エピローグ
高校生活最後の冬休み、私は部屋の中一杯に画材道具を広げて一枚の絵に取り掛かっていた。
トルコ石のような黄色がかったブルー・テュルコワーズの空には、太陽の光に染められた花びらのように薄い金色の雲が何層にもなって浮いている。その下には見慣れた鉄筋校舎があった。
校門のサイドを彩るのは黒々とした枝に夢のように淡く折り重なる桜の花。そして、私の大切な人たち。
筆先にすくった絵の具を、画面の上に丁寧に落としてゆく。
マユミのちょっとふくよかで、柔らかい笑顔。モトコのスポーツマンらしい日に焼けた明るい笑顔。
筆を動かすたびに心が満たされてゆくのがわかった。
卒業すればマユミとモトコとは道をたがえる。マユミは市内の大学へ、モトコは介護関係の専門学校へ進学することになっている。その前に、この絵を二人に贈りたかった。
髪が額にかかり、私は筆を握ったまま手の甲でそれを後ろに撫で付けた。
ふと、後ろの本棚が目に入った。私は並ぶ背表紙に視線を流すとすぐに絵に取り掛かろうとした。けれど、何かがひっかかり、もう一度本棚に顔を向けた。
一冊だけ前に突き出している青い背表紙に目が止まる。それは他の本よりも一回り大きな本だった。
卒業アルバム。
すぐさまその正体を覚り、私はイーゼルの脇の筆立てに筆を置いた。絵の具の汚れをタオルで拭き、その青い背表紙に手をかける。
中学を卒業してから一度も開いたことのなかったそれを、私は恐る恐る開いた。
古くなった糊がパキパキと音を立てる。厚いページをめくると、各クラスの皆の顔写真が目に飛び込んできた。誰もが少し緊張したような面持ちでこちらを見ている。
その中に一箇所だけ黒いマジックで塗りつぶされた所があった。塗り残されたところには『日野康子』の文字。
私は口を歪めた。あの時はこんな風にすることしか出来なかった。ただただ、自分に起きたことを否定したくて、ヤスコの存在を否定した。
パラパラと最後までページをめくってゆく。といっても、一人も親しい友人ができなかった私のアルバムには、思い出の寄せ書きがあるはずもなく、最後までめくったとしても新品同様だとわかりきっていた。
けれど、一番最後の奥付までめくったところで私は手を止めた。
ボールペンの走り書きがそこにあった。
ただ一言『ゴメン』と。
名前も何もなかった。
でも、誰がそれを書いたのか分らないはずがなかった。見覚えのある文字に私は息の止まる心地がした。
知らず知らずの内に、涙が頬を滑り落ちた。
もう、私は彼女を許していた。マユミが、モトコが私に手を差し伸べてくれてから、何度も何度も話を聞いてもらううちに傷はゆっくりと癒え、ヤスコを責める気持ちは薄れていた。
私はそっとその文字の上に指をのせた。
この文字を書いた主は、高校進学と共に隣の市へ引っ越していった。
卒業以来、彼女がどうしているのか知らない。
住所も電話番号もわからない。
私にはもう、ヤスコに連絡する術はない。
取り戻すことのできない時間をかみ締めるように瞼を閉じると、手の甲の上に温かいものが落ちた。
胸の中で『いいよ』と呟く。
十分だと思った。
思ってもみなかった一言。
込み上げてくる涙は静かに流れ落ちていった。
私は大切なものを抱きしめるように、そっとアルバムを胸に引き寄せた。




