和輝君は言ってくれた。
だから、甘えてもいい。
甘えてもいいんだ。
そのためには、右足が骨折していることを悲しげな顔で訴えて。
大丈夫だよと、あえて強がりを言って。
時々、わざと口に出して痛んで見せて。
弱者であることを、庇護してもらうことを当たり前のようにさせなければならない。
弱い人間には、弱い人間なりの処世術がある。
図書室で中山さんも言ってくれたように、私は確かに可愛い。
かも知れない、なんて世間体を気にした言い回しはしない。
私は可愛い。
鏡を見て、時々、可愛い顔で良かったな、と微笑んでいる醜い自分がいるから。
口では、可愛くなんかない、と遠慮してみせるが、自分が可愛いことぐらい誰よりも自分自身が知っている。
男子の態度を見れば一発で分かる。ある種の、バロメーター。
クラスメイトの男子が、すぐにでも駆け寄ってきて、助けてくれることに優越感を抱いたりもした。そうでない女の子が確かにいるから。
比較すると、余計に分かる。
そう……弱くても、私は可愛いから、優等生でみんなに優しくしてきたから。
誰かが必ず助けてくれる。恩を返してくれる。
たとえ下心があったとしても、誰かを味方に出来る。
出来ないよりは、出来る方が何倍も心地いい。
弱者は、群れないと生きていけないから。
誰もが、睦月さんのように孤高でいられないから。
「……和輝君、ごめんね」
情けは人の為ならず。
私は、私のために誰かに優しくしているんだ。次に助けてもらうために。
私が助けた人に、罪悪感と、後ろめたさを植え付けるために。
ぬるま湯につかるような心地よさを持った集団、馴れ合いの集団を作るために。
それが弱者の生き方。弱者なりの生き方。
私の生きる術。
「もういい。もういいんだよ……」
私。そんな私。
自分が好きで、どこかで他人を見下してもいて、打算的で、和輝君が言うほどの優しさもない私。
それを必死になって隠し続けて、優等生を演じてきた私。
みんなに、大好きな人に好かれようと、必死になっていた私。
寂しさに殺されないように躍起になっていた私。
こんな私でも、和輝君はそのときまで守ってくれるという。
私は領域の外側にいるのに。
「ありがとう……ありがとう、和輝君……」
和輝君のたくましい腕を通して、彼の守ろうとする意志が、ぬくもりとなって伝わってくる。
かけがえのない、あるイメージを伴って。
「私……今すぐに正臣君に会いたい」
自然にこぼれだしていた。
「……うん、俺も正臣に会いたい」
和輝君の腕が震えた。
「正臣君に会ったら、こんな気持ちもなくなるのかな……?」
正臣、という確たる名前を出したことで、和輝君の力がほどけていくのが分かった。
今なら、和輝君の心の内側に入っていけそうな気がした。
鎧を脱いだ生身の心は、それこそ傷つきやすい鏡面体。
人間なら誰しもそうであるように、和輝君も支えられなければ生きていけない脆弱な部分がある。
手を伸ばせば触れられるような気がした。
入り込んでしまえば、和輝君は最後まで力になってくれるかも知れない。
「ああ……きっと無くなる。あいつなら、すべてを許してくれる。一緒に悩んで、傷ついて、最後には特大の笑顔をくれる」
でも、それだけは出来なかった。してはいけないと思った。
和輝君の声は、切に正臣君を求めていて、私の心にも響いてくる。
これほどまでにずる賢く、打算的で、薄汚れている私でも、一つだけ純粋な、真っ白な気持ちがあるから。
嘘偽りのない想いがあるから。
だから、彼の聖域に踏み込んではいけない。
「分かるよ……和輝君の気持ち」
――正臣君が、恋しい。
「欠点も多い奴だけど、その欠点を補って余りある優しさを持った奴だから」
焦るとすぐに失敗して、慌てて謝って、でも最後には笑顔で終わる。
「鈍感だけどね」
「……補ってくれるさ」
何だろう――心が温かい。
「だといいな」
素肌を通して染みこんでくる郷愁。
ぽかぽかして、太陽の下にいる感覚。忘れていたノスタルジー。
幼い頃、畳の上でお腹を出して寝てしまって。
そんな私に、そっと毛布をかぶせてくれた優しさ。
薄目をあけると、そこには正座した母がいて、幸せそうな丸い顔があって。私を起こさないように気遣いながら、ゆっくりと薄い毛布を掛けてくれる。
しばらく微笑みながら、愛しそうに、本当に愛しそうに私を見下ろしていた。
そこには、自己愛も、ずる賢さも、打算もない。
あるのは純白の想い。
――ただの、愛情。けれど、この世で唯一の汚れなき心。
ずっと、忘れていた。
……ううん、思い出さなかっただけ。
生きることの難しさに、埋もれてしまっていただけ。
友人間のしがらみや、醜聞や、体裁、心の探り合い、騙し合い……そんな細かいテクニックに忙しく時間を費やしていたせいで、考えることさえなくなっていた。
思い出せば、いつでもあった。思い出さなくても、心の中で息づいていた。
たった一つ、誰にも譲れない、純真無垢な私自身。
うまく言葉で言い表すことが出来ないけれど、私はそれを、正臣君に伝えたい。
伝えたくて、知って欲しくて仕方がない。
「正臣君のために」
「正臣のために?」
私は背中を向けていた和輝君に向き直る。
「私は生きるよ」
和輝君はそっと微笑んでくれる。
「私達は……に訂正してくれるか?」
「え……」
私が疑問符を浮かべる間もなく、和輝君は言葉を紡いだ。
「正臣のために」
私はすぐに気付いて呼応する。
「正臣君のために」
二人の共通の想いを誓い合う。
「俺達は生きよう」
「……うん」
私が頷くのと時を同じくして、和輝君が勢いよく立ち上がった。
「あ……」
「どうしたの、和輝君?」
「黙って!」
自分の口元に人差し指を持ってくる、沈黙のジェスチャー。
私と和輝君のやりとりをつまらなそうに傍観していた他の三人も、それぞれの反応を見せる。
睦月さんは、皮肉ろうとした言葉をいらだたしげに飲み込み、生徒会長は、直したメガネが再びずり落ちていた。
佐藤君に至っては、二度、両肩びくりと跳ね上がらせ、尻餅すらついていた。
そんな三人とは対照的に、和輝君は細心の注意を払いながら耳をすませる。
「……聞こえた」
道の先に待つのは、生か、死か。
外側から施錠された扉を見、和輝君が静かに審判を下す。
「……今、あいつの声が聞こえた」
幽霊にでも取り憑かれたように、扉から身を離す和輝君。
「ちょっと、どうする気?」
取り憑かれたと言っても、その姿はまるで東大寺法華堂に飾られた金剛力士像のよう。
今まで失ってきた何かを帳消しにするような起死回生の姿。
和輝君にだけ聞こえた声は、よほどのものなのだろう。
「引いて駄目なら、押してみろ。押して駄目なら」
自らの身を省みないで、和輝君が加速した。
「……ぶち破るだけだ!」
扉から十分に距離をとると、低い体制で、弾丸のように飛び出す。
一歩、二歩、三歩。
それは、自動車で言うところのギアチェンジ。
一速、二速、三速。
爆発的な燃料を搭載したまま、急加速を経て、和輝君はドアを突き破った。
「正臣! 香奈!」
真っ暗闇だった放送機器が詰められた部屋に、満を持して外光が差し込む。
私はあまりのまぶしさに目をつぶるしかない。
……まぶたの上にかざした手の向こうで、和輝君の歓声が聞こえた気がした。
「え? 人間? 人間なの?」
「睦月、早く行け! 邪魔だ!」
「早く、ど、どいて!」
なだれ込むように外に転がり出る三人の背中。
光をうまく制御しつつある私の瞳孔は、ようやく失われた景色を取り戻す作業に入る。
「佐藤君、大丈夫です。まだ十分もちますから、あわてないで」
足下に転がっていた松葉杖を何とか拾い上げ、私は転びそうになる佐藤君に続いて外へ。
長いようにも、短いようにも思えた悪夢からの解放。
暗闇からの脱出は、一時的な解決に過ぎないのだと分かっていても、私は胸を撫で下ろさずにはいられなかった。
白く靄がかった景色が、日常を取り戻す。
体育館の外は、入場したときと何も変わらない。
学校が崩壊したわけでもなければ、血みどろの戦争があるわけでも、世界が荒廃しているわけでもない。
外界には悪夢など無く、すずめが木の上で楽しげに鳴いていて、太陽光がさんさんと降り注いでいる。心地よい風が私の首元をなぜていくと、木製の体育館らしい木の匂いから、学校を囲むみずみずしい新緑の香りに変化した。
まるで悪夢が嘘のように。
すずめが飛び、風が髪を揺らし、太陽の暖かさを感じ、愛しき人の姿を目に宿す。
夢にまで見た姿は、当たり前のように列挙した中にあった。
枯れたはずの目から、熱いものが流れ出るような感覚。
当たり前なのに。
全てが当たり前のはずなのに。
でも、今となってはすごく愛しく、待ち望んでいた当たり前がそこにある。
少し長い髪が微風と遊べば、寝癖らしき跳ねっ返りは逆らうように揺れる。
きっと寝坊したに違いない。
寝癖のせいではっきりと見える福耳は、今日も今日とて健在。
気だるそうなまぶたが、優しい瞳を隠そうと重くのしかかる。
今にもあくびが飛び出しそうな口元は、扉にうつぶせになる和輝君のせいで、開けっ放しだ。
少だけ笑ってしまいそうになる。
これが日常。ずっと、私が欲しかった日常。
苦しみが、悲しみが、醜い自分の黒ずみが吹き飛んでいく。
けれど、その隣で微笑む小柄な少女を見つけてしまう。少女の瞳が、漆黒よりも深い闇変わった気がした。
目が合えば、相変わらず微笑む少女の静かな佇まいは、触れるまで認識出来ない、まるで静電気のような雰囲気をまとっていた。
しかし、私はそんな些細なことよりも、今は再会の感動を味わいたかった。
「あ、正臣君に、香奈さん、無事だったんですね! よかった……」
一瞬、和輝君と目が合う。
彼の目には、正臣君に対する慈愛と、過保護にすら思える思いやりが混同していた。
きっと、加藤さんのことを言っているのだと、私は直感した。
知らないことが幸せ。
もし、その選択肢の後に、知ることの不幸が加われば、人は必ず後者を選ぶ。
和輝君の目は、選択肢にすら上さないことを以心伝心させていた。二人共通する正臣君への想いが、そうさせたのかもしれなかった。
――正臣君のために私は生きる。
過去からの声が聞こえ、不意に私は見つけた。
「和輝、それよりも何やってるんだ? 俺、今日は学校ないようだから、これから帰ろうとしていたところだぞ」
和輝君は正臣君のあまりの間の抜けた問いかけに我を忘れている。
「学校なんてどうでもいい!」
それは、突然。本当に突然に、私の心に去来した。
私は心中で繰り返す。
思い出せば、いつでもあった。思い出さなくても、心の中で息づいていた。
たった一つ、誰にも譲れない、純真無垢な私自身。
私は心中で繰り返す。
繰り返して、欠片を拾い集めて。
たった一つの言葉に結晶する。
「今はとにかく――」
正臣君に伝えたい。見せてあげたい。
自分でも綺麗に、上手に出来たから。
そうか、これがそうなんだ。
生まれて初めて分かったよ。
これが。
この結晶が――
――愛、なんだね。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。
このような経緯を経て、彼らは正臣という人間と出会い、あるいは、再会したのでした。少々後付感は否めませんが、実際に後付なので仕方がありませんね。元々、こういった番外編を書くことは想定していませんでしたので……。
さて、次回からはまた別の視点、時間でお送りします。今度は一体誰になることやら……
評価、感想、栄養になります。