1st episode : "Heilig Eisen"
この物語は、元々書きたかったSF要素の強いストーリの番外編として書き起こしたものです。構想的には、『本編』の過去に当たります。僕がこのサイトで『本編』を書く日が来るかどうかは分かりませんが、とにかく楽しんで頂けたら幸いです。
■prologue : Opening■
緑豊かな大地と花咲く色とりどりの色彩が目に優しく、風に載る季節の匂いと自然の香りが鼻孔をくすぐる。燦々と降り注ぐ太陽の煌めきは世界を平等に照らし、初春の温もりをこの片田舎に届けている。
世界のどこかでは、未だ戦火の止まぬ地域もあるだろう。しかし今、彼女の眼前にある景色と穏やかな毎日にはその片鱗すら見当たらない。数年前まで目にしていた殺し合いと暴力の日々とは、比較するべくもない。間違いなく、ここは平和だった。
黄色い花が広がる庭で、二人の小さな子どもが駆け回っている。ジョゼとフォセッタだ。どうやら鬼ごっこをしているようで、ジョゼが懸命に追い掛けてくるフォセッタをからかいながら逃げていく。二人は親に捨てられた過去を乗り越えて、今を楽しく生きている。
一方で、一人の少女が花畑に座り込み、脇に置いた籠へと摘んだ花を丁寧に収めていた。リコは目尻の下がった眠そうな顔を浮かべていたが、対照的に少女の口元は活発に動いてマザーグースを奏でている。死病で他界した母に教わった、唯一の母親との繋がり。リコは暇があればその歌を口ずさみ、回想の日々に負けないくらいに今を楽しんでいる。
他にも、彼女の目には十人ほどの子どもたちの元気な姿が映っている。そして、その全員が孤児だった。
辛い過去から独りになってしまった子どもたち。本人たちの意思に関係なく、社会や肉親の勝手な事情により孤独を強いられる。それは、どれほどまでに残酷な仕打ちなのだろうか。親を知らない彼女には分かり兼ねたが、しかし、大人のしがらみとは縁遠い場所で生を謳歌するはずの子どもたちが苦しまねばならない理由などありはしないと思う。
そうだ、誰かに運命を強制されるなんて間違っている。
かつての彼女も、第三者に運命を強いられた。自らで切り拓くはずの未来を大義のためだと押しつけられて、無理に人生を決定された。違和感を感じ、固定化した未来を捻じ曲げるために行動を起こしていなかったら、きっと今でも闇の中で瞳を閉ざしていただろう。
そして、〝彼〟がいたからこそ――今の自分がある。
「あの、すいません。アンジェ・シェキナー・ハルトマンさん……ですか?」
回想に耽っていた彼女は、唐突な呼び掛けに覚醒して「え? あ、はい。そうです」と振り向いた。視線の先には、困り顔の郵便配達員が立っている。若い彼の額には小粒の汗が浮かび、都会から五○キール離れた田舎町までの配達の苦労が窺い知れた。
「良かった……。期日指定の郵便でしたので、遅れたらと焦りましたよ」
「ご苦労様です。でも、まだ正午過ぎですよ?」
小首を傾げる彼女――アンジェの問いに、郵便配達員は恥ずかしそうに笑んだ。
「その、新人なので……。まだ配達区域の地理を覚えてないものですから」
あ、そうだ、ここにサインを、と差し出された紙に受取印を記入して、アンジェは腰掛けていた木製の椅子から起立した。
「ちょっと待っていてください。今、冷たいお茶を――」
「ああ、いえ! お構いなく。まだ配達が残っていますので、すぐに戻らないと」
アンジェの申し出を全力で断って、配達員は乗ってきたバイクに跨る。エンジンを始動して、首を竦めるようなお辞儀を一つすると、アクセルを捻った。
走り去る背中を少しの間見送ってから、アンジェは手にした白い封筒を開封する。宛名だけで送り主の住所がないその中には、小洒落た青い便箋。逸る気持ちを抑えるように深呼吸し、便箋を開いた。
『親愛なるアンジェへ』という書き出しから始まるその手紙を見て、彼女は確信した。この繊細ながらも力強い文字は、間違いない――〝彼〟だ。別れて以来、一切の連絡が途絶えていた〝彼〟からの手紙に、アンジェの心は躍った。
懐かしさが胸に溢れる。自分に〝アンジェ〟という名前と安寧の未来を与えてくれた〝彼〟に会いたい気持ちが、濁流の如く押し寄せる。
――会いたい、会って話したい。
しかし、それは叶わない願望だ。自分の我が儘のために大切な友人をも裏切った〝彼〟は、今や政府の尋ね人である。『生死問わず』と烙印された手配書が、多くの大都市の掲示板に貼られているのをアンジェは知っていた。まあ、割れているのは身元だけなので、下手を打たない限り彼が白昼の下へ引きずり出されることはないだろう。それに〝彼〟は暗部に属していたのだ、簡単には見つかるまい。
アンジェは手紙を読み進めた。無論、足がつくような情報は書かれていない。だが、指名手配された人間が手紙を出すということ自体が危険なことである。自らの危険を承知で、〝彼〟は約束通りに報せをくれたのだ。彼女には、その事実だけで充分だった。
便箋に踊る字が、アンジェと彼女の生活を気遣う。彼女の夢が実現していることを喜び、もう二度と争いに巻き込まれない場所にいることに安堵する。いつか他人の目を気にせずに会える日が来ることを望み、恐らくその日は来ないだろうことに落胆する。
〝彼〟が手紙を書きながら一喜一憂する様が、アンジェには安易に想像できた。
手紙を読み終えて、彼女は不思議な安心感に包まれていた。繊細で、お人好しで、真面目で、けれどいざという時は凄く頼りになって――。彼女が知る大好きな〝彼〟が、まだそこにいたからだ。
目を閉じれば、〝彼〟と過ごした激動の日々が甦る。それは必ずしも楽しいばかりの記憶ではなかったが、彼女には生涯忘れることのできない大切な思い出だった。銃声と怒号、剣戟と悲鳴の渦中で、必死に自分を護ってくれた〝彼〟が愛おしい。
想い募る胸中に微笑んで、アンジェは再び手紙に視線を落とした。
手紙は、こう始まる。
『親愛なるアンジェへ――』
繊細ながらも力強い字が躍る便箋が、春の陽射しを受けて柔らかい温もりを放っている。彼女には、それが〝彼〟の体温のように感じられた。
片田舎で暮らす〝女神〟の午後は、今日も平穏で暖かい。
■1st episode : “Heilig Eisen”
【Falsehood is the jockey of misfortune.(『嘘というのは、不幸の女神の騎手である』)】――Jean Giraudoux
/1
大昔の哲学者が、こんなことを言っていた。
『人類が他の動物と大いに異なる点は、思考することが可能な点である。故に、人類間で武力交渉することは動物と同じ野蛮な行いである』
つまり、人間同士で物理的な争いをするのは愚行だということだ。だから、太古の昔から国家規模の衝突は幾度も代理戦争という形式を採ってきた。人権を持たない剣奴による戦い、国家代表者による競技争い、傭兵による疑似戦争――時代の変遷によって形式も変化していったが、全てに共通して人権を有する人間が直接戦闘に及んだ例はない。個人間での争いも、チェスや将棋で調停されている。
ただし、この〝武力否定思想〟は人間のみを対象とした考え方であり、狩猟はこれに該当しない。どれほど温厚な人間であろうと、例外なく破壊衝動を持っているものである。誰かを傷つけたいという突発的な衝動を抑圧された人類が、精神のガス抜きとして考案したのが狩猟だった。
狩猟文化の発展は銃器などの兵器開発を促進させ、今や狩猟は国民的スポーツとなっている。また〝武力否定思想〟に反し、直接的に人権保有者を殺害した人間も、『人間狩り』という狩猟で処理されている。彼らは、思想にそぐわない行いに及んだ時点で人権を剥奪されているので、〝武力否定思想〟には当てはまらない。
人間が人間を攻撃できない世の中は、調停過程の理由から弱肉強食の摂理を生み出した。長い月日を経て、人類は再び最もシンプルな自然の循環に行き着いたのである。
強者が強者であり続けるために、弱者に勝利を与えない社会。
――どうしようもなく、救いのない世界だ。
雨雲が敷き詰められた暗い夜空を飛ぶ輸送ヘリの中で、少年は溜息をついた。世界の在り様について思考したところで、自分が置かれた状況が改善されることなどないというのいに……。無駄な労力を使ってしまった。
『降下五分前』
『準備しろ。作戦を確認する』
パイロットの声に次いで、左耳に装着した無線機から渋い男声が聞こえる。
『今回の標的は、政治家のジャン・ピエッタという男だ。各自、作戦前のブリーフィングで対象の情報は把握済みだな?』
問い掛けに対し、少年は「はい」と短く返答。男声はそれを受けて、義務的に続ける。
『……よし。議員は、事務所で三○人強の傭兵に護衛されている。敵の装備は平均的な市街地戦装備だと推測される。暗殺任務だが、必要であれば交戦して構わない』
説明を聞きながら、少年は右の太股に巻きつけたレッグホルスターから拳銃を引き抜いた。重厚なリボルバーが出現する。
分厚い削り出しのカスタムバレルは細部まで強化が施され、銃身先端にはマグナム弾の強烈な反動を抑えるために大型のマズルブレーキが装備されている。下部には二○ミリレイルを備え、小型のレーザーポインタが取りつけてある。レイルシステムとは、銃に様々なアクセサリを付属させるパーツのことだ。ウッドタイプのグリップにはラバー製のフィンガーチャネルを追加し、グリップ保持の確実化を図ってあった。
握る右手にずっしりと感じる質量は、少年に無機質な殺意を喚起させる。銃身側面に刻まれた〝A.S.A.P.〟の刻印が、その殺意を助長する。
『ブラックホーク9、目標に到達。降下三○秒前』
パイロットの声に、少年は無言で起立。開け放たれたドアへと歩み寄る。
『教えを批判する奴らに人権はない。背信の咎人に断罪をくれてやれ』
渋く低い男声の決まり文句が、どこか遠くに聞こえる。それだけ集中力が高まっている証拠だ。静かな殺意を胸に、少年はガスマスクを装着する。
愛銃をホルスターへ収めて、部隊正式採用のアサルトカービン――HEC-68RASのコッキングハンドルを引く。ガシャッ、という作動音と共に初弾が薬室に装填。銃はこの操作を行わないと射撃ができない。
銃口には高性能の消音装置が装備され、フレーム上部には赤い光点を灯すリクレックスサイトが備えられている。近距離で確実に当てることに優れた光学照準器だ。トリガーガードの先には、レイルシステムを介してタクティカルグリップと一体のフラッシュライトが設けられ、射撃時の安定性と暗闇での有視界を確保。ブルパップ式なので、六.八ミリ弾の詰まった三○連マガジンはトリガーより後方にある。
銃全体が一体化したフォルムは、直線と流線を組み合わせた人間工学的なデザインだ。アサルトライフルに匹敵する性能を持ちながらも、カービンのサイズに止めているとは見事な設計である。そして、その性能の高さは少年が身を以て熟知している。
『降下まで、テン・カウント……』
少年はカービンをスリングでぶら下げて、ヘリ側面より覗く夜景に放られた黒いロープを見下ろした。ホバリングするヘリは微動だにせず、降下は安定して行えそうだ。
『……ゼロ。ゴー、ゴー、ゴー!』
パイロットの合図を鼓膜に捉えた瞬間、少年の体躯は輸送ヘリの中からネオンの輝く夜空へと滑り出た。夜風が顔に当たる。雨脚の強い雨滴が、少年の全身を叩く。撥水加工が施されたバトルスーツの表面で、甚雨が躍ってリズムを紡いだ。くぐもった旋律が耳に楽しい。
見下ろす双眸に、迫りくる地面。視界を埋めるコンクリート、着地。流れるような動作でカービンを構える。周囲索敵、クリア。
前進する。フラッシュライトに照らされた視界の先に、アルミ製の扉を確認。後続して降下した相棒にハンドシグナルを送る。
<配置につけ>
相棒が右、三番目に降下した同僚が左、扉正面に少年。最後に降下した四人目の同僚が彼の背後で後方を警戒し、左肩を叩いて配置完了を伝達。扉の両脇で待機する二人にアイコンタクト、二人が頷き返す。――準備は整った。
少年が頷いて、突入準備。相棒が左手を掲げて、ハンドシグナル。
<スリー・カウント>
順に折られる指がゼロになり、相棒が扉を勢いよく引き開いた。同時に全員が室内に銃口を向ける。少年と相棒がフラッシュライトを巡らせて索敵、クリア。
扉左に待機する同僚が左手を振って、突入指示。少年を先頭に、建物内へ侵入。深夜三時ともなれば、室内に明かりはない。護衛の傭兵も、睡魔の誘惑で警戒心が薄れている頃合いだろう。
ジャン・ピエッタ議員の事務所は、一つのビルを丸々私物化して構成されている。一階が受付、二階と三階がオフィス、四階がレストラン、五階が宿泊フロアとなっている。
情報では、議員は地下にあるプライベートフロアで複数の娼婦とお楽しみ中らしい。齢五○近いくせに、元気なことだ。きっと、自分が朝日を迎える前に殺されるとは夢にも思っていないだろう。
可哀そうに、と思う一方で、しかし同情心は湧いてこない。人を殺すのが暗殺者の仕事である。今さら良心の呵責に苛まれるほど、少年は素人ではなかった。
地下に議員がいるということは、下層に護衛が集中しているということである。正面玄関から堂々と殴り込もうものなら、たちまち傭兵の反撃に遭うのは自明の理だ。これを回避し、隠密かつ確実に暗殺を遂行するためのヘリボーン降下だった。
四人の暗殺者が音もなくビル内へと侵入したところで、少年が首に巻いたスロートマイクのスイッチを押した。
「こちら、《アーテム》。侵入に成功、交戦なし。作戦を続ける」
『コマンド、了解』
少年――アインの報告を受けて、無線機に渋い男声の返答。機械的な遣り取りを無感情に終えて、行動を開始する。
今、四人がいるのは屋上へと繋がる階段である。屋上から侵入されるのを警戒していないのか、見張りの傭兵どころか監視カメラの類さえ見当たらない。まあ、標的の議員は地下にいるのだから、下層に人員を割くのは必然と言える。
護衛の数は三○人強、その多くが議員の直接的な警護に回っていると仮定するなら、各フロアを巡回する見張りの数は少なくなる。五階の宿泊フロアで仮眠を取っている護衛もいるだろうから、各階を隠密に制圧するのは容易い。
「標的を仕留める時に邪魔が入るのは頂けねぇ。アイン、誘い出して皆殺しにしちまおう。その方が早ぇよ」
左横で、相棒のヨナが提案する。確かに、彼の言う通りに動いた方が確実に暗殺を実行できるだろう。議員を始末する最中、増援が来て無駄な交戦を強いられるのは笑えない。隠密作戦での暗殺の基本は、確実かつ〝可能な限り早くやれ〟だ。
しかし、アインは首を横に振った。ヨナが怪訝な顔をする。
「確かにそれもアリだけど、仮に見張りと交戦した時のことを考えるとデメリットが大き過ぎる。交戦が知れて、議員が逃げたら本末転倒だ」
「……なるほど、一理あるな。じゃあ、どうするよ?」
相棒の質問に、アインは戦術を思案し始める。一○秒にも満たない時間で、作戦を立案。
「二手に分かれよう。僕とヨナが建物内部から地下を目指す。ラウとレイは五階を制圧した後、四階のブレーカーに爆弾を設置して待機。窓からラペリングして正面玄関まで降下、起爆、交戦。護衛を一掃して議員を始末する」
同僚に目配せして、作戦内容に異論がないかを確認。全員の首肯を以て、作戦が受理された。
<動け>
アインの合図で、四人の暗殺者が闇に動く。
ライトで先を照らしつつ、二人一組で交互に進んでいく。階段を下り終え、五階の廊下に出る。目の前は十字路のような分岐だ。左前腕のPDAに表示された設計図を見ると、このフロアは〝回〟の字型の構造になっているらしい。
宿泊フロアということもあってか、就寝中の傭兵を気遣って蛍光灯は点いていない。等間隔に光る洒落た電灯だけが光源となり、廊下を暗闇から遠ざけている。
フラッシュライトを消して、アインは壁に張りついた。角から片目だけを覗かせる。前方八メートルほどの所に、一人の見張りを視認。こちらに背を向けるように立っているので、感づかれていない。
前方警戒と後続に伝えてから、二方向へと別れるよう指示を出す。アインとヨナが左折、残る二人が正面の廊下を前進。
アインの進行方向左側にいくつも並ぶ木製の扉の向こうには、休憩中の護衛がいる。全ての室内にというわけではないだろうが、それでも用心に超したことはない。無駄に発砲して銃撃戦になれば、議員に暗殺が知れてしまう。下手を打つマネはしたくなかった。
アインは銃口を下げて、カービンをスリングで背中へ回した。アイコンタクトでヨナに援護を依頼、音もなく大型のナイフを抜き取る。見張りは依然としてこちらに背面を晒している。手にしたアサルトライフル――G36Cを警戒心なく片手持ちし、僅かに俯いている様子から推測するに、携帯電話を注視しているようだ。
間合いが詰まり、アインのナイフが一閃する。素早く左手で相手の口元を覆い、刃先を脇腹に突き立てる。見張りがもがいた拍子に握っていた携帯電話が落下するも、ナイフが抜かれることはない。くぐもった呻きを上げて目を見開き、見張りは絶命した。
死体を隠す暇はないので、放置したまま先へ進む。最初にいた位置の丁度対辺となる廊下に差し掛かると、ラウとレイが残りの見張りを始末するところだった。死体の数は二つ。どうやら、アインが刺殺した際に生じた物音に気を向けた瞬間を狙われたようだ。鮮やかな手際で首元を掻っ切られている。
『廊下を制圧。このまま室内も掃討する』
ハスキーな女声が、無線機を通じてアインの耳朶に触れた。小隊の紅一点、ラウからの通信に「了解」と応答して、階下へと通じる階段の扉を開ける。前方を警戒、進行方向に敵影なし。振り向いて、もう一度廊下が制圧されていることを確認する――クリア。
ヨナを先頭に、階段を下る。四階はレストランだ。扉を押し開くと、ここが見晴らしのいい構造だというのが分かる。所々に太い柱はあるものの、それ以外に遮蔽となる物はなかった。社員食堂のような間取りで、フロア中央にキッチンがあり、周囲に四人掛けの円卓がいくつも置かれている。
営業時間を疾うに過ぎているから、フロア全体が消灯されていて夜の色が濃い。隠密行動には打ってつけの状況である。
周囲を一瞥しても、見張りの姿は視認できない。その代わりに、キッチンの明かりが漏れて話し声が聞こえた。この位置からでは僅かな声量しか聞き取れないが、会話から推察するに三人ほどの見張りが中にいるらしい。
姿勢を低く保ちながら、二人は見張りを相手にすることなく階段へと向かった。五階の制圧が済めば、後でラウとレイが始末してくれるだろう。
三階も同様に階段へ直行し、二階へ。
二階と三階はオフィスだ。書類を保存しておく棚や背の高い仕切りが乱雑しているので、視界が大きく遮られる。腰を落とせば、容易に姿を物陰に隠すことができる。
三階のオフィスは無人だったために素通りしたが、二階には二人の傭兵が室内を巡回していた。ライフルを構えてこそいないが、しっかりと視線を動かして警戒に努めている。やり過ごすのは無理そうだ。
見張りは互いの死角をカバーするように巡回しており、ナイフによる接近戦は不可能である。タイミングを見計らって、狙撃するのが妥当だろう。
ハンドシグナルで意図を伝達、ヨナが首肯。カービンのセレクターレバーを操作して、単射を選択。二人の見張りの視界に入らぬよう、アインが狙撃し易いポイントへ移動する。ヨナはフロア入口で待機したままだ。
配置完了。アイン、ヨナに狙撃のタイミングを任せる。己の呼吸音と鼓動が、鼓膜近くに聞こえる。
『スタンバイ……、スタンバイ……』
そして、相棒の囁きが時を告げる。
『……撃て!』
直後、アインは物陰から出てカービンを照準する。突然現れた侵入者にもう一人の見張りが反応するも、声を上げる前にヨナによって眉間を穿たれる。後頭部から血液を噴出させて倒れる傭兵。その背中が接地した時には、アインは引き金を引き終えている。確かな殺傷力を持った六.八ミリの弾丸が、狙った傭兵のこめかみへ飛ぶ。頭蓋骨を砕き、柔らかい脳を破壊し、反対側のこめかみから血の大輪を咲かせつつ貫通。力なく崩れる。
立ち上がり、室内を一瞥。生存者なし、クリア。敵を倒した際に生じた音で別の見張りが来ないか警戒するが、杞憂に終わる。
アインとヨナは油断なくカービンを構えながら、階下へと下る。例に漏れず、階段に敵の姿はない。が、一番下の段――アインたちから見て階段の出口――に見張りが二人。話に夢中なのか、こちらに気づいていないようだ。
見張りに発見されぬよう、細心の注意を払って接近。階段途中まで下りたところで、一階の全容が窺える。眼前に二人、受付に一人、地下へと通じるエレベーター前に四人の計七人の敵兵。今ここで奇襲を掛けても、アインとヨナの二人では無傷で掃討するのは不可能だ。無謀な行動は控えた方がいいだろう。
作戦通り、ラウとレイの陽動に備える。
「《アーテム》より《カッツェ》、配置完了。合図を待つ」
一端、踊り場まで退避し、ラウへと通信。発見される危険性を最小限に落とすためである。陽動前に発見されては奇襲にならない。ちなみに、首に装着しているスロートマイクは囁き声も正確に拾うので、今の通信が見張りの耳に入ることはない。
『《カッツェ》、了解』
ラウからの返信。
アインとヨナは、合図を待つ。
/2
五階で二人と別れてから、ラウとレイは各部屋で眠る傭兵の暗殺に動いた。無音で室内へ侵入し、躊躇うことなくナイフを喉に突き立てる。話し声が扉の外から聞こえる部屋の場合は、ドアをノック。敵をおびき寄せ、ラウが出てきた敵兵を、レイが室内の敵兵を始末した。
着々と部屋を無人化させていき、残る部屋はフロア中央の大部屋だけとなる。扉の隙間からスネークカムを挿し込んで、中の様子を探る。
室内では、六人の傭兵がポーカーに興じていた。全員武装しておらず、ラフな格好をしている。就寝前の息抜きなのだろう。
通常の制圧作戦ならば、音響手榴弾を中に放り込むのがセオリーである。しかし、今回は暗殺任務ゆえに所持していなかった。扉を蹴破るような音も立てるわけにはいかない。破砕音で階下の敵兵に感づかれたら、先行したアインとヨナが危険に陥る可能性があるからだ。
仕方がないので、催涙弾で代用することにした。本来は暴徒鎮圧などに使用する非殺傷の手榴弾だが、今回のような隠密行動時のエントリーにも応用可能だ。
「レディ」
ラウがレイに問い掛けて、彼がドアノブを握る。両者、互いに催涙弾を構え、タイミングを合わせる。
「ゴー!」
合図と同時に開け放ち、室内に催涙弾を投げ込む。コロコロと勢いよく転がっていきながら点火、内部からCNガスが噴出。ポーカーに興じる傭兵らの足元で、瞬く間に催涙剤が立ち昇る。
催涙ガスを吸い込んだ傭兵らが、激しいくしゃみと咳に喘ぐ。涙で閉じられた瞼は痛みで開かず、ポーカーどころではない様子だ。ラウは、ガスマスクの恩恵を改めて認識した。
立ち上がり苦悶する敵兵六人に向けて、消音器が付いたハンドガンを発砲。ワンショット・ワンキルを徹底し、数秒で全員を始末する。室内の制圧を確認後、扉を閉める。死体を発見される可能性を最小限にするためだ。念には念を入れるのが、プロ足り得る資格である。
五階、宿泊フロアの制圧が完了。階下へと向かう。ハンドガン――AP45A1をレッグホルスターに収めて、ラウはスリングで背面に回していたライフルを構え直す。他の同僚が装備するHEC-68RASよりも銃身が長く、人殺しの道具らしい無骨なフォルムを持ったバトルライフルだ。七.六二ミリ弾を発射するこのUBR-20T3は、彼女と幾度となく戦火を凌いできたパートナーである。戦場で味方の次に信頼できる相手とも言えた。
銃口に消音器、フロントマウントに完備されたレイルシステムにはアンダーバレルショットガン――M30MASSを装備。高倍率スコープは作戦上必要ないため、ホログラフィックサイトが備えてある。リフレックスサイトと同様、近距離において正確かつ素早いサイティングを可能とする光学照準器だ。
四階へ到達、見晴らしのいいレストランに踏み入れる。明かりは皆無だが、キッチンの方から数人の話し声が聞こえ、白い電灯の光が日の出の如く闇に滲んでいる。声の音程や会話から察するに、三人か四人。アインとヨナは無視して進んだようだ。隠密行動ゆえに、無駄な戦闘を嫌ったのかもしれない。
ラウは、PDAに四階の設計図を映し出した。それによると、ブレーカーはキッチンの中に存在するらしい。恐らく、建物内で一番電力を使用する階層だからだろう。電力使用量を超越してブレーカーが落ちても、即座に対応可能なよう設計されているのか。
とにかく、ブレーカーに爆弾を仕掛けるには中の敵兵を排除するしかない。レイに目配せして、キッチンへと接近する。入口付近で停止、スネークカムの先端を曲げて角から索敵。カメラが捉えた映像が、手元のディスプレイに表示される。
白いタイル張りのキッチン内に、酒を飲む四人の敵兵を確認。見回りの途中に集まったのか、全員が武装している。巡回をサボって晩酌中のようだ。ツマミまで用意してある。ブレーカーは、彼らの後方にあった。
ラウとレイは、突入することにした。四人であれば、不意打ちすれば簡単に仕留められる。ハンドシグナルで互いが狙う敵を確認し、突入態勢。
閉所なので、銃身の長いバトルライフルでは取り回しが利かない。愛銃を背面に回して、ラウはホルスターからハンドガンを抜き取った。
<スリー・カウント>
レイの指示、首肯する。折り曲げられた最後の指先が、合図を報せる。
二人同時に角から飛び出して、ハンドガンを照準。間髪入れずに射撃。四五口径の弾丸が、亜音速で傭兵の左目とこめかみを抉っていく。倒れる姿を視界の隅に捉えつつ、二人は次の標的に銃口を定める。突然に仲間が殺されて驚愕した敵は、反撃に一瞬の遅れを取った。G36Cを構えた時には、既に眉間に風穴が開いている。
血飛沫を上げて傭兵が倒れるのを目視してから中へ。油断せずにキッチン内をくまなく索敵、クリア。装弾の少なくなったマガジンを抜いて新しいものを装填、セーフティを掛けてホルスターにしまう。
ブレーカー前、レイがバックパックから小型の爆弾を取り出して設置する。ラウは入口にバトルライフルを向けて後方警戒、設置完了を待つ。
「これで……終わりっと」
レイの報告を受けて、キッチンから出る。アインの作戦では、窓からのラペリングにて一階へ降下し、彼らと合流。その後、見張りと交戦する手筈となっている。
窓へと近寄ると、ベランダがあった。雨の降り頻る外に出て、手すりにラペリング用のロープと繋がったフックを引っ掛ける。漆黒のバトルスーツの表面を叩く雨の勢いが、肌に心地いい。
数度引っ張って固定されているのを確かめてから、手すりを乗り越える。両手でしっかりとロープを握り締め、ラペリング。壁面を四回蹴りつけて、一階に到達。PDAで現在地を確認、正面玄関から一三メートルほど離れた位置のようだ。
移動する瞬間、通信。
『《アーテム》より《カッツェ》、配置完了。合図を待つ』
アインの声が、無線機を通してラウの鼓膜に届いた。
「《カッツェ》、了解」
応答し、前進。玄関より外側には、見張りはいないらしい。奇襲には好都合だ。
玄関脇で停止、スロートマイクを押す。
「配置完了、突入までスリー・カウント――」
囁き声で、殺人のタイミングを計る。
†
『スリー……、ツー……、ワン……、ゴーッ』
ラウの合図。頭上遥か上で爆発音、直後に明かりが忽然と消える。アインとヨナは踊り場から身を躍らせて、カービンの引き金を絞った。消音器によって抑えられた発射ガスが、くぐもった音を立てる。放たれた六.八ミリの弾丸は、射線上の傭兵の後頭部を貫通。即死を疑うまでもない。
襲撃に反応した見張りが、こちらにアサルトライフルの銃口を向けてくる。しかし、それらから弾丸が発射される前に、正面玄関からラウとレイが援護射撃を開始。ラウのバトルライフルから吐き出される七.六二ミリという大口径のライフル弾が、容赦なしに敵の肉体を破壊する。レイも淡々と引き金を絞り、二人はエレベーター前にいた敵兵を流れるように葬っていく。
アインとヨナは前進し、受付の傭兵を射殺。非常灯の灯る沈黙したエントランスをまっすぐ歩んで、エレベーター前に。ラウとレイと合流し、昇降ボタンを押し込む。ブレーカーを破壊したことでビル内の電気系統は死んでいるが、このエレベーターと地下フロアだけは別経路から電力を供給しているため、まだ稼働する。恐らく、議員のプライベートフロアだからであろう。
エレベーターが到着する。中に傭兵が乗り込んでいないかを警戒するも、無人だった。
四人の暗殺者が乗り込む。閉じた扉の向こうで、着々と襲撃の準備を行う。地下には逃げ場はないので、もう消音器は不要だ。彼らの持つ消音器は完全に近い消音性能を備え、隠密行動には必須の装備だが、それゆえに発射ガスを強制的に抑制するので命中精度が著しく低下している。隠れる必要のない場合は外した方が利口と言えよう。
残弾数の確認、再装填も済ます。マガジン内にまだ残弾があっても、三割以下であれば新しく交換するのが得策だ。いざ銃撃戦になって、すぐに弾が切れるなんてケアレスミスは死に繋がり兼ねない。
襲撃の準備を整え、エレベーターは地下フロアへ。扉の開口と同時に、四人は議員の護衛に向かって銃弾を放った。フルオートで放たれる幾重もの弾丸の嵐が、瞬く間に正面にいた傭兵三人を死体に変える。〝T〟字型の長い方の通路に差し掛かったところで、待ち受けていた五人の敵兵がアサルトライフルによる反撃を開始。五.五六ミリ弾が、コンクリート製の壁を削り、甲高い音を立てた。
四人の暗殺者は、通路分岐点に縫い止められる。隙を衝いて応射するも、相手の激しい射撃になかなか有効打を与えられない。四人は、目的の通路を挟む形で二人一組に分かれていた。アインはハンドシグナルで指示を飛ばす。
<援護しろ>
反対側に立つヨナとレイが頷き、角から半身を出して一斉掃射。引き金を絞り続け、相手に反撃の隙を与えないようにする。二人が持つHEC-68RASの装弾数は三○発なので、時間にして一○秒もしない内にマガジンは空になる。その僅かな時間を使って、アインとラウは角から飛び出し催涙弾を放った。そして、遮蔽物に隠れている敵に照準を定める。
「リロードッ」
ヨナが声を張り上げて弾倉交換、援護が途切れる。狭い通路内に立ち込めるクロロアセトフェノンの煙に目と呼吸器をやられた傭兵が顔を上げたところを、アインとラウが狙撃。アインは指切り短射を繰り返し、角から完全に身を晒しているラウの射撃をサポート。彼女のバトルライフルならば、多少の遮蔽物を貫通することが可能だ。七.六二ミリという大口径ライフル弾ならではの破壊力が為せる技である。
狭い通路内に、UBR-20T3の射撃音が響き渡る。排出される薬莢が床を跳ねて、金属特有の音色を奏でる。立て続けに絞られた引き金が、敵兵に死を告知する。最後の傭兵が脳漿を床に散らしたことで、通路の安全は確保された。
先の銃撃戦で地下室への扉に数発の弾痕が生じていたが、貫通はしていない。さすがに防弾仕様ということらしい。無論、扉には鍵が掛かっていた。
「ラウ、頼む」
「了解」
アインが一歩退いて、ラウが扉の正面に立つ。彼女はそのまま扉の蝶番に銃口を突きつけた。ただし、接しているのはバトルライフルのものではない。レイルシステムに搭載されたアンダーバレルショットガン――M30MASSの銃口である。七発装填できるボックスマガジンには、ドア破壊用のスラッグ弾が装填済みだ。こういった銃身下部に装着するショットガンを、万能の鍵という意味を込めて〝マスターキー〟と呼ぶ。
引き金を絞る。ズガンッ、という重い音を伴って蝶番が破損。次いで、ヒンジも撃ち壊す。ただの防弾板と化した扉をラウが蹴り開くと同時に突入、全裸の議員と半裸の娼婦数人の姿が四人の視界に映った。全員が恐怖の表情を浮かべている。
「な、なんだっ、貴様らはっ?」
叫ぶ議員、アインが近づくに連れて後退。キングサイズのベッドの縁に足を取られて倒れる。アイン、尚も歩みを止めず。ベッドに腰掛ける議員の前まで来ると、鋭い視線を周囲に向けた。ガスマスクに覆われた顔を向けられて、娼婦たちが小さく悲鳴を上げる。
「こいつら、どうするよ?」
後ろからヨナが問う。一瞬の思考の後、アインは応答。
「僕らの存在は露見していない。悪影響もないだろう、構うことないさ」
「だとよ、姉さん方。感謝しな」
ヨナの言葉に、娼婦が反応。一目散に扉へと駆けていく。衣服を取ることも忘れて、下着姿のまま退出。緊迫した状況下でなければ、大声で悲鳴を上げていたことだろう。
娼婦が地下からいなくなったのを確認してから、アインは議員に向き直った。下っ腹の出た禿げ頭の男が恐怖の色を必死に隠そうとしている姿に、思わず笑いそうになる。
「ジャン・ピエッタで間違いないな?」
「貴様ら、私を知っていて襲撃したのかっ? 愚かな馬鹿共め!」
自分がどれだけ偉大な権力者かを説明する議員の声を遮って、アインはゆっくりとガスマスクを脱いだ。凛々しくも歳相応の顔が現れる。
「アンタがどんな人間なのかはどうでもいい。僕にとって重要なのは、アンタが教団の教えを批判し、女神様を愚弄したという事実だけだ」
レッグホルスターから大型のリボルバー拳銃を抜いて、議員の額に照準する。皺が浮かぶ顔に滲んだ恐怖が、一段と濃くなる。
「ま、待て! 教団だと? そうか――貴様ら、メルキセデクの執行人か!」
「僕らの正体なんて、アンタには関係ないだろう。ジャン・ピエッタはここで死ぬ。歴史に刻まれる史実は一つでいい」
冷たく言い放ち、アインは右手の親指で撃鉄を起こした。後は引き金を引くだけだ。
「分かっているのかっ? 人権保有者を殺すのは、思想離反に繋がるのだぞ!」
「女神様の導きを批判したアンタに人権はない。国家宗教に害なす存在となった時、アンタの人権は剥奪されたのさ」
アインの声に言葉を失う議員を見下ろして、神罰の言を紡ぐ。
「アグラの御名に誓い、背教の咎人に鉄の制裁を――」
「よ、よせ――っ」
ドンッ、という重い銃声。議員の制止を音で掻き消し、銃口から飛び出た.三五七マグナム弾が議員の頭蓋骨を粉砕する。超至近距離から放たれたマグナム弾は固い頭蓋骨を砕いても止まらず、内部を直進して大脳を破壊。議員の生命活動を刹那に終わらせた。
白地のシーツに広がった放射状の血液と脳漿の上に、議員が倒れる。アインには、その光景がスローモーションのように感じられた。目を見開き、驚愕の表情のまま絶命している議員の顔を眺めて、アインは静かに祈りを捧げる。
「汝、死を記憶せよ。――ただ神にのみ栄光あれ」
リボルバー拳銃を眼前に掲げて祈る仕草の彼に従って、後方に控える三人も同様にハンドガンを掲げた。銃口を眉間に添えるように縦に掲げる四人の暗殺者の姿は、沈黙の地下フロア内を静謐の空気へと変化させる。
数秒そうして祈った後、アインは踵を返しガスマスクを被った。歩きながらスロートマイクを押す。
「《アーテム》よりコマンド、粛清完了。被害なし。これより帰投する」
すぐに応答が入る。渋く低い男声が、無線機に流れる。
『コマンド、了解』
四人の暗殺者が、地下フロアを後にする。背後に死体を残したままに。
後の年代記に記されるのは、とある議員がこの日を以て人生を終わらせたという事実だけだ。他殺か自殺か、死の起因については触れられない。瑣末な事象は歴史に必要ない。
そして、年代記には同じような事例がいくつも記録されることとなる。
それは、四人の暗殺者による死の記録。銃によって紡がれる粛清の年代記。
流れる時間と繰り返す歴史の中で、物語は未だ続いている。
/3
意識が覚醒する。
開いた瞼に掛かる朝日が、〝昨日が明日〟――〝明日が今日〟になったことを報せる。胡乱な頭を振り払い、眠気から完全に復帰。手足を軽く動かして、稼働状態が良好かどうかを確認する。いつも通り、問題はなさそうだ。
生活必需品以外なにも無い部屋から出て、石造りの廊下を歩く。夏でも涼しいこの造りは、しかし人間には不快らしい。冬の寒さに耐え得る構造ではないからだ。寒風が吹く時期に、これでもかという厚着をして震えている様子を見ていると、自分が人でなくて良かったと思う。機械神教団のビショップたちは、彼――アーテムのことを[ハイブリッド]と呼んでいる。
ミルスペック・ヒューマノイド――。
人工筋肉と強化骨格、高性能発電機で稼働する人造人間。つまりは、ヒトの皮を被った兵器だ。〝武力否定思想〟に離反せぬよう人権所有を故意にあやふやにされ、教団の暗殺者として創造された半人半機械の混成物だから、ハイブリッドと通称される。
外見こそヒトだが、中身はあらゆる意味で人でない。機械の精密さや力を有し、如何なる状況下においても機能が発揮できるように肉体を設計・調整されている。ゆえに、劇的な気温変化や対衝撃性にも優れ、氷点下の中を衣服を纏わずに行動できたり、走行する車を素手で受け止めたりすることも可能だ。また呼吸によって発電を行うので、食事も必要としない。ただし、食物を摂取しそれをエネルギーへと変換する疑似臓器は持っているので、人間と同じように食事をすること自体は可能である。
アーテムは、そんな自分の存在に対して疑問を抱いていない。こうなる前の記憶が皆無なのもあるだろうが、本質が機械であれ人間であれ、課せられた任務に変化はないからだ。
教団の命に従い、咎人を粛清する。アーテムにとって、これが正しい行いなのかは分からない。しかし、誰かが背負わねばならない運命には違いないだろう。それが偶々、自分に巡ってきただけのことである。他に信じるべき信条もないし、彼には自身を正当化するしかなかった。
春が過ぎ去り、世界が夏の季節へと移行しようと太陽の輝きを増加させつつあるのが、廊下の石壁に等間隔に並ぶ格子窓に射す光量から察せられる。春の穏やかな空気を若干に乾かして、人々の体温を否応なしに上昇させていた。
石造りの階段を下りて、一階の食堂へ。
数人のビショップが談笑しつつ朝食を摂っている。アーテムはそれほど彼らと親しくないので、広い食堂内に知った顔がないか探してみる。すると、向かって一番左端の長いテーブルのさらに一番端の席に、知人を発見。隅で一人、黙々とパンを齧る女性に歩み寄る。女性は、自身の朝食に影を落とされたことで視線を上げた。アーテムと目が合う。
「ん? ……ああ、お前か。おはよう」
ハスキーな声音で挨拶する女性――カッツェは、クールな雰囲気を少しだけ和らげて笑んだ。意志の強そうな双眸が、友好的に細められる。まるで、野良猫が懐いている人物を見つけた時のような表情だ、とアーテムは思った。信頼の置ける相手にしか見せない、彼女の数少ない一面である。
「おはよう、カッツェ。隣、いいかな?」
「もちろん」
頷いて、カッツェは食事を再開する。アーテムは、卓上に置かれた皿からパンを手に取り、口に運んだ。咀嚼しながら、口腔内の水分を補うためにコップにミルクを注ぐ。朝食にはミルクがないと元気が出ない。
横目で、同僚を見やる。褐色の肌に銀髪のショートヘア、ネコ科の動物のような双眸に鼻筋の通った美麗な顔つき、端正な口唇、もぐもぐと動くハリのある頬――間違いなく美人と言える。しかし、迷彩柄のズボンに軍用ブーツ、所々が傷んだ深緑色のタンクトップというラフ過ぎる格好が、彼女の女性らしさを悉く低下させていた。
まあ、彫りの深い綺麗な鎖骨や細い首筋、薄着のタンクトップを内側から押し上げる形の整った乳房など、女性を象徴とする部分がより一層強調されているので、野性味溢れる異性が好みの男ならば却ってこちらの方がいいのかもしれない。少なくとも、アーテムの好みには当て嵌まっている。
「……んぐ、どうした?」
あまりに見過ぎたようだ。パンを嚥下したカッツェがこちらを向いて、首を傾げる。「なんでもない」と返すアーテムに、カッツェは「そうか」とだけ呟いてパンを齧る――のだが、余程気になったのか、今度はこちらの方をちらちらと盗み見てくる。
なんとなく焦燥を覚えたアーテムは、誤魔化すように話題を振った。
「そういえば、また夢を見たんだ」
「夢……? ああ、前にも言っていたな。どんな夢だったんだ?」
「それが、内容を思い出せなくて。……でも、懐かしい感じがしたな」
「懐かしい夢、か。一体、お前はなにを見たんだろうな。私は夢を見たことがないから、少しだけ羨ましいよ」
言って、カッツェはミルクが入ったコップを口元へ。ごくごくと上下する喉が、とても扇情的に映る。飲み干したコップを卓上に置いて、「さて、と」ハスキーな声で呟く。それから、両手を組んで上体を反らすように伸びをした。
ぐぐっ、と反らされる上半身が否応なく豊かな双丘を主張する。ハイブリッドは機械の身体を持つが、外見や仕草は人間のそれと変わらない。無論のこと、それは肌の質感なども同等であり、だからこそ、衣服を下からこれでもかと押し上げる彼女の胸は、アーテムにとって目の毒でしかなかった。
外装に無頓着なこの同僚が下着などという物を着ているはずもないので、生地の薄いタンクトップには乳房の形が如実に余すことなく表れている。胸の先にある突起すら視認できる状況下で、アーテムに提示された選択肢は顔を背けることだけだった。正直、もうちょっと常識を身につけてほしいと思う。ブラジャーと一緒に。
そんな彼の『見たいけど見てはいけない』という葛藤に気づかないまま、カッツェは椅子から立ち上がった。雰囲気からして、どこかへ出掛けるらしい。
「外に用事か?」
アーテムの問いを首を振って否定し、カッツェは真面目な顔で答えた。
「いいや、トレーニングも兼ねて街を走ってこようかと思ってな」
「……毎日よく飽きないな。いつもランニングマシンで走ってるだろ? たまには休んだりしないのか? 僕らだって、過負荷が蓄積したら機能不全になるかもしれないぞ」
アーテムの呆れ顔に、けれども彼女は頷かない。
そもそも、あらゆる戦闘技術に適応可能なよう調整されているハイブリットに運動は必要ない。人工筋肉は成長しないし、体力だって発電量とイコールである。そのスペックはあらかじめ設定されているから、自主的なトレーニングで数値が向上するなんてあり得ない。射撃や格闘などの訓練は必須だが、内面的な性能に関与する走り込みや筋力鍛錬は無駄な労働でしかないのだ。
だから、カッツェが毎日行っているランニングや鍛錬などのトレーニングは、ひとえに彼女の趣味ということになる。その証拠に、他の二人の同僚は必要分の訓練しか行っておらず、空き時間は各々好きなように過ごしていた。アーテムも、暇な時間は散歩などして余暇を潰している。
「私たちに鍛錬が不要なのは知ってるさ。ただ、動くのが好きなんだ。汗もかかないし疲れもしないが、運動した後のスッキリする感じが良くてね。心が洗われる気分とでも言うのかな。私はそれを味わいたいから運動するのだけど、変か?」
純粋な顔で問われて、アーテムは「そんなことない。カッツェらしいよ」と苦笑して自身の言葉を否定した。本より、彼女の行動を制限しようと発言したわけではない。なんの気なしに、口にしただけだった。
アーテムの反応に、カッツェは緩んだ笑みを浮かべた。
「そうか、良かった。私らしい、か。……ふふ、なんだか照れるな」
安堵の中に嬉しそうな表情を滲ませて、はにかむ。どうやら、彼に首肯され反論されたらと内心は不安だったらしい。同僚に嫌われるのは確かに辛いな、とアーテムは呑気に頭の隅で思った。
「それじゃあ、また後で」
別れを告げて、カッツェが食堂から立ち去る。話し相手がいなくなったので、アーテムも手早く食事を済ませて外出することにした。天気もいいし、街をぶらつくのも悪くないだろう。
残っていたパンをミルクで流し込み、席を立つ。居住区や礼拝堂を抜けて、玄関へ。
外に出る。
正午前の穏やかな陽光に照らされた街並みが、活気づいた様子で命を得たかの如く賑やかとなっていた。立ち並ぶ露天が道の両脇をずらりと埋め尽くす市場やアーケードが設けられた商店街、古風な街並み。自然に融け込んだ石造りの景観は、荘厳かつ美しい。
アーテムは、城下町を歩いていた。比較的、他国と比べて賑やかな国柄なのでどの街も活気づいているが、首都圏内で女帝のお膝元ともなればその具合は一段と上になる。暗い噂話など生じる余地がないほどに、人々の生活は笑顔に満ちていた。
この国は、国民の象徴でありながら政治において最高の権限を持つ女帝を頂点とする女帝制国家だ。同時に、女帝は国家宗教たる〝機械神教〟の信仰対象でもある。
同宗教は布教を担当する〝教会〟と政府直下の〝教団〟の二部組織で構成され、主に世間で知られているのは前者だ。後者は、一部の政府関係者しか知らない暗部と言っていい。アーテムやカッツェなどが所属するのも、この〝教団〟の方である。
〝機械神教〟とは、世界を運営する万能の神――機械神を崇拝する宗教である。教えでは、その全能の神と交信できる選ばれた存在がいるとされ、〝女神〟と称されるその存在が女帝だとされている。神との繋がりを持つ女神(=女帝)が、機械神の導きを得て国家を良き未来へと先導し、絶対なる平和と繁栄をもたらす――というのが、教典に記載されている教えだ。ゆえに女帝は神と同一視され、国民にとって最も偉大なる存在として崇められている。
国民の九割近くが信徒であり、残りの一割は他国からの移民か反女帝思想を掲げる叛徒でしかない。女帝の統治に疑問を抱かない国民が反乱を起こすはずもなく、国家成立から現在に至るまでの長い歴史の中で内乱に陥った史実は皆無だ。
事実、この国は平和で緩やかながら繁栄を継続している。国民が今の生活に対して不満を抱いたことはないし、経済も常に安定したサイクルを保っている。
不自然なまでの安穏とした日々。
きっと誰もが、この約束された平穏が女帝によって築かれているのだと信じているのだろう。そして、知るまい。穏やかな歴史の裏で、女帝が築いたとされるその安寧を守るべく手を血に染めている者がいることを。
ゆえに感謝もされず、労われもしない。ハイブリッドとして教団の命のままに背信者を粛清する自分たちは、決して表舞台へと上がることはできない。
しかし、それでもいいとアーテムは思った。誰かに感謝されるために殺しているわけではないからだ。人々が笑顔を忘れないで楽しく生きる毎日を築けるのなら、わざわざ手柄を恩着せがましく公表する必要なんてない。その行動こそ、女帝に対する侮辱である。
アーテムは、城下町を上っていく。太陽の活動と共に賑やかさを増していく街並みの中をゆったりと歩きながら、決意を新たにする。過去の記憶のない自分にとって最も大事なのは、今この瞬間のみ。自分という存在が『ここにいる』という事実があれば、失くした記憶を憂うことはなくなる。
――今、自分にできることをする。
それが彼の信条であり、存在する理由だった。
教団関係者は、彼やカッツェのことをハイブリッドと呼ぶ。半人半機械の強靭な肉体を有する無慈悲の粛清者。歴史に登場し得ない、陰の主役。
鋼の身体と鉄の意思で咎を葬る彼らが属するのは、教団擁する粛清部隊。
その名を、【鉄の神兵】と言った。