1.砂兎
学校を早退するために私は職員室に寄った。
体がだるくて、頭が痛くて、微熱があって。私の体はとても私の意志に忠実だ。学校にいたくないと思えば、それだけで反応を返してくれる。本当に素直な体。家に帰れば、調子はすぐに治る。
保健室の先生にもらった紙に日付と保健室で休んだ時間を記入して、担任の先生に渡す。それだけで私は家に帰ることができる。
素早く手続きを終え、前籠の形がまるきり長方形の形になっている、レトロな感じの自転車に乗った。
国道の近くにあるこの高校は、お世辞にも環境がいいとは言いがたい。それでも、進学校ということもあって、毎年倍率はかなり高い。もっとも、入学して一年程も経てば、その倍率も無意味になる。校内で落ちこぼれていれば、内申点は低くなるのだから。
国道の下を通る細いトンネルを抜けると、田畑で視界が緑に塗りつぶされた。
まだ幼い、柔らかい緑だ。ただ、田畑の周りの雑草が黄色く立ち枯れているのが、印象に残った。除草剤が撒かれているのだろう。
無駄なものは切り捨てられてゆく。どんなに思い出の詰まったアルバムでさえ、他人にとってはただの紙くずでしかない。
そうやって人から見捨てられた無駄なものや無意味なものが、私にはたまらなく愛しかった。
例えば口のかけた青い水差し。
例えば音の出なくなった木枠のラジオ。
例えばへこんで錆の浮いたブリキのバケツ。
役に立ちようのないもの達。
私はそれらを眺めることがとても好きだ。それらのもの達は、私がイメージの世界に旅立つ手助けをしてくれる。
ただ、眺めているだけでいい。
けれど、あの学校で隣の世界に触れるには限られた授業時間以外、周囲があまりにも騒がしすぎた。
だから私は学校を早退する。
帰る途中にも、周りに知り合いが誰ひとりいなければ、旅立つことは容易い。この路地にも、どの路地にも、隣の世界は口を開けて待っている。
考え事をしていたら、すでに家の近くだった。慌てて元の道を引き返す。まだ、家には帰るには早すぎた。
昼の日差しが、細める瞼を割って押し入ってくる。私は家から少し離れたところにある、隣の字の神社で時間をつぶすことにした。
鳥居の外に自転車を止め、カバンを持って境内に近付いてゆく。
ずんぐりと太い木々が、日差しを受け止める天蓋となって、黒々と社を取り巻いていた。 すぐ近くにある銀杏の木を見上げてみる。と、緑の初葉の他にも、苔の生えひび割れた幹に、濃い緑のヤドリギが岩場に生える海草のように張り付いていた。
隣の世界がぴったりと背後に寄り添ってくる。私はソロソロと腕に浮かんだ鳥肌を撫でた。
すぐ近くまで来ている。
境内まで来ると、私は板張りの床に腰をかけた。風と木陰に冷やされていたその場所は、とても心地良かった。
目を閉じ、耳をすます。
静かな空間。
……葉擦れの音が聞こえる。
……これは水が滴りおちる音。
午後一時。市街地から離れたこの場所に車の通る音は皆無に等しい。
目を開け、この世界にもう一つの世界を重ねてゆく。
神社の隅にあった手水のための鉢は泉に、周りを囲む木々は見慣れぬ種類のそれへと。
「砂と埃の匂い」
ここは砂漠のオアシス。
あまりの単純さに、自分でも呆れて笑みがこぼれた。そういえば、気分はもうすっかりと良くなっている。
「世界史の時間にはメソポタミア、シュメールの神殿。鯨は林先生の無駄話」
私が隣の世界と呼ぶここは、私のイメージによって様々な変化を見せる。言わば物語のない体感シアター。
楽しいことは、この世にある物の数だけある。何からでも楽しめる。例えば地面に転がっている石ころからでさえ。
「砂鯨や遺跡を持ち込んだのは君かね」
突然の問いかけに、けれど私は別段驚きはしなかった。この世界で意志を持つのは、何も人間だけではないからだ。
次の言葉をじっと待つ。
「私は砂兎のシトルフォーンという者だ。もう一度聞くが、あの鯨を持ち込んだのは君かね?」
辺りを見回すと、小さな泉の向こうの茂みの間から、金茶色の毛並みをもつ兎が姿を現した。その背の高さは、私のヒザコゾウの辺りまでしかない。
「私は」
「知っている。“種”だ。いつ芽吹くともわからぬ“クオリアの種”の一つ」
そんなことよりも、とシトルフォーンは詰め寄った。
「どんなものをこの世界に持ち込もうがかまわんが、私の寝所を占領するのは我慢ならんのだ」
兎は濡れた鼻をひくつかせながら、なおも続けた。
「早急にあの鯨と遺跡を持ち帰ってくれ」
「わかったわ。少し待って」
頷いて、私は手に持っていたカバンの中から手帳を取り出した。カレンダーの付いた、実用的なものではない。ただ横線が引いてあるだけの黒表紙の手帳だ。
付属のシャーペンの芯を出し、スケッチを始める。
「私は君がここに来ることに反対している訳ではないのだ」
無言で手を動かす私とは逆に、兎は喋り続けた。
「ただ節度を守ってほしいのであって――」
「できた」
手帳の中にはメソポタミアの神殿と、砂浴びをする鯨が窮屈そうに並んでいる。
「ありがとう。それではこれで私は失礼するよ」
兎はそのまま去って行こうとした。
けれど、ふと何か思い出したのか、立ち止まって振り向いた。
「言付けを忘れていた。闇色猫が君を待っていると。風の渓谷でね」
それだけ告げると、兎はそそくさと駆けていった。取り残された私は、兎が姿を消した辺りの茂みをぼんやりと眺めた。
また独りだ。
意識が彷徨いだして、体中からどんどん気力が抜け出してゆく。世界が内側から巻き取られて、元の世界の輪郭がおぼろに甦ってくる。
気が付くと私は涙を流していた。
哀しいのではなく、嬉しいのではなく。弛緩した体が涙腺をもゆるめてしまっただけの、ただの液体。
掌が湿り気を帯び、握り締めた手帳の表紙に皺が寄る。大切な私の宝物。私の結晶。
けれど、価値のないもの。
捨てられるだけの、落書き。
すっかりと形を取り戻した現実に、私は絶望した。この世界は私が選んだ形をしていないから。現実は当たり前すぎて、変更しようがない。型にはめられすぎていて、息がつけない。
昔の人がイメージして作り上げたこの世界は、私の住処ではない。まるで陸に上がった魚。けれど帰るべき海も知らない。
時計を見ると、まだ二時になったばかりだった。もうしばらくここにいるために、私は手帳に視線を落とした。
「おい」
と、声をかけられたので、私は顔を上げた。
家から自転車で五分ほど離れたところにある喫茶店。調度品はセピアを基調とした、アンティークの物ばかり。壁にかけられた額縁に入れらてているのは、中世の世界地図。黄ばんだ羊皮紙の上に、パステルカラーで大地が区分けされている。
カウンターのほかにはテーブルが五組あるだけの、小さな店だった。
「今年の次の年が何年になるか、お前知ってるか?」
知らない男だった。黒いロングコートに、やはり黒色の丸いツバの付いた帽子をかぶっている。年は少なくとも二十半ばは過ぎているだろう。
「そうあからさまに不審そうな顔をするな。俺は“二世の樹”だ。お前“種”だろ?」
にんまりと笑った男の顔をまじまじと見つめる。大柄なパーツのそろった顔だった。お世辞にも美形とは言いがたいが、見れない顔でもない。高い鷲鼻が厳つい印象を与えていた。
「闇色猫が待っていたぞ? 行かなくてもいいのか?」
眉を寄せる。何なのだろう? この男は。
「シトルフォーンがお前に告げたはずだが」
その言葉に、私はいよいよ精神異常を来したのかと思った。幻聴を告げる人物を、現実の映像として作り上げてしまったのかと。
テーブルの上に乗せられた男の骨張った掌に無造作に触れてみる。
温かい。指先の皮膚は硬質化し、つるつるとしている。血管の浮いた辺りだけが妙に柔らかくて、不思議な触り心地だ。
「お気に召したか? お嬢さん」
「あんた、何なのよ」
相手が本物の生きている人間であると分かり、私はとっさに手を引いた。
“二世の樹”と名乗った男は、少し残念そうな顔をし、名残惜しそうに触られた掌をさすりながら、私のいるテーブルの空いている席に腰掛けた。
「もう名乗ったろうが。真面目そうななりをしている割に頭悪いんだな、お前。それとも聞いてなかったのか? まあ、”種”に頭の良いも悪いも関係ないが」
昼間の砂兎、シトルフォーン。
シトルフォーンが口にした言葉。
闇色猫が風の渓谷で待っている。
「何故、知っているのよ」
男は小さく肩をすくめた。
「お前の時間が止まっているからだ」
このテーブルに来る前にオーダーしていたのだろう。男に珈琲が運ばれてきた。
ふわり、鼻をくすぐる闇色の香り。
「停滞は腐敗を生む。それは漂い出し、俺のように鼻が利く人間にははっきりと分るんだよ。お前は忘れてはならなかったものを忘れてしまっているんだ」
それは何?
声には出さず、自分自身に問いかける。
私には家族もいるし、友達もいる。五体満足で、不自由なんて何もない。欠けているものなんて思いつきもしない。
「忘れてしまったのなら、それはその程度のものだったのよ」
自分のカップを干し、私は立ち上がった。
「帰るわ。あんたの存在、面白いと思った。けれどそれだけ。私にとって他人は通り過ぎてゆく景色に等しいの」
去ろうとすると男はコートのポケットをまさぐり、そこから何かを取り出した。
「これ、お前のだろう?」
自転車の鍵だった。私の。
「まだ答えを聞いていない。最初のあれだ」
面白そうに男は告げた。
「今年の次の年は時計の歯車の中よ」
男の手から鍵をスリ取ろううとする。が、男はひょいとこれを避けた。
「返してよ!」
随分久しぶりに胸がむかついた。奥歯が欠けるくらいに、口元に力がこもる。
「敵意むき出しの野良犬みたいだな」
言うが早いか男は素早く立ち上がり、私の手をつかんだ。そして、何かを確認するようにその手をさすった。
「やはりお前は“種”か」
「変態っ」
手を振り払い、そのまま男の頬を張る。自らを“二世の樹”と呼んだ男は、少し笑ったようだった。
男の手に自転車の鍵を残したまま、私は会計に向かった。特別なことなど何もなかったかのように。
男は、けれどそれ以上私に付きまといはしなかった。
高校に通うようになってから、口数が少なくなったとよく言われる。
誰も信じられないから。
理由は簡単。けれど、私は笑って答える。「そんなこと、ないよ」って。
休み時間に次の授業の準備をして、仲のいい子と他愛ない話をする。
昨日のテレビの内容、芸能人の話、部活の練習について。話を合わせられなければその時点で締め出される。いつも私は適当に話を合わせながら、今日の空のことだけを考えている。
昨日、喫茶店から歩いて家に帰り、合鍵を持って再び自転車を取りに戻った。既にあの男の姿はなく、簡単に家に帰れたのだけれど、あの男の言った言葉が頭から離れなくてクサクサしていた。
“二世の樹”に“種”。既に芽吹いたものと硬い殻に篭ったもの。
シトルフォーンの言葉。
いつ芽吹くともわからぬ“クオリアの種”。
クオリア――その言葉の意味は分らなかったが、綺麗な響きの言葉だと思った。透明な硝子のようなそれ。口にすれば舌の上で音が踊る。水晶の琴を打ち鳴らすような硬質的な音色。
「佳苗。カナエっ」
「何?」
呼びかけられたことに気づいて、私は顔を上げた。廊下側の最前列にある私の席の横に、二人の少女が立っている。
髪を茶色に染めた少女達。いわゆる女友達という奴。幽霊の逆。体はあるけど、中身のない肉の群れ。無個性すぎて、いつも彼女達の名前を私は間違える。
「藤川君と付き合ってるのかって聞いてたの」
藤川。さっぱりあっさり系のスポーツマン。短めさらさらヘアーの似合うクラスの人気者。
でも、どうでもいい。
だって、藤川はそうやって自分を演出しているだけ。話をしても全然おもしろくない相手。
「告られた」
一週間前のことだったろうか。正直言って私は全然興味がなかった。面倒臭かったから相手の申し出に頷いただけ。
私のどこがいいの? と聞いたら、可愛いからと言われた。嬉しくなかった。
「ふーん。カナ、ああいうのがいいんだ」
友人Bが笑っている。
私はしげしげとその顔を見つめた。眉が歪んでいると思ったら、それは描かれたものだった。
「うん」
嘘。大嫌い。人を表面からしか見ない男だから。
「最近?」
「そう」
嬉しそうな顔を作る。仮面をつける。心底幸せそうに。
「いいなぁー。私も彼氏欲しいっ。モト、カナ、誰か紹介してくれない?」
「マユミだって気になるの、いるんでしょ?」
髪の長い友人Aモトコは悪戯っぽく笑った。友人Bマユミもつられて笑う。
「じつは、梶原君」
ああ、女の子してる。
「マユミってこれだから」
吐き気がした。彼女達を見ていると自分が女なのだということを思い知らされる。人という以前に、私達は無意識のうちに雌なのだ。
話はそのまま続行し、授業開始のチャイムが鳴って、数Ⅱの先生が来るころになってようやく途絶えた。
起立、礼、着席が済むと、数Ⅱの時間は特に教室が静かになる。さすがは進学校。皆、お行儀がいい。
授業が始まると、私はシャーペンを構えたまま再び隣の世界にアクセスした。生徒が授業を聞いていても聞いていなくても、教師らはかまいはしないのだから。
シャーペンがノートの上をトツトツと打つ音が、時計の秒針の進む音に聞こえ始める。抑揚の無い講義の声が、遠い国の言語のように聞こえ始める。
教室の白い壁が薄茶色に汚れ、黒板が消え失せる。窓ガラスのアルミのサンが、古びた木製の枠に変わる。
周りの人達の存在は空気に溶け込み、見えなくなった。代わりに、巨大な柱時計が現れる。
―― コツコツコツコツコツ ――
いつの間にか机も消失していた。私は背もたれの高い椅子に座ったまま、目の前の時計をじっと見つめた。
時が過ぎてゆく。
また、あの男の言葉を思い出した。
お前の時間は止まっている。
思い出した途端、時計の秒針が止まった。
静けさが室内に満ちる。
何も、聞こえない。
一人きりで、たった一人きりで。
誰にも迷惑かけていないんだからいいでしょう?
皆だって他人のことなんかどうでもいいんだから。
それならいっそ一人でいい。
一人でいた方が楽だ。
まるで駄々をこねる子供。でも、そうやって自分を守らなきゃ、私が消えてしまう。
壊れることが、怖い。
脆いものがホロと崩れるその瞬間に心を奪われていながらも、自分が崩れ、壊れ、消えるなんて、耐えられなかった。
自分勝手だ。でも、なじられる程度なら、きっと私は考えを変えない。自分自身の傲慢さを私は慈しんできたから。
私は再び時計をじっと見つめた。
時計は、けれど動かない。
藤川に一緒に帰ろうと言われたので、部活が終わってから自転車置き場で待っていた。
六時。太陽は沈み、赤い光の沈殿した空は、上空に向かうに従って深い青に染められている。
私は青色が好き。特に、朝日や夕日の黄色がかった光の溶けた、青空の色が好き。
「会田、待った?」
サッカー部レギュラー、藤川トオル登場。
「少し」
「帰ろっか」
「うん」
言葉はそれだけ。表情を夕闇が彩ってくれるから、藤川は私の本心を察知できないでいる。
校門を出て、並行に自転車を走らせる。
オママゴトの始まり。
藤川はよく自分のことを話す。どんな練習をしたとか、紅白戦で勝ったとか、ミュージックグループは誰が好きだとか。でもそれはただ自分を演出するためだけの飾りに過ぎない。
私はいつも上の空で返事をする。それでも、話を聞いてもらうのが嬉しいらしく、藤川は一生懸命話してくる。自分の話だけを。
うんざりしていた。藤川に少しでも好きな所があったらよかった。けれど、何も無かった。
「明後日、どこか遊びに行かないか」
二十分ほどの帰り道。私の家に着いて別れ際、藤川が頬を赤くして言った。
「いいよ。どこに行く?」
珍しくバイトを入れてなかったので、すんなりとOKを出す。断るのも面倒臭かった。
「映画とか、カラオケとか、ゲーセンとか」
「食事とか?」
にっこり笑って、言をつなぐ。
「食事とか」
さらに顔を赤らめたらしい、藤川。暗くて表情は読み取れなかった。
「十時に迎えに行く。じゃ、な」
照れ隠しのように、そそくさと藤川は私の前から姿を消した。
「十時か」
大きなため息が漏れた。
疲れた。私が初めての彼女ってわけでもないのに、藤川は好少年を演じている。
私は家の中に入っていった。今日はもう、何も考えずに眠りたかった。
藤川と寝た。
夕食はファーストフードで、チーズバーガーを食べた後、ラブホに入った。
裸を見て、見られるのは変な感じがする。
丸みを帯びた体、四角く強ばった体。
藤川は慣れていた。首筋とか、耳朶とか、愛撫したりして。高二の癖にオヤジくさかった。性急じゃ無くて、女を愉しませることを知っていた。
でも、それだけ。
私は家に帰ると二階の窓から外に抜け出して、屋根の上に座って夜空を見ていた。
霞んだ月が出ている。火照った肌に風が心地いい。
藤川は夕方になるまでは奥手なフリをしていた。けれど映画の帰りに立ち寄った喫茶店で私が太陽が沈むのをボゥッと見ていたとき、自然にホテルに誘った。
何故、その手を払わなかったのか。どうでもよかったからだ。
体についた汚れは洗えば落ちる。私はただ、そこらへんにある道具と同じ。性欲の捌け口として扱われたに過ぎない。
だから私にとってあんな行為に意味はなかった。
事が済んでから、藤川は私が好きだと言った。
私は笑った。多分、とてもきれいに笑った。玻璃硝子のように。
シャワーを浴びてホテルを出るとき、藤川は私の腰に手を回した。気持ち悪くて、吐きそうだった。
夜空に微かに光る星を見つめる。
コトン、コトンと、遠くで電車が線路を通る音が風に乗って聞こえてくる。終電だろう。疲れきった人が詰まった。でも、それもどうでもいいことだ。
「……?」
不意に飢えを感じた。
喉が渇いている訳でも、お腹がすいている訳でもないのに。
餓えている。何かに。
家に入り、窓を閉める。
何に?
答えは出なかった。