第A-1話・体育館は絶叫を内包する
今回は、三人称です。
絶叫が聞こえた。
それは真っ暗闇の前方から、津波のように押し寄せる。
ジェットコースターの絶叫とは比べものにならない。いや、比べることなどできないだろう。なぜなら、ジェットコースターの絶叫は歓喜であって、今、目前で起こっている現実は、命が危険にさらされている人間の断末魔だからだ。
そもそもの声の種類が違う。
訳も分からず、前方の生徒の制服をつかみ、床に引き倒す。
引き倒された生徒が怒号をあげるも、その怒号を踏みつけて走ろうとする。踏みつけられた生徒は、踏みつけた生徒の足をつかんで転ばせ、さらに後方から来た生徒がその生徒を乗り越えていく。
そこには、上級生も下級生も、男も女も、友人も親友も、果ては恋人も関係ない。
あるのは、限りある生に執着する強欲のみ。
「……妙なことになったわね」
亡者のように逃げまどい、正気を狂気に塗り替えられた生徒の醜い群集心理。
最後尾付近でその光景を見た少女が、知らず舌打ちをする。
長い漆黒の髪の毛を持った、美しい少女だった。
周囲が恐怖で埋め尽くされようとする中、少女の瞳の中には好奇心が芽生え始める。両手を組みながら、肩をほぐすその姿は、あまりにも奇異な光景。これから競技に挑もうとする短距離ランナーそのものだ。
スカートから伸びるしなやかな両足が、贅肉を筋肉に昇華させた二の腕が、絹のようになめらかな鎖骨から首筋のラインが、モデルのようにくびれたウエストが、そして、女性のシンボルとしてこの上なく我を主張する胸の膨らみが、来る悪寒を迎え撃とうと熱を帯びる。
「……邪魔」
つまらなく告げた言葉は、少女をつかもうとした男子生徒へ。
軽い言葉とは裏腹に、振り上げられた拳は強烈だ。伸ばされた右手を、少女は難なく左手でいなす。走るスピードそのままに、すれ違う加害者の男子生徒を、ぎりぎりまで引きつけて、顔面を右の拳で打ち抜いた。
無惨。
鼻がつぶれる音にも、少女は薄笑いを浮かべるだけ。同情すべきは、殴られた男子生徒か、それとも襲われかけた少女か。
「汚い手で触らないで」
悲鳴にかき消される、男子生徒の悶絶。深紅のバラが、男子生徒の顔面で咲き乱れる。
「まったく、一体何よ。ただでさえ機嫌が悪いんだけど、私」
少女は、ほんの数分前までの静寂を思い出す。
きっかけはたった一声の悲鳴。
黒板をひっかくような金切り声は、おそらく女子生徒のもの。
真っ暗闇の中で聞こえたその絶叫に、体育館で待ちぼうけていた全校生徒の耳が、いやがおうにも跳ね上がった。
ただでさえ、照明が落とされ、窓という窓が締め切られ、カーテンが光を遮る密閉された空間。何百人という生徒が一同に会している体育館は、生徒たちの発する体温で、さながら蒸し風呂のようだった。
涼しげに状況を把握しようとするこの少女でさえ、頬を伝う汗を何度もハンカチで拭うほどだった。
口に出さないまでも、何十回と心の中で毒づいた。
いつまでも始まらない集会。暗闇に閉ざされたまま、動くことすら許されない不可解な状況。
誰もがいらだちを隠せない。徐々に募る不安。
その中で交わされたのは二つ。
口々に飛び出す邪推と、疑念を帯びた視線。
切り裂いたのは、絶叫。
これが混沌を引き起こさないでいられようか。
五感。
視覚を失った人間がまず頼りにするのは、聴覚だ。それを見透かしたかのような絶叫に、残念ながら生徒たちはなすすべがなかった。
「密閉された空間で、火災が起こったとき、人がなぜ死ぬか」
強欲に支配された生徒たちの波に、敢然と立ち向かう少女。誰に問いかけるでもなくつぶやきながら、跳躍する。
「それは群集心理に他ならないわ」
舞い上がった勢いそのままに、女子生徒の首元に跳び蹴りを見舞う。くぐもった声は、肺を押しつぶされた衝撃によるもの。
「みんな言うのよね。なんで空いている方に逃げないんだって」
テレビの防災特集でも見たのか、得意げに語る。胸に強烈な蹴りを受けた女子生徒は、後方の生徒を巻き込んで仰向けにのけぞった。
「頭では理解していても、いざって時には身体は動かない」
ひらりと舞い降りた少女には、酷薄な笑みが浮かぶ。
「理解は、経験とは違うわ。人はそれを勘違いする」
仰向けに倒れた女子生徒の腹を容赦なく踏みつけて、少女に殺到する狂気の群れ。踏みつけら女子生徒は、口から汚物を吐き出し、やがて白目を剥いて気を失った。
「だから、火事場では……」
少女の声など誰の耳にも入っていない。もちろん、少女のふるった暴力も、倒れた女子生徒に加えられた虐待も、誰の視界にも入っていない。
それを分かった上で、少女は重心を下げて、拳に体重を乗せた。
「煙が人を殺すんじゃない。人が人を殺すのよ」
手が腹部に入り込むような掌底は、男子生徒の臓物を歪ませる。
力を無駄なくたたき込むその一撃の威力は、腹部を押さえてうずくまった男子生徒を見れば明らかだ。
「――と、言うわけで、これは正当防衛」
うずくまった男子生徒を踏み台に、より高く舞い上がる少女。暗闇に映える下着の色が、ひらめくスカートから見え隠れする。
「何よ、これ」
ひときわ高く飛んだ少女の目には、一瞬だけ体育館の全貌が見渡せた。クリスマスに点るキャンドルのように、体育館のあちこちで携帯電話のバックライトが光っている。その隙間を何か小型のものがよぎったように見えた。
見ることができたのは、そこまで。
少女はさらなる跳躍を求めて、着地点を探さねばならなかった。首を振ってすぐさま状況判断。目の前にいる男子生徒に狙いを定める。片足を肩に乗せて、踏ん張りをきかせる。男子生徒はすぐにバランスを崩して倒れるが、そのときにはすでに少女は宙を舞っていた。
「タす……け」
狂気の波から抜け出すやいなや、目の前でふらついていた生徒に襲われる。
「悪く思わないで」
少女は伸ばされた手をつかむことも払うこともせずに、腰を回転させた。
少女はたちまち旋風と化す。
スカートの裾はまるで社交場で踊る貴婦人のように広がり、それに遅れて、風を巻き込んだかかとが、生徒の後頭部にたたき込まれる。
生徒の視界には何も映らなかったことだろう。
暗闇だったと言うことも理由の一つだが、何より、少女の回転速度には一部の無駄もなかった。鞘から解き放たれる日本刀がそうであるように、少女の美脚は最短で最大の威力をかき集めた。
体術で言うところの、単なる回し蹴りに過ぎない一方。
剣術で言うところの、居合い抜きにまで昇華されている。
それゆえ、生徒の目には映らない。
手をつくこともできずに頭から落ちた生徒が、悲鳴の代わりに鈍い音を立てた。
「……なにかしらね」
少女は自分が興奮していることに気づく。胸に手を当て、心臓の高鳴りを聞く。
いや、手を当てる必要もなかっただろう。
それぐらい、少女の胸はまだ見ぬ恐怖に高揚している。全身に供給される血液には、きっと高濃度のアルコールが入っている……そんな馬鹿げた妄想でさえ、少女はおかしく思えた。
原因不明の現状を、かくも冷静に受け止める自分自身に。
くずおれた生徒が一度大きく痙攣するのでさえ、難なく受け止められている自分自身に。
自嘲をもよおし、口元に手を持ってこようとすると、その手は何者かによって遮られてしまう。
「私に――」
触るな。
語尾は暴力に変換された。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。そして、本当に申し訳ありません。
本編につきましては、一度削除しておきながらの再掲載。謝っても、謝っても済まされることではありません。
こちらの方は、何とか週一掲載を目標に頑張ります。
評価、感想、栄養になります。