3.時計
雑誌をめくっていたらあの男の顔が出ていたので、小さく「あっ」と叫んでしまうほど私は驚いた。
「この人知ってるの、カナエ?」
モトコの問いかけに、うんと頷く。
「物を創る人でしょ?」
知っていると言ってもその程度。“二世の樹”の本名すら私は知らない。
「インテリア、雑貨などのデザイン、それにオブジェなんかも手掛けてるんだって」
記事に目を通す。
本名、石塚芒。年齢二十七歳。
続けて読もうと思ったけどやめた。これ以上知ったって無意味だ。あの茶店にも、もう二度と寄るつもりはない。
「これ可愛いっ」
マユミが勝手に次のページをめくった。
見覚えのあるものが目に入り、私は食い入るようにしてそのページの写真を見た。
シトルフォーンがいた。
銀で創られた兎が、物憂げな表情を浮かべて試験管にもたれ掛かっている構図のフラワースタンド。机に寝そべっているように創られているのは文鎮。ガラスの小皿を組み合わせて創ったアクセサリー入れの留め金にも、シトルフォーンの顔があしらってある。
「次のページ、見てよ。ウサギに猫。この人、この顔でどんなふうにこんな物創ってんのかなぁ」
「ホント。笑えるよね」
甲高い声で笑う二人。私は次のページの作品に目をやった。
猫の形にした銀を黒く腐食させ、猫特有のゆるやかな曲線を生かしたフォトフレーム。猫の形を越えて、その線の魅力だけでデザインしてあるブリキのカゴ。
想像の産物は懐かしくどこか温かかった。題材に使われた動物達の表情が良かったのかもしれない。
シトルフォーンの性格を良く表している知的な瞳、引き締まった鼻先。猫の持つ、奥行きのある静かな眼差し。細かな表情も丹念に創ってある。
「……何が笑えるの?」
他人を庇おうなんて気持ちはこれっぽちもなかった。けれど、押さえきれない。
「カナエ?」
私の声の調子に、二人が双子のように同じような表情をした。悪意のない、不思議そうな顔。
「あんた達にはとてもじゃないけど真似できないでしょ」
歯止めがきかなかった。
「あんた達はただ、生きてるだけでしょ? 意味もなくダラダラ生き続けるだけ」
「……そんなの、カナだって同じじゃない」
マユミの言葉に私は違うと言いかけて、言えなかった。
「ちょっと笑っただけなのに。カナエ、おかしいよ」
いつものように笑ってごまかそうとして、私は体の底で生まれた問いに阻まれた。
自分を偽るつもり?
「ごめん。ホント、どうかしてるみたい」
感情が揺さぶられ、コントロールできない。二人は私が素直に謝るとは思っていなかったらしく、意外そうな顔をした。
他人に自分の弱い面を見せたくなかった。弱い面を見せたらそこを突かれる。
「カナ、何かあったの?」
親切に聞いてくるマユミ。さっき言われた言葉に怒ることを一時的に中断して、私を心配してくれている。
高校に入って優しい人が多いなと思った。だから、私はかえって打ち解けられなかった。その手を取ったら、裏切られるとき、きっと親しんだぶんだけ痛い思いをする。人間は裏側に残虐性を隠し持っているのだから。
「変なこと言ってホントにごめん。何でもないの」
席を立ち、彼女達をその場所に残したまま私は教室を出、校門の方に急いだ。
マユミの言葉が耳から離れない。
家に帰る気にもなれず、どこにも行く当てがなかった。それでもどこか落ち着ける場所が欲しくて、私は初めてシトルフォーンに遇った場所へ行くことにした。
神社の境内にはこの間と寸分違わぬ静けさが降り積もっていた。太陽の光だけが、いまだ昼を迎えていないため幾分か柔らかい。
私も彼女達と同じ。
なんて的確な言葉なのだろう?
否定できなかった。否定してみてもそれは全く意味をなさなかった。ふと気づくと、私は自分の欺き方を忘れてしまっていた。
いつの間に私はこんなに弱くなってしまったのだろう?
他人の言葉を受け入れてはいけない。信じちゃいけない。そう、改めて心を固めたはず。
手水の流れる音が葉擦れの音と重なって、魂を失ったような体の中を通り過ぎてゆく。
魂を失ったような?
違う。私は本当に魂を失っていたんだ。自分が一番嫌っていた、平気で人を裏切るヤツに成り下がってていたんだ。
同時に火山活動がプレートを動かすような反発が全身を襲った。
嫌だ。そんな人間になるために生き延びたんじゃない。
太陽を見上げる。直に見つめる。太陽の残像の暗い点々が視界を埋めてゆく。瞼を綴じると、鮮やかな緋色が点々を覆した。人の原初の色。私の体に流れている、命の色。
ああ、そうなんだ。だから私はソレを求めてもがいていたんだ。
言い知れない衝動に駆られ立ち上がる。私は神社を抜け出し自転車のペダルに足をかけた。
胸に大きく立ち込める暗雲の透き間から、稲妻の剥き出しの輝きがきらめいていた。
絵を描くための道具を探していたら机の引き出しから懐中時計が出てきたので、私はスケルトンタイプの時計のネジを巻き、ひとしきりその動きを眺めていた。
初めてのバイト料で手に入れた私の宝物。渦巻き状のゼンマイに力を溜め込むタイプの、人の手が加えられなければ動くことのできないアナログ時計。
他にも何かないか探してみる。
小学校の頃友達からもらったお土産の小瓶。家族で海に行ったときに拾った、波に洗われて角のなくなっているガラスの破片。野外学習先から持ち帰った枝。
机の奥にしまい込まれていた宝物の数々。
「佳苗」
本来の目的を忘れかけていたころ、ドアが叩かれた。
「町田先生から電話があったわ。何の連絡もせず、学校を早引きしてきたそうね」
カーテンから朱の斜光が漏れていた。動き始めた時計が、狂ったまま、時を刻む音を発する。
「いっそのこと、高校やめる?」
母は部屋には入って来ず、扉の向こうで続けた。
「けれど、貴女が思うほど現実は甘くはないわよ」
そんなこと、言われなくたって十分わかってる。
「別にやめようなんて思ってないわ」
「そう。それなら別にいいけど。まぁ、貴女がしたいようにすればいいわ」
理解のある母親を演じているのか、本心からそう言っているのか。無条件で母を信じられたらいいのに。それができたら、どんなに楽だろう。
「夕御飯、買って食べてね。いつものようにお金はテーブルの上に置いておくわ」
足音が遠ざかってゆく。
いつもこうだ。私には無関心で、時々思い出したように声をかけてくる。今はもう気にしていない。母の態度は父の死んだ中一のころからのものだった。
手の中で動き続ける懐中時計。針の振動は私の心臓の音のように小さく弱い。壊れないように大切に、机の上に乗せる。
机の一番下にある大きな引き出しに、小学校時代のスケッチブックを見つけ、私はそれを開いた。まだ、白いページがかなりある。
机の中の物を辺りに散らかしたまま、私は絵を描き始めた。安いスケッチブックは薄いうえに毛羽だって描きづらかったけれど、そんなことはどうでもいい。
何を描こうと意識していなかったので、線はゆるやかに少し黄ばんだ紙の上を泳いでいた。細長いヒョウタンの片側の線だけを何本も引いてゆく。
風の形。
体の奥底で言葉がかすめる。
描いているうちに、風は紡がれるものだということを知った。太い風、細い風。それらが折り重なって、本当の風になる。
あの男の言ったことを実感した。
私には私のやり方で世界を磨くことができるのだと。その形を知ることができるのだと。
何かが体の奥から滲み出るのを感じた。
次のページをめくる。
丸く円を描く。指を使ってその線をぼかしてみる。内側は濃く、外側は薄く。鉛筆の先端を使い点描でクレータを書き込んでゆくと、巨大な月が生まれた。
ふと思いついて先程の絵と重ね、夕日の最後の一筋に透かしてみる。
光の屈折が見えた。私の持っていた月のイメージに、複雑さが増す。
表現することの喜びが、全身の肌を粟立たせる。これ程の喜びは、恐らく初めてのものだった。
描きたいという思いが堰を切る。
学校の教育課程に組み込まれた、枷のつけられた表現ではなく。ただ、描きたいから描く。それだけ。
描くことによってしか私は私を表現することができないのだ。私の親しむあの世界を表すことはできないのだ。
世界は変えられる。
唐突に、そう思った。
身の程知らずな思いだろうか?
けれど、絵を描くことによって二つの世界を橋渡しすることが、私にはできる。
涙が出そうだった。
何のために生きるのか。何処へ行こうとしているのか。
進むべき微かな道が見えたような気がした。
「佳苗、私は仕事に行ってくるわね」
一階から、母の声。我に返って、下へ降りてゆくことにする。
ふと窓を見ると、夕日は既に沈んでいた。けれど、雲はその照り返しにより、夕日が落ちるときよりも明るく輝いている。
今日は久しぶりに、感じようとしてではなく、感じることによって、夕空の美しさが胸に染みた。
藤川が私の家にカバンを届けに来たのは、夕飯を終え、片付けをしている最中だった。
洗剤の泡のついた両手をすすぎ、タオルで水気を切る。
覗き穴から見た藤川の姿に、気まずさを覚えた。藤川に今日あったことを説明しても、きっと理解できないだろう。
それでも、藤川が手に持っているカバンの存在を知ると、私はドアを開けない訳にはいかなかった。
「部活があったんだ」
言い訳がましい言葉に私は苛ついた。
「カバン、持ってきてくれたの?」
「ああ、これ。マユミとモトコ、心配してたぞ。あいつらこれでも気をきかしたみたいで、届けてくれって」
藤川の差し出したカバンを受け取る。
「ありがとう」
「おばさん、いる?」
「うん」
嘘。いない。部屋の中に入れたくないだけだ。
「じゃ、外で話そう」
私には話すことは何もなかった。
「今日のこと?」
「俺、自分のことばかり話してただろ? 会田のこと、気づいたら何も知らなかった。ちゃんと話をしようって決めたんだ」
近くの駐車場まで行くと、私達はそこを取り囲むフェンスの土台の少し出っ張ったコンクリートの上に並んで腰を下ろした。
「知り合いを笑われたのが嫌だっただけなの」
早く会話を終えたくて、私は先に口を開いた。
「知り合いって?」
聞き返す藤川に何と答えていいのか分からない。
「……俺には言えないのか?」
責めるような口調だった。
「隠し事なんかするなよ。俺、会田のことが好きだから、こうやって聞いてやってるんだぜ?」
藤川は私を縛り付けようとしている。所有物のように。
「別れたいの」
そう呟いた私の顔を藤川は横から覗き込んだ。睨みつけるような視線に、藤川が相当腹を立てていることは容易に推測できた。
「突然、何言うんだよ」
私にとっては突然のことではなかった。
「さっきの言葉を聞いて、私に藤川君は合わないと思ったから」
本当はずっと前から。もうこれ以上、自分を偽り続けることは出来なかった。
「いいかげんにしろよ。俺はただ、会田のことを聞こうとしただけだろ?」
肩をつかまれ、体を無理やり藤川の方に向けられる。駐車場を照らすための街灯が、怒りに歪んだ藤川の顔を私に見せつけた。
「藤川に話したって無駄だから」
仮面を脱ぎ捨て、今まで面倒臭くて言わなかった言葉をほとばしらせる。
「あんたが好きなのは自分だけ。私のことは飾りにしか思ってない。人形遊びがしたいなら、他の人でも十分でしょう?」
藤川は私の変容に息を飲み込んだ。
私は藤川が気を呑まれている間に肩にかけられた手を剥ぎ取り、立ち上がった。
「あんたは自分の世界しか愛していない。私に、似過ぎていたのよ」
言葉にして初めて気が付く。藤川に対して自分のことを説明することの億劫さが、何であったのか。
同じだったからだ。
表し方が違うだけで、本質的には同質だったからだ。
「会田?」
脅えた小鳥のような瞳で見上げる藤川に、私は同情した。お互い何もかもさらけ出すことができたなら、手を取り合うことも不可能じゃなかった。
「今までありがとう。ごめん」
けれど、藤川は気づいていない。私と藤川との共通点に。多分、永遠に気づかない。
逃げるように家に戻ると、私は残りの洗い物を済ませて二階に上がった。
自分の部屋の扉の前で、小さく深呼吸をする。藤川とのいざこざで波立った気持ちを部屋の中に持ち込みたくなかった。
しばらく経った後、私はノブに手をかけた。
カチャリ。ドアを開ける。
「これは、君が描いたのかね?」
透き間から聞き覚えのある声がして、私は扉を一気に開けた。
「全然、駄目だな」
シトルフォーンがそこにいた。短い手の中にスケッチブックを広げて、眉間の辺りに皺を寄せている。
「どうして」
何故兎がここにいるのかということよりも、絵の評価に私は耳を傾けた。
「中身がない」
その言葉を私は聞きとがめた。
中身、とは何なのだろう?
「これでは二つの世界の橋渡しにはなりえぬ。私のような君の知り合いでなければ、その存在を感じることはできぬだろう」
シトルフォーンは続けた。
「闇色猫にはもう会ったかね?」
闇色猫。そういえばこの砂兎は初対面でもそんなことを言っていた。
「まだ」
シトルフォーンはスケッチブックを閉じて私に返し、肩の力を抜いた。
「良かった。まだ、君は会うべきじゃない」
言葉のイントネーションに、ふと疑問を抱く。
「あいつは闇色猫に会えたのに?」
シトルフォーンはそれには答えず、私のベッドの上に飛び乗るとその縁に腰かけた。
「“二世の樹”の黒いコートが何なのか君にわかるか?」
私はすり替えられた問に答えられなかった。あいつがあの黒い服装を年中通して身につけていることだけは、薄々感づいてはいたけれど。
「喪服だよ」
シトルフォーンは静かに言った。
「私の生みの親は体が弱かった。しかし、魂は良いものを持っていた。ドヴォルザークが好きでね……一人のときにはよく聞いていたものだ」
時の狭間を見つめるような懐かしげな表情をするシトルフォーン。私は黙って聞いていた。
「二人は幼なじみだった。しかし、常にいさかいが絶えなかった。傷つけ合って、ようやく互いの持つコンプレックスが消えたころ、彼の命の灯は消えた」
兎は視線を私に転じた。
「君が本当に一人で生きて行くことを望むのであれば、闇色猫は君をあの世界から締め出すだろうよ」
危機感を覚える。あの場所を失うなんて、考えられなかった。
「私には何が足りないの? それに、闇色猫って……」
私の問いかけにシトルフォーンは首を振った。
「その答えは君が見つけるべきものだ。きっと、見つけられる」
厳しく、けれど優しい言葉。多分それは製作者から受け継がれている魂の片鱗。
「“二世の樹”が呼んでいるようだ。そろそろ失礼するよ」
薄れゆく兎の姿を私は見送った。水の中に落とした一滴のインクのように、シトルフォーンは空気の中に溶け、やがて見えなくなった。
砂兎のいた辺りに腰をかけ、私はスケッチブックを開いた。
「何、これ」
手を加えられていることが一目でわかった。白黒の絵なのに、風は滑るように流れ、月は滴るようなツヤを放っていた。私のつけた陰影よりも微細に描かれている。
見ていると心の奥が熱くなった。
平面に平面でないものが生まれていた。風は何処までも遠く渦を巻き、月は慈愛の御手を差し伸べる。いつかその風に触れたような、これからその月に出会うような、不可思議な感覚が胸に沸き上がった。
一目瞭然という言葉が頭の中に浮かび上がる。
どうしたらここまで描けるのか。
シトルフォーンの持つ月と風のイメージが画面を通して直に語りかけてくる。
わからない。
わからなかった。
悔しくて奥歯を噛み締める。
うまく描きたい訳じゃない。人に褒められたい訳じゃない。ただ、自分の持っている世界を自分が感じるように伝えたいだけだ。
そう思ったとき、何かが引っ掛かった。けれど、それが何なのかわからないまま私は白い紙の上に線を走らせた。描くことで答えを探すように。
未だ発条の切れない懐中時計の音がやけに耳につく。私は懐中時計を手に取ると、その時間を正した。
私の時間は未だ止まったままなのだろうか?