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クオリアの種  作者: 空魚
3/6

2.月

 珍しく、本当に風邪をひいて学校を休んだ。休学、早引きを繰り返していた私の元に見舞いに来る人はいないだろうと思って油断していたら、友人A、Bが藤川を連れて家に押しかけてきた。

 私は自分の世界が汚されるような気がして、少しの間三人に外で待つように言ってから、部屋の中にあった空の小瓶や、古ぼけたラジオなどの調度品を押し入れの中に片付けた。

 けれど、さすがに本棚の文庫や単行本だけはしまうことができなかった。

「へぇっ、会田ってこういうの、読むんだ」

 部屋に上がり込んだ藤川は、早速、無断で本棚の本を物色し始めた。

「何しに来たのよ。藤川君」

 たしなめる、マユミ。

「ああ、見舞いだったっけ、これ」

 藤川はそう言い、私の椅子に座った。マユミとモトコは絨毯の上に座る。

「緊張してるの?」

 モトコがクスリと笑った。

「藤川君てピュアだね」

「今時珍しい。天然記念物みたい」

「悪かったな」

 三人は楽しそうだった。哀しいくらい。水族館で泳いでる、魚達を見ているような気分だ。

「あ、そうそう。今日の配布物、渡すね」

 マユミはそう言って、青いカバンの中からクラフト製のファイルを取り出した。

「今日、町田の奴の弁当見たらさ、四分の一がドロッドロのカレーのルーで、残り全部飯だったんだ。油が固まって黄色くなっててさ。よくあんなの食べるよな。さすがに本人の前では笑えなかったけどよ」

「ふぅん。町田先生、奥さんに嫌われてるのかもね」

 ぼんやりと感想をのべる。

「かもな」

 藤川は他人事のように笑った。

「はい、これ」

 マユミからプリントを受け取る。一通り確認してから、わたしはベッドのスタンドの横にそれを置いた。

「そろそろ私達、帰るね。結構元気そうだし安心した」

 マユミが立ち上がると、モトコもそれに続いた。

「じゃあ、俺も……」

 同じように立ち上がりかける藤川。

「待って、藤川君。話があるの」

 私の言葉に、友人A、Bがほくそ笑む。

「お熱いわね、奥さん」

「本当に。見せ付けてくださいますわね」

 井戸端会議中のオバサン達を、二人は演じているつもりのようだった。

「タチ悪いな、こいつら」

 藤川の言葉に、心の中であんたもよ、と付け加える。この中で一番タチが悪い。

「では、邪魔者は退散しましょう」

 マユミ達はそう言うと、足早に去っていった。

 二人がいなくなると、家は急に静かになった。母はスナック勤め。夜は家に帰らない。

「話って何?」

 無難な問いかけに、私は藤川の顔をチラリとも見ずに答えた。

「私、藤川のことが嫌いなの」

 何ら悪意もなく呟く。

「別れたいのか?」

 何か違うことを言うだろうと思っていたので、私は少し驚いた。

「別に。そんなこと、どうでもいい」

 沈黙が部屋の中に満ちる。私は藤川が何も言わないので、仕方がなしに自分から口を開いた。

「藤川さ、私の何が好きなの? 体? 顔?」

「全部」

 もう少しマシなことを言ってほしかった。けれど、やっぱり藤川は藤川にすぎない。

「ありがと。もう一つ、聞いていい?」

 真っすぐ自分の足の方を見たまま、私は続けた。

「今年の次の年が何年になるか、わかる?」

 藤川は、どんな表情をしただろう。ひどく、顔を歪ませたに違いない。

「二千年。ワールドサッカー、日韓開催の年だろ、そんなの」

「そうだったね。ゴメン、藤川君。ちょっと、意地悪してみたかっただけ」

 藤川の顔を見る。なーんだ、とでも言いたそうな表情。あまりにも想像通りな反応に内心、苦笑する。

「今日、ありがと」

「俺の方こそ、何も土産持ってこなくて」

 そんなことを気にしていたの。

 心が急激に冷めてゆく。

「そろそろ、お母さんが帰ってくるから」

 嘘。

「ああ。帰るよ」

 藤川を玄関まで見送る。このまま、あんたなんか消えてしまえばいいのに。

「じゃ、お大事に」

「うん」

 パタン、ドアが閉まる。

 外につないである飼い犬が、藤川に向かって吠え立てていた。

 もっと吠えろ。

 自分の身の内に巣くう凶暴性が、牙をむく。

 大嫌いだ。

 誰も彼も嫌いだ。

 誰も信じられない、自分も嫌いだ。

 胸の痛みに涙が出た。自分が嫌い。そう思うと、人の体は終わりに向かう速度を速めるのかもしれない。

 私は壊れやすいんだとそのとき思った。繊細という言葉では奇麗すぎる。壊れやすい、出来損ないのものなんだ。

 玄関に座り込んで涙を拭う。

 犬の鳴き声はいつの間にか止んでいた。


 少し形の悪い、円になりつつある月が、地面より少し高い位置に作られている新幹線の線路の方から昇ってきている。

 オレンジがかった、卵の黄身のような月。私とこの月とを隔てるものは、空気しかないのか、と思うと、体が少しだけ地面から浮いているような、奇妙な感覚に陥る。

 一番遠くて、一番近いところにある。

 月が『死者の家』と呼ばれていることを思い出して、ふと納得した。

 犬がクイッと綱を引いたので、私の見ていた風景は一変する。

 まだ開発途中の家々が目に入った。

 私が犬の散歩コースに選んでいるこの道は、田畑の広がる、視界の開けた場所だった。けれど、市から電車で十分ほどのこの地域には、最近やたらと家が建つ。黒や緑の田が埋められて、灰色の家並みが増えてゆく。

 両手一杯、私のものだった空が奪われ、犬の散歩をするたびに胸のしこりが大きくなる。

 まだ開発の手の及んでいない場所まで歩いてゆき、ようやく私は大きく深呼吸した。

 なじんだ風景が奪われるのを見るのは、これが初めてじゃない。

 小さな頃、私は隣町に住んでいた。私の遊び場は、家の裏にあった廃工場。ドラム缶や、サビの浮いた鉄パイプの散乱するその場所で、やはりじっと夕日を眺めていたのを覚えている。あの場所にはもう、別の建物が建っていた。

 小学校のころ。築七十年の木造校舎が壊された。二階建てのボロい校舎で、一、二年の時しか使っていなかったのだけれど、私はあそこにある低学年用の図書室がとても好きだった。ほとんど物置状態になっていたその部屋が図書室だと知っていたのは、私だけのように思えた。使われなくなった埃だらけのグランドピアノ。誰にも読まれることのない、数々の絵本達。光の差し込んだセピア色のあの部屋を、私はとても愛していた。

 求めていたものは、息のつけるささやかな空間だった。

 みんな、壊された。奪われた。

 私は哀しかった。

 ドラム缶や校舎の生みだす影の美しさに、百八十度辺りを見回すことのできるこの空の美しさに、何故気づかない?

 大切な物は失われる。

 大切な物は無くなる。

 サラサラ、私の手の中を擦り抜けてゆく。細かい砂になって。

 砂。私の足元に広がる、広大な砂漠。

 私はこの先、ずっとそこを一人で歩いてゆくの?

 いつの間にか、隣の世界が風景に溶け込んでいた。底冷えのする、銀色の砂漠。冷たい鉱物の色をしている。私を、締め出そうとしているみたいに。

 立ち止まった私にはかまわず、犬がぐいぐいと綱を引っ張ってくる。どこへ連れて行こうというのか。どこにも行くべきところなんて無いのに。

 マユミもモトコも藤川も、人はどこに向かって生きるのだろう。どうせ、時が来れば死んでしまう。リセットボタンが押されるのに。

 どこまで行っても銀色の砂漠。

 イメージが凝り固まらない。張りぼてがはがれ落ちてゆく。

 現実世界が戻ってきた。と、正面の道から人の歩いてくる音が聞こえてきたので、私は犬を道の縁に寄せた。

 もう十時は回っている。誰かに会うとは思わなかったのでギクリとした。

 無言で相手の横を通り過ぎようとする。が、ちょうど横を擦り抜ける瞬間、私は右腕をつかまれた。

「何するのよ。この変態」

 罵声を浴びせ、相手の人間の顔を睨みつける。飼い犬は、しかしおとなしかった。

「また変態、か」

 聞き覚えのある声だった。相手が黒いコートに身を包んでいたからこそ、足音が聞こえるまで気づけなかったのか。

「あんた……」

 あの時の男だった。

「闇色猫に催促された。シトルフォーンの奴もうるさくてな」

 コートのポケットから干支の兎をかたどった白い陶器の小さなお守りを取り出して、男はそれを私に見せた。

「あんた、ホントに何なの?」

 それまで温め続けていた疑問を口に乗せる。

「訳のわからないことばかり言って。あんたの目的は何よ」

 自分と同じ種類の人間がいるなんて信じられなかった。こんな奴に騙されるものかと不審を抱いた。

「お前、人間が狭いんだなぁ」

 突然そんなことを言われて、続けようと思っていた言葉を飲み込む。

「昔、こんな奴がいた。人に裏切られても、裏切られても、それでも人が好きだった奴。なぁ、わんこ」

 男の言葉に尾を振る柴犬。知らない人間には吠え立てる犬なのに。

「少し俺に付き合え」

 つかまれた腕に力が加えられる。振りほどけない。

「大声出すわよ」

 私の脅しに、けれど男はニヤリと笑った。

「自分のイメージを壊したいのか?」

 言われて気づく。

 私が他人に助けを求める?

 冗談じゃない。

 仕方がないので、私は男の後についていった。


 珈琲メーカーの硝子の器にホツホツと黒い水滴がたまってゆく様を見るのは嫌いじゃない。ジッと見つめていると引き込まれそうになる。その深い闇に浸りたくて。

 最初出合った茶店に男は私を連れてきていた。既に営業時間の終わった店の照明は消えている。けれど、犬を外につなぐと、男は全くそれにはおかまいなしに店に入っていった。

「どうしてここの鍵、あんたが持ってるの?」

 できあがった珈琲をカップに注ぐ“二世の樹”。私に差し出し勧めてくる。けれど、受け取らない。

「俺がこの店のオーナーだから」

 肩をすくめ、男は拒まれたカップに自分で口を付けた。

「この店を実際に運営しているのは俺の友人。二階は俺の個人的なスペースになっている」

「仕組んだのね」

 珈琲の匂いがやけに胸につかえる。

「お前がここに来ていることは前々から知っていた。仕組む必要など何もない。お前はここを見つけた。それをたまたま俺も見つけただけだ」

 また意味不明な言葉。

「この店、居心地がいいだろう?」

「やめて」

 私の心に素手で触れてくる。かき乱される。男は、けれどかまいはしない。

「銀の砂漠」

 イメージが胸の中に流し込まれる。

「地平にかかる聖者の肌のような青白い月。堕ちこむような深い夜」

 壁という壁が消え去る気配がした。それとともに現れる、恐ろしいほど巨大な存在感。

「埃っぽい砂の匂い。日に焼けた風の匂い」

 体の中を一陣の風が通り抜ける。心の琴線を鳴らしながら。

「金茶の毛並みを持つ砂兎、シトルフォーン」

 賢そうな兎の姿が思い浮かんだ。月を見つめるその影は、細くて長い。蒼く澄んだ影。

 カチリ、符号が噛み合う。

 景色が一変した。

 他人の手によって世界をまたいだのは初めてのことだった。私がいつも思い描くよりもよほど鮮やかなその世界。余分なフィルターを全て取り去ったように、胸に迫ってくる。

「……シトルフォーン」

 本当に美しい兎だった。十分に育った麦の穂の色をした体毛。無駄なくついた筋肉の滑らかな曲線。形のいい二本の大きな耳。

「おや、これはこれは」

 少し離れた場所に立っていたシトルフォーンは、背後にいた私達に気が付くとゆっくりと振り向いた。

「いい月夜だな」

 男はそう言って兎に近付き、その隣に腰掛けた。

「君もここへ来ないかね?」

 シトルフォーンの問いかけに、つい頷く。

「変なところで素直なんだな、お前」

「関係ないでしょ」

 心を奪われていた。魂が、男の導きによるこの世界に寄り添おうとしている。

 けれど、だからこそ辛かった。私のイメージはこの男の足元にも及ばない。

 例えば、この砂粒の細やかさ。

 肌に触れる風の繊細な震え。

 月の周りを縁取る、空気に含まれた光の密度の高さ。

 風が砂丘を崩す音や、砂漠に生きる昆虫達が珪砂を踏み締める音。

 そんな、見落としてしまいそうな当たり前のものが自然なものとして存在している。

「何故こんなにも胸に迫るか、教えてやろうか?」

 クレーターさえもくっきりと見分けることのできる月。それをジィと見つめたまま男は言った。

「“二世の樹”、君はいつも偉そうだな。“種”に対して失礼ではないか」

「俺は俺であることに誇りを持っているからな。自分を偽ろうとは思わない」

 シトルフォーンの戒めの言葉を軽く受け流し、男は続ける。

「“樹”は世界と世界をつなぐ者。お前が思うよりも世の中にはたくさんいる。けれど、重なりあう世界の存在をわざわざ口にする者はない。だが、隣接する世界に気づいた者でさえ、時と共にその存在を忘れてゆく。この世界は付き合えば付き合うほど、美しく姿を変えるのにな」

 年数分の深みなのだろうか、この美しさは。

 そう思ったとき、“二世の樹”はニヤリと笑った。

「もちろんそれだけじゃない。俺は俺なりにこの世界を純化させてきた」

「物を創ることによって」

 男の言葉を補うようにシトルフォーンが静かに続けた。

「どういうことなの?」

 “二世の樹”が言ったこととシトルフォーンの言ったことは、全然、結び付かないように思えた。

 物を創る……何を?

「この世界に持ち込んだものを逆に現実世界へ持ち帰ることがあるだろう? その持ち帰り方が、楽器を奏するものならその音色として、話を書くものなら作品として、俺なら物を創ることで持ち帰るんだ。実際に具象化させることで美しさを磨いてゆく」

 私は手帳のことを思い出した。あの、落書きで溢れかえっている私の宝物。少しでもその絵を完成しようと思ったことが私にはなかった。

「私を創ったのは“二世の樹”の友人だった男だ。もう、現実世界にはいないがね」

 衝撃を受ける。何に対して私は動揺しているのだろう?

 私の様子を察して男は意地悪げに笑った。

「俺が死んだツレの形見を後生大事に持ち歩いているなんて思わなかったか?」

「私には関係ないことだわ」

 私は立ち上がった。悔しくて、体が干上がりそうなくらい火照っていた。

「帰る」

 この男は私が持っていない物をたくさん持っている。

 何故こんな男の後をついてきてしまったのだろう。腕を何としてでも振りほどき、家に帰ってしまえばよかった。こんな思いを味わされるくらいなら。

 イメージの世界を乱暴に剥ぎ取る。

 月をかき消す。

 風を止める。

 砂漠を元の堅い床に変化させる。

 シトルフォーンの存在を否定する。

 珈琲の香りの薄れつつある現実の空間へ。

 元の世界に戻ると、私はすぐさま出口に向かった。外につながれていた犬の引き綱を手に取り、後ろを振り向かずに走りだす。

 月だけが私を慰める訳でなく、万物に平等な金の光を振り撒いていた。


 モトコの彼氏に誘われて、私はぼんやりとしたままそれについて行った。

 人は人を裏切ることしか知らないんだろうか?

 モトコを裏切った中川。モトコと藤川を裏切ろうとしている私。罪悪感を抱けるほどモトコや藤川のことが好きだったらよかった。

「会田ってさぁ、何考えてんのかよくわかんねぇところが面白いよなぁ」

 校則ギリギリのロンゲ野郎は、アホ面をしている割に藤川よりは鋭かった。

「何考えてると思う?」

「わかんね。俺、パーだし」

 繁華街の裏道の奥には不況の煽りを食って倒産した会社のビルがいくつもあった。その一つに私達は入り込み、当時の社長室を見つけてすっかりスプリングのイカレているソファーに座った。

「お前さ、中学んときと比べるとメチャ変わったよな」

 ギクリとして私は中川を凝視した。

「中二んとき、同じクラスだった。覚えてない?」

 駄目押しを食らって歯を食いしばる。

「エミとかヤスコとかが中心になってお前のことイジメてただろ? 中三のクラス替えでそのことはうやむやになったみたいだけどよ」

 ドクン、ドクンと、脈拍の音がやけに大きく聞こえた。

「何が言いたいの?」

 日の沈んだ廃ビルの中では互いの表情が全く見えなくて、焦りだけが確実に体の中に蓄積してゆく。

「時々こうやって会って抱かせてくれれば黙ってるけど」

 あまりの馬鹿らしさに緊張感が一気に解けた。傲然と立ち上がる。

「脅迫は脅される相手が弱みを握られていないと成立しないの。私にとってはそんな昔のこと、今ではどうでもいいことなのよ」

 今まで通り、他人に無関心でいられたなら何の傷も負わずに生きていけるはずだ。誰にも頼らず、信じたりしなければ。

「じゃ、私帰るから」

 それなのに気が動転した。二年以上も前のことだ。もう、とっくに消化したはずの出来事。

 イジメが私に教えてくれたことは、人は信じる価値のない生き物だということだった。

 靴の中に水でびしょびしょのティッシュを入れられたり、机に死ねだとかの落書きを書かれたり、他にも――思い出すのも嫌なことばかりだった。どこにも居場所がなかった。精神的にまいってしまい、学校に二度と行きたくなかった。

 直談判した。けれど、それは間違いだった。主犯格のエミにイジメをやめてほしいと懇願し、彼女がやめると約束した次の日、教室に入ったら意味もなくクラスメイトに笑われた。私を指差して笑う人の群れを見て、呆然と立ちすくんだのを覚えている。その中には幼なじみのヤスコも交ざっていた。

 死にたかった。自分を壊してしまいたかった。母には相談できず、父は既に亡く。担任の権威を利用して、私は彼女等のイジメから逃れたのだった。

 他人との距離を持つようになったのはそれからのこと。深く係わって裏切られたら今度こそ私は壊れてしまう。

「待てよっ」

 当てが外れたのか、中川は憤りもあらわに私の肩を万力のような力で締め上げた。

「強がり言ってられんのかよ。お前、体売って先公に取りいったんだろ?」

 そんなことは知らない。もう、忘れた。

「そう言いたいなら言えば?」

 寒い。体が凍えそうに寒い。体の節々が軋み音をあげている。

「っ」

 振り上げられる腕を私はボウッと見ていた。

 人形になれたらいいのに。そうしたら、痛みなんか感じなくてすむのに。

 さすがにやばいと思ったのか、顔を避けて中川は私の腹を殴った。

 肩をつかまれていた分、力が私の中で解放されて一瞬息ができなかった。肺が衝撃にヒクつく。それでも痛みにしゃがみこむような真似だけはしたくなかった。

「気が済んだ?」

 笑いたかった。極上の笑みを浮かべたい。

 けれど口の端だけ歪んで、ピエロみたいな顔になってるだろうなと感じた。

「気持ち悪い女」

 吐き捨てると中川はそれ以上何もせず、ビルから出て行った。

 完全に中川の足音が消えるのを確認してから、私はその場に崩れ落ちた。胃の辺りを殴られたようで、吐き気もする。ズンズンと体中が痛い。

 何故、体のもたらす痛みは心の痛みに結び付いてしまうのだろう。切り離してしまえたらどんなに楽なことか。

 床にたまった埃を吸ってしまい、私は咳き込んだ。咳をする衝撃と、殴られたことによる痛みが相乗効果をもたらして、目尻に涙が浮かぶ。

 惨めだ。

 泣きたくなんかないのに涙が溢れ出た。いいようにされてしまった自分が不甲斐なくて。自分の不用心さが莫迦みたいで。

 知らない人はもちろん、知ってる人にも気を付けなきゃいけない。そう、誓ったはずだ。

 あの男のことを思い出す。が、私はその面影を即座に打ち消した。

 誰も信じちゃいけない。

 けれど、決意を固めようとすればするほど、流れる涙は視界を埋め尽くしていった。

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