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第A-10話・白と黒

 夢と現実の境界は、いったいどこにあるのだろう。

 痛覚があれば、それは夢? 現実性がなければ、それは夢?

 私はどちらも現実と夢を分ける根拠とはならないと思う。

 夢は脳とリンクしているし、痛覚とも関連付けられていてもおかしくはない。現実性だって、ただの思い込みに過ぎない。誰かに植え付けられた一方的な当たり前を、当たり前と思い込んでいるに過ぎないのだから。


 もし、長い、とても長い夢を見ることができたなら。

 夢はきっと現実になってしまうと思う。

 

 そして、もし、現実から覚める、という言葉があるのなら。



 ――私は、今すぐにでも、現実から覚めたかった。






「夢じゃないんだね……私が見ているのは現実なんだよね……?」


 甘く、それでいて、心地の良い映像の連続だった。


「……水野さん」

「加藤さんは……加藤さんは、どうなったの……?」


 仰向けになって倒れてしまった私の背中を支える和輝君。


「加藤は……」


 語尾を濁しながら、真一文字に引き結んだ唇。その先の言葉を紡ぐのを拒否するように、和輝君は下唇を噛み、縫い合わせた。



「死んだわよ」



 腕を組んで、ぶっきらぼうに言い放ったのは、睦月さんだ。


「死、んだ……?」


 鈍器で殴られたような衝撃。

 痛みを感じない衝撃は、私の視界を多重に分裂させた。

 私の背中を支えてくれる和輝君の体が強ばる。


「……なんで? なんで助けてくれなかったの? 和輝君……加藤さんはね……加藤さんは!」


 甘い夢の残り香。

 私はまだ現実にとどまり続ける夢の映像をつなぎ止めた。

 和輝君と会話した放課後の風景、休み時間のノートを巡る攻防……青春と呼ぶにふさわしい、青く切ない出来事。


「友達だよね? 今日だって、二人で一緒に登校しようって約束を――」


 拳を付き合わせた二人の笑顔がよぎる。



「彼氏に文句を言うのは、筋違いもいいとこ」



 彼氏ではない、そんな訂正をすることすら億劫に感じられる。

 体の中に、血ではない黒く濁った液体が流れ込んできた。

 関節の動きを鈍化させるぬるぬるした液体。

 私はそれを振り払おうとする。

 取り付かれたら、飲み込まれたら終わり。

 自分でも気付き始めている黒く、悪寒すら感じる物体に、私はあらがいたかった。


「一隻のボートがあるじゃない?」


 組んだ腕をほどいて、世間話のように話し始める睦月さん。


「アンタはそれに乗ってる。定員は三人」


 睦月さんの三本の指が私に突きつけられた。

 教師が駄目な生徒に何とか理解させようと、仕方なく同じ説明を繰り返すように、それは特大の倦怠感を臭わせた。

 面倒臭い、そんなわずらわしそうな臭い。


「で、近くに三人が溺れていて、二人助けられる。全員助けたら、定員オーバーでボートは沈み、全員助からない」


 私の体を浸食する、黒い液体の勢いが早まる。


「アンタならどうするわけ?」


 生徒会長が、軽く鼻で笑っていた。

 馬鹿な質問をしたものだな、と言いたそうに、めがねの橋を持ち上げる。


「参考までにそこの日和見主義者、答えてみなさいよ」


 睦月さんににらまれた佐藤君は、驚いて自分の背後を振り返る。もちろん、背後には誰もいない。


「アンタよ、アンタ。他に誰がいるっていうのよ」

「……ぼ、僕のことなのか?」


 自分を指さして、心外そうに眉根を寄せる。

 確認するように生徒会長の目の色をうかがったが、残念ながら生徒会長は取り合ってくれないようだった。


「そうよ、当たり前じゃない」

「……く」


 奥歯をかみしめる耳障りな音。


「定員が、三人なんだ。二人助けるしかないだろ……」


 佐藤君の答えに眉一つ動かさず、睦月さんの視線が生徒会長に動いた。


「質問の意図が分かりかねるな。その質問は……百人が百人、同じ答えにたどり着く。まぁ……溺れる者は藁をも掴む、と言うから、助けようとすれば其相応の危険も伴うわけだが。そう考えれば……溺れる者をすべて見捨てるという答えもありだな」


 さも当然とばかりに、口元に笑みを浮かべた。


「そ、そうだ! それに、ボートで救助する状況が曖昧だ! 溺れている人間の体型とか、性別とか、判然としていないぞ!」


 佐藤君がこれ見よがしに、睦月さんの揚げ足をとろうとする。

 佐藤君にすれば、睦月さんの、図星を突かれた、という苦い表情を見たかったにちがいない。


「痛いところを突いてくるわ」


 佐藤君の頬の筋肉が、満足そうに動く。

 しかし、言葉とは裏腹に、睦月さんは痛みどころか、かゆみすら感じていないようだ。


「……って、聞きたかったようだけど、一度死んだ方がいいわね。馬鹿は一度死ななきゃ治らないし。まして、二度あることは三度ある。念のために、三回死んだ方がいいんじゃない?」


 佐藤君の意気が、簡単に崩れ始める。


「そんな屁理屈は、どこかの某匿名掲示板にでも書き込めば? ま、アンタならすでにやってそうだけど。荒らしとか得意そうだし」


 抵抗する人間は、容赦なく叩き潰す。


「力では対抗できない軟弱な人間の末路ね。社会的には弱者のまま」


 完膚無きまでに。


「話がそれたけど、彼氏はどうなの?」


 呪詛を唱える佐藤君を無視して、睦月さんは和輝君に問いかける。


「俺は彼氏じゃない」

「悪かったわね、それじゃ、ナイト」

「……」


 私の背中を支えてくれる和輝君が無言を貫く。

 相手をするだけ無駄だと感じたのだろうか。


「そっか、聞くまでもなかったのを忘れてたわ」


 私に近づいてきたかと思うと、片膝を着いて顔と顔をつきあわせる。

 鼻同士が今にもぶつかりそうなくらい。

 睦月さんの長い漆黒の髪が揺れると、今まで気がつくことの無かった芳香が私の周囲を覆い始める。

 女らしく上品でありながら、雨上がりの午後のような爽やかな香り。


「ナイトのしたことは、正しいのよ」


 漂う香りはこれほどまでに優しいのに、突きつけられる言葉には、一片の優しさもない。


「放送機材をどけて、あの女を助ける……素晴らしいくらいの友情ね。聞いてるだけで涙が出るわ。でも、その後はどうする気?」


 睦月さんの香りは、そのまま彼女のテリトリーであるかのよう。

 壁際に追い詰められたネズミは、自分の不運を呪うしかない。

 配役を考える必要がないくらい、私はネズミそのものだった。

 鋭すぎる視線で射抜かれて、声も出ない。


「あのタイミングでもう一度ドアを閉めて、さらに放送機材を積み上げる時間があった?」


 満員のボートの上に私はいた。

 その下で加藤さんが溺れていた。

 加藤さんが無我夢中で伸ばした手を、私は。



「答えは、ノーよ」



 私はそばに落ちていた松葉杖を素早くつかんで、睦月さんに振り下ろしていた。

 右足の痛みはすぐに私を襲ったけれど、後悔はしていなかった。

 怒りに身を任せることが、心地よいとすら思えたから。


「分かっていないようだから、もう一度言うわ」


 私が振り下ろした松葉杖をいとも簡単に受け止めて、さらに顔を突きつけてくる。

 ネズミは、どんなにあがいても、ネズミでしかなかった。


「私たちが助かるためには、あの女を見捨てるしかないのよ」


 私に突きつけてくる眼光は、まるで死神の鎌。


「それ以外に選択肢はないわ。ボートの例もそう。余った一人を見殺しにするのが正しい選択よ。それが人間だもの。見捨てることで罪悪感にさいなまれるのは、少しだけ分かる気がするわ。でも、アンタは言い訳できるわよね? ナイトと違って」


 ちらりと和輝君を見る。



「私は助けようとしました。でも、周りがそんな私を拘束して、助けられないようにしました」



 鳥肌が立つくらいの猫なで声。

 聞いているだけで腹部が煮えたぎってくる。



「だから、私は助けたくても、助けられなかったんです。私は悪くないんです」



 一オクターブ高い睦月さんの声は、私の声真似なのだろうか。

 語尾を上げる抑揚。それでいて男にこびを売るような。

 温厚なはずの私にも、生まれて初めて堪忍袋があることを知った。



「……でも」



 突如、睦月さんの表情が、声とともに一変する。



「ナイトは違う。ナイトは、名前を呼ばれてしまった。因縁を作ってしまったのよ」



 和輝君は、加藤さんに存在を確認されたときに、しまった、という顔をした。

 あの顔の訳。


「命の危険が迫れば、人は常軌を簡単に逸する。見苦しいことだって平気でする。なんでもするから助けて。そう言う奴を助けても、そいつは何でもなんてしないわ。助かるためなら、嘘でも平気で言う。使える手段は何でも使う。そう――」


 松葉杖を受け止めた手に、握力が込められるのが分かった。

 それは睦月さんの言葉に熱がこもっている証拠だった。


「すがれるものなら、どんな人間だろうとすがるのよ。罪悪感を作れるだけ作って、自分を助けて欲しい状況を作らせる」


 松葉杖を握りつぶさんばかりの握力は、彼女のどこから出てくるのだろう。

 少なくとも突発的ではない気がする。

 太古から心の奥に寄生し続けているような。そんな過去の記憶に根ざしているように思えた。


「……あの女もそれが手だったのかも」

「違う! 加藤さんは違う!」


 突発的だったのは私の方だった。


 ……一方で、その突発性が私を少しだけ安堵させた。


 少しでも思考してしまったら。迷ってしまったら。即答できなかったら。

 それは、少なからず加藤さんを疑ってしまったことになる。

 信じていないということになってしまう。


「言っておくけど、一番つらいのは、アンタじゃない」


 私の思考を呼び戻すように、詰め寄ってくる。


「一番つらいのは、名前を呼ばれたナイトなのよ。アンタは助けを求められなかっただけ幸せ。見捨てたことにはならないもの。ただ、見てた、だけ」


 屁理屈だと言ってやりたかった。

 けれど、彼女の言うことは、なぜかすんなりと頭の中に入ってくる。

 それどころか、私をがんじがらめにしようとする黒い液体に、力を与えさえした。


「でも、ナイトは違う。助けて、そう言って伸ばされた手を振り払った。因縁を作ってしまったナイトは、見てるだけではなくて、見捨てなければならなくなった。もちろん、それは呼びかけに答えたナイトの落ち度だけど、名前を呼ばれたからには、罪を犯さなくてはならなくなったのよ」


 助力を得た黒い液体が、私の血に混ざり、私自身を黒くしていく。

 暗鬱とした気分が、私の思考を黒くしていく。


「……もういい」


 背中を支えてくれる和輝君の、押し隠すような声も聞こえないほどに。



「力もない。案もない。それだけならまだしも」



 睦月さんも聞こえなかったのだろう。

 いっそう凄みを増した炯眼で、私の脆弱な心を射る。




「出来もしないのに、そうやって良い人ぶるの止めてくれる? 何にも分かってないくせに」




 ああ……彼女は知っている。

 私が優等生であると。

 口から出る言葉と、心の奥に秘めたものが、少なからず異なっていることを。

 同様に、笑顔の裏にあるものや、優しさの裏にあるものも。



「虫酸が走るのよ。いかにも正しいことをしています。正しいんです、って顔して、被害者面……」



 痛みは、鈍痛へ。

 骨折した右足よりも激しい。

 打ち身……違う。もっと胸の奥。

 鈍痛は、激痛へ。

 心臓……違う。もっともっと胸の奥。




「被害者は扉の外で死んでる女、ただ一人なのよ。残りは加害者でしかないわ」




 ……そう、これは、私の心が傷ついている痛み。

 友人を助けようとして、実は助けることができないと知っていた。

 右足が不自由な私に、あのとき何ができたというのか。

 たとえ、加藤さんの呼びかけに答えたとしても、私一人では積み上げられた放送機器を取り除くこともできない。

 仮に、取り除くことができて、扉を開けたとする。




 でも、その後は?




 足手まといである私が、加藤さんを救うなんてできただろうか。

 伸ばされた手を取ることができただろうか。

 加藤さんのように襲われ、辱められ、なぶり殺しにされるかも知れないと考えただけで、私は身が震える思いだというのに。





 ――私が加藤さんの立場じゃなくて良かった。





 心の奥で、黒い液体が渦巻いた。

 白くて、きらきらしていたはずの心の奥が、汚されていく。





 ――正臣君じゃなくて良かった。





 いや、違う。

 白いと思っていたはずの心は、遙か昔にすでに汚れていて、輝いていたはずの心も、同じく光を失っていたのではないか。

 まだ清いままだと、自分勝手に思いこんでいただけではないのか。

 見ようとしなかっただけではないのか。


「私は……私は……」


 松葉杖を取り落として、私は自分の手のひらを見つめた。

 暗闇も手伝ってか、両手はうっすらと黒い。がたがたと震え、病人のよう。




「加藤さんを助けられないと理解していて……でも、助ける振りだけしたくて……それで……」




 袖の隙間から、黒い触手のようなものが飛び出してくる。

 それはムカデのように無数の足を持ち、ゴキブリのように長い触覚を揺らし、蜘蛛のように鋭い手を持っている漆黒の影。

 べたべたと這い回り、蠢き、私の手を黒で埋め尽くす。

 まるで、血塗られたように。




「……みんなが私を引き留めてくれて……口をふさいでくれて、良かったって……止めてくれなかったらどうしようって……そう思って……!」




 私の手が黒く染まっていく。

 心の奥にある真っ白な家は、廃墟のように真っ黒だ。

 その中には倒れている真っ白な私がいて、そばで見下ろしている黒ずんだ私もいる。

 黒い手にはナイフが握られていて、返り血を浴びている。


 白い私が呼吸を失っていくのが分かった。


 落ちたガラス細工のように、心が壊れていくのが分かった。




「私は自分が好きだから……みんなに悪い子だって思って欲しくなくて……」




 黒い私は、見ている私に気がついたのか、ナイフを振り上げたまま近づいてくる。舌なめずりしながら、面白がるように獲物である私に焦点を合わせる。




「嫌われたくなくて……助けようとしたふりでも見せればって……」




 黒い私が、ナイフの柄に力を入れた。

 きらりと光ったナイフの切っ先には、すでに乾き始めた血の紅。

 狂気に頬を歪めながら、私の目の前へ。

 ……問答無用。

 黒い私がナイフを横様に振り抜いた。





「水野さん! もういいんだ!」





 ナイフの切っ先は、私の首筋をかすめていった。





「俺が加藤を見殺しにしたんだ! 水野さんは悪くない。悪いのは俺だ。俺が殺したんだ!」





 和輝君が私を後ろから抱きしめる。


「俺は知ってる。今言ったことは、水野さんが考えるようなことじゃない。暗い気持ちにとらわれたら駄目だ。そんな気持ちに負けちゃ駄目だ! 水野さんは水野さんの意志で、優しい心で、加藤さんを助けようとしたんだ」


 力強く、それでいて、深く。





「――とっさに出た優しさは、打算なんかじゃない!」





 白い私が、力を振り絞って立ち上がる。腹部から血を流しながらも、黒い私に歩み寄っていく。


「水野さん……水野さんの優しさは嘘なんかじゃない」


 白い私に抱きしめられた黒い私は、まるで灰にでもなったように空に立ち上って消えた。


「きっと正臣も、分かってくれる」


 その言葉が最後だった。

 大好きな彼の笑顔が私の心に広がったかと思うと、温かく清らかな液体が心臓から送り出される。

 水を得た魚のように駆けめぐったそれは、黒い液体をあっという間に洗い流した。


「だから、そんなこと言うもんじゃない」


 排出は、涙腺から。

 ため込んだものが流れていく。

 黒く染まっていた心の家が、少しだけ白さを取り戻す。


 人は生まれながらにして善、と孟子は言った。

 人は生まれながらにして悪、と荀子は言った。


 汚れていくのか、それとも、綺麗にしていくのか。

 私はどちらなのだろう。

 でも私はどちらともであって欲しかった。

 たとえ汚れていくと知っても、人は償うことができる。

 償うことで、汚れをぬぐうことができる。

 そう思いたいから。

 たとえ、真っ白にはなれないとしても。

 私は白くなりたい。


「言っちゃ駄目なんだ、水野さんだけは……」


 その始まりの涙が、私の握りしめた両手を濡らしていく。


興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。アクションがないですね……。いつになったら、アクション部分までたどり着けるのでしょうか……。これは、ライトノベルなんです。誰がなんと言おうと、娯楽アクションのつもりなんです。そんな作者の自己満足でした。

今回の執筆につき、ローリング・ストーンズの「Paint it black(邦題「黒くぬれ」)」を聞いていました。そのせいか、思いっきり黒だとか白だとか比喩的に使ってしまいました。歌詞は関係ないんですけどね……。

影響されやすいのは駄目ですね、反省です。

長々と申し訳ありません。

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