政略結婚した硝子職人は夫を工房長と呼び、引き抜き状一通で工房を去るはずが旦那様と呼ぶ羽目になりました
「夫婦営業はいたしません。工房では工房長、屋敷でも工房長。それが一番安全です」
婚礼用の白い上着を脱ぐより先に、私は宣言した。
向かいの椅子に座るヴァフタングは、祝いの杯を白手袋の指で持ったまま動かなかった。
私たちは本日、夫婦になった。正確には、借金で炉の火まで消えかけた実家の工房と、腕のいい職人を欲しがった公爵家の工房が契約し、そのついでに男女二名が婚姻届へ署名した。
ついでを主目的に格上げしてはならない。
「夫婦営業、とは」
「人前で仲睦まじくするとか、私室で愛称を呼ぶとか、世継ぎを急かすとかです。役目以上を求められた場合、私は別の工房へ移ります」
「別の工房へ」
「はい。腕一本で食べていけますから」
腕二本あるけれど。片方だけでも、という職人らしい強気である。
「私が求めたのは、君の技術だ」
「承知しております。ですから工房長とお呼びします」
彼の手から杯が滑った。
ほんの指一本分だった。受け皿の縁へ当たり、澄んだ音を立てる。ヴァフタングは何事もなかった顔で持ち直したが、私は見た。硝子職人は手元を見る生き物だ。見逃すわけがない。
「異存は?」
「ない」
「よかったです」
実に話の早い夫である。
その夜、老番頭のムルマンが私たちの寝室を別々に整え、翌朝には二人分の食事を同じ卓へ並べ、さらに翌週の勤務表では私とヴァフタングを同じ徐冷窯の担当へ入れた。
「ムルマン。私室は別なのに、なぜ作業組だけ同じなのです」
「ご当主は工房長で、奥様は新任の吹き職人でございますので」
「完璧な事実だけで逃げ道を塞ぎましたね?」
「今月は大作がございます。徐冷窯の順番も動かせません」
ヴァフタングは勤務表から顔を上げない。
白手袋の人差し指だけが、私と彼の名が並ぶ欄を二度なぞった。
いや、そこは滑らないのか。
* * *
「回転が速い」
炉の熱を背にしたヴァフタングが言った。
「速くありません」
「昨夜、何時間眠った」
「質問が作業指導ではない」
「三時間か」
「四時間です。十分でしょう」
「十分ではない」
吹き竿の先で、蜂蜜色に熔けた硝子がわずかに膨らんだ。息を入れ、竿を回し、作業台の縁で形を整える。一定に、均等に、止めない。私はこの回転だけなら誰にも負けない。
そう思った瞬間、右の掌の火傷が革手袋の中で擦れた。
竿が半拍だけ跳ねる。
背後から伸びた手が私の手首を包み、肘の角度を下げた。ヴァフタングの胸が肩へ触れそうな距離まで来る。
「竿を押すな。受ける」
「近いです、工房長」
「硝子を見ろ」
「見ています」
「私を見ている」
見てませんけど! 視界へ勝手に入ってきた大きな男を障害物として認識しただけですけど!
反論している間も、彼の手は私の手首から離れない。回転が安定すると、何事もなかったように一歩退いた。
作業を終えた台の端に、新しい革手袋と、蓋つきの夜食籠が置かれていた。柔らかなパン、薄く切った燻製肉、まだ温かい豆の煮込み。おまけに仮眠室には新しい毛布まであるという。
「新人一人に?」
「掌を見せろ」
ヴァフタングは答えず、私の右手を取った。赤く擦れた箇所を見つけるのが早すぎる。私本人より早い。
「明日の朝番は外す」
「これくらい平気です」
「外す」
「夜食に替えの手袋に仮眠用の毛布。福利厚生が厚すぎます」
炉番と型職人が同時にこちらを見た。それから二人で顔を見合わせ、なぜか口を閉じる。
ヴァフタングの唇がわずかに開いた。
「それは——」
彼は私の掌を包んだまま、言葉だけを飲み込んだ。
なるほど。公爵家の工房は秘密保持まで徹底している。優良職場!
* * *
二度目は型入れだった。
「右へ」
「私の立ち位置はこちらです」
「今日から右だ」
「型の取っ手を引く人間が足りません」
「私が引く」
「工房長が?」
返事より先に、ヴァフタングの手が私の腰を押した。熱した硝子が型へ入る瞬間、火花が散りやすい位置から、私だけを外す。
彼は上着の袖をまくり、型の取っ手を両手で引いた。公爵閣下が煤まみれで力仕事。炉番が目を丸くし、型職人が私を見て、また二人で顔を見合わせた。
だから、その無言の会議は何?
「回す速度はそのまま。息を細く」
「はい」
「熱が落ちる。もう一度」
竿を引き抜き、再加熱し、もう一度型へ入れる。彼の手の甲へ小さな火の粉が落ちた。
「工房長!」
「止めるな」
低い声に押され、私は竿を回し続けた。型が開く。縦の稜線を持つ花器が、崩れず姿を現した。
夜の食卓では、私の利き手側へ肉料理が置かれていた。しかも全部、一口大に切ってある。
ヴァフタングは向かいに座り、私が最後の一切れを食べるまで書類へ手を伸ばさなかった。
「工房長。子ども扱いですか」
「掌を使わせないためだ」
「工房の全員に切った肉を?」
「いや」
「では、熟練度に応じた特別待遇?」
「違う」
「夜番免除、食事補助、危険作業の配置変更。福利厚生が厚すぎます」
彼は水を一口飲んだ。
「君は、それを」
「退職する日まで大切に働かせてもらいます」
グラスの水面が揺れた。
「退職」
「役目以上を求めないという約束です。期限は不明でも、永年雇用ではないでしょう?」
「そうか」
短い返事だった。
彼の皿には、切られていない肉が冷えたまま残った。
* * *
「隣領の工房主から、ツィアラ様へ届いております」
大作の最終工程を迎えた朝、ムルマンは一通の書状を作業台へ置いた。
どうして今。
どうして熔けた硝子を吹き竿の先に巻き取った、まさに今!
「後にしてください。止められません」
「承知しております」
「承知の上で置きましたね?」
「徐冷窯の順番は動かせませんので」
また完璧な事実! この老番頭、事実だけで人を炉へ追い込む技量なら私より熟練である。
ヴァフタングが書状を取り上げ、封を切った。書状を持つ白手袋の指が一度震え、紙を開く。
私は作業台へ吹き竿を載せ、左手で転がしながら息を入れた。先端の硝子がゆっくり膨らむ。今日作るのは、人の胴ほどもある大花器だ。止めれば垂れる。話が人生を左右しようが、硝子には一切関係ない。
「読んでください」
「隣領の工房で吹き職人として迎えたい。住居を用意する。工房主との婚姻を望むなら、その選択も歓迎する、と」
「ずいぶん簡潔ですね」
「返事は急がないともある」
「好条件です」
竿を回す私の手元へ、ヴァフタングの視線が落ちた。
「受けるのか」
「そのつもりです」
硝子の中心がぶれた。
「工房長、竿を押さえてください!」
彼は即座に反対側を支えた。二人で回転を戻す。右、左、右。大きくなった硝子の重みが腕へ食い込む。
「再加熱する。炉まで運べ」
「はい」
声だけは平常。私たちは職人ですので。妻が他家へ嫁ぐ相談くらい、仕事をしながらできますとも。できるか!
炉口へ竿を差し込み、先端を回す。橙色の光がヴァフタングの頬を照らした。いつも通り、何を考えているのか分からない顔。
分からないから、私は自分に都合よく分類する。
彼は新しい革手袋を用意した。
小型の鋏、やすり、挟み箸を収めた道具箱も用意した。持ち運べる、頑丈な箱だ。
来月の勤務表では、私の名の後ろが空欄になっていた。
退職準備以外に何がある。
「旅用の道具箱までいただきました。勤務表も空けてあります。工房長は、私が辞める支度をしてくださったのでしょう?」
「何の話だ」
「求婚を受ければ、こちらへ迷惑をかけずに移れます。実家の借金も婚姻時に整理していただきました。もう私を置く義理はありません」
「義理」
回していた彼の指が止まりかけた。
「止めないで!」
私は竿へ手を伸ばし、彼の手の上から押した。大花器の底がぐらりと傾く。ヴァフタングが奥歯を噛み、回転を再開した。
「型へ入れる。全員、位置へ!」
炉番が扉を開け、型職人たちが左右に分かれる。私とヴァフタングは竿を抱え、せーので先端を型の中心へ下ろした。
「閉じる!」
型が合わさる。私は息を吹き込み、彼は竿を回す。
「君は、私の妻だ」
「契約上は」
「契約上」
「仕事のための結婚です。最初に確認しました」
「役目以上を求めたら、君は去る」
「はい」
「だから求めなかった」
型の隙間から熱が噴く。額から落ちた汗が顎を伝った。私は息を止めず、竿も止めない。
「では、何も問題はありません。私は自分の意思で別工房へ移ります」
「婚姻もか」
「一通で両方選べます。合理的です」
「合理的」
ヴァフタングの声が低くなった。
「工房長、回転が遅いです」
「君は、会ったこともない男と結婚するのか」
「工房は見学しました。仕事ぶりも知っています」
「男は」
「礼節ある方だと聞いています」
「聞いただけか」
「工房長だって、私と結婚する前は似たようなものでしょう」
竿が一回、速く回った。
「速度!」
「すまない」
型職人たちがこちらを見た。今度は顔を見合わせない。全員、私たちの口と竿を交互に見ている。見世物ではない。大作の最終工程である。ついでに夫婦の最終工程らしいけれど、そちらは工程表にない!
「型を開く!」
左右へ開いた型から、まだ赤い大花器が現れた。稜線は揃っている。けれど口がわずかに歪んでいた。
「口を整える。台へ」
ヴァフタングと歩調を合わせ、作業台へ運ぶ。私は竿を転がし、彼は濡らした木べらを当てた。
「なぜ私に相談しなかった」
「今しています」
「受けると決めた後だ」
「工房長が用意した退職準備を無駄にしないためです」
「用意していない」
「手袋」
「火傷を増やさないためだ」
「道具箱」
「屋敷と工房を往復するとき、君が布袋へ鋏を突っ込むからだ」
「勤務表の空欄」
「夜番を外した。三日眠れていないだろう」
「では、なぜ一言も説明しないんですか!」
「君が親切を理由に残ることを選ばないようにだ!」
木べらが止まった。
私が回している。ヴァフタングは手を動かしていない。
「工房長、木べら」
彼は動かなかった。
「木べらを当ててください。口が広がります」
「君はいつもそうだ」
「作業中ですから!」
「私が何をしても、工房の待遇へ戻す。食事も、手袋も、勤務も」
「工房長の義務でしょう」
「違う」
その二文字が、炉の音を割った。
彼の無表情が、初めて崩れた。
眉間へ深く線が入り、唇の端が歪んでいる。怒っているのに、私ではなく自分を噛み潰しているような顔だった。
「工房長?」
「君が私を望まないから、そう呼ぶのだと思っていた」
「は?」
「夫と呼べば期待させる。屋敷で近づけば逃げ道を塞ぐ。婚姻で実家を救った上に、君の仕事まで奪えば、君は断れない」
「待ってください」
「だから工房では技術だけを見るつもりだった」
「私の夜食を最後まで見張るのが?」
「食べ終える前に立つ」
「朝番を外すのが?」
「眠っていない」
「掌ばかり見るのが?」
「新しい傷が増える」
「肉を切るのが?」
「右手を曲げられなかっただろう!」
炉番が口を半分開けた。型職人の一人が天井を仰いだ。今さら何を知った顔ですか。私だけですか。私だけが優良な福利厚生だと思っていたんですか!
「吹き竿を回してください」
「ツィアラ」
「硝子が落ちます!」
二人で竿をつかむ。回す。挟み箸で口を整える。彼の手が震えていた。
引き抜き状を持っていたときと同じ震えだった。
あれは怒りではなかったのか。
「私は、君の腕が欲しかった」
「知っています」
「君の作る硝子を、この工房で見たかった」
「それも」
「食べて、眠って、火傷を治して、それでもここで作りたいと君が選ぶまで待つつもりだった」
白手袋の指が竿から離れた。
ヴァフタングは右手の手袋を外し、左も外した。煤のついた作業台へ、ためらいなく白い革が落ちる。
むき出しになった手が、私の右手へ重なった。
掌の擦れた場所を避け、指の根元だけを包む。こんなときまで傷を避ける。腹が立つほど正確だった。
「工房主の義務ではない」
彼の親指が、私の指の脇で止まった。
「妻に、安全に暮らしてほしかった」
息が入らない。
花器の口がしぼみかけ、私は慌てて吹き込んだ。頬が熱い。炉のせいだ。目の縁まで熱いのも、たぶん炉。そういうことにしておかないと作業が続かない。
「では、道具箱も」
「君に使ってほしかった」
「ここで?」
「ここで」
「空欄も」
「眠った後、好きな工程を選ばせるつもりだった」
「私を追い出すためでは」
「一度も考えていない」
手を重ねられたまま、私は竿を回した。
視界が滲み、橙色の硝子が二重になる。頬へ一筋落ちたものが、顎から作業台へ落ちた。
「私だって」
声が炉の奥へ吸われる。
「去る支度をしていたわけではありません」
ヴァフタングの指へ力が入った。
「新しい手袋が馴染んだら、もっと大きいものを作れるとか。夜番を外された日は、翌朝あなたと同じ組に入れるとか。食卓の肉が切ってあると、最後まで座っていられるとか」
数えていた。
出ていくために受け取ったものではない。ここへ残っていい理由にするため、毎日ひとつずつ数えていた。
けれど、彼が私を手放す準備だと思えば、その数は全部、持っていけない。
「求婚状を受ければ、工房長は困らないと思ったんです」
「困る」
「職人は補充できます」
「できない」
「同じ速さで吹き竿を回せる者なら」
「君でなければ困る!」
大声が工房中へ響いた。
ヴァフタング本人が一番驚いた顔をした。炉番は肩を跳ねさせ、型職人たちは揃って目を見開く。
私は頬を拭こうとして、手が動かないことに気づいた。
握られている。
しっかりと。
ヴァフタングは私の手だけを見ている。大花器も、竿も、もう見ていない。
「君が他の男の工房へ行くのは嫌だ」
回転が遅くなる。
「その男の妻になるのは、もっと嫌だ」
また遅くなる。
「ここにいてほしい。職人としても、妻としても。今度は私の都合ではなく、君に選んでほしい」
止まりかける。
「返事は急がせない。だが、私は——」
「旦那様、手を重ねる場所が違います。そこを回しても、硝子は一寸も丸くなりません!」
工房中の顔が、一斉にこちらを向いた。
「そこ、回すのは竿です」
炉番と型職人たちの声が、見事に揃った。
ヴァフタングが瞬きをした。
私もした。
それから彼は、私の手を握ったまま吹き出した。
初めて聞く笑い声だった。低く、短く、途中から抑えられなくなったように肩まで揺れる。
そんな顔ができるなら、最初からしてほしい。
私の喉からも変な音が漏れた。笑うと頬に残った雫が邪魔で、手を離して拭いたら、今度はヴァフタングが慌てて吹き竿をつかんだ。
「速いです!」
「君が笑わせるからだ」
「私のせいにしないでください!」
「型職人、口を見てくれ!」
「もう見ています! 夫婦より先に硝子を完成させてください!」
大花器は少しだけ口が広くなった。
けれど、二人で回し、二人で竿から切り離し、徐冷窯へ運んだ。
扉を閉める直前、ヴァフタングが私を見た。
私は返事をしなかった。
代わりに、彼と同時に窯の扉を押した。
* * *
引き抜き状への返事は、ムルマンへ預けた。
何と書いたかは、ヴァフタングにも見せていない。彼は尋ねたが、私は「返事は急がせないと言いましたよね」と返した。自分で言った言葉には責任を持っていただこう。工房長改め何か別の役職の方には、待機業務も必要である。
数日後、私の掌から赤みが消えた。
夜番の前には一時間、仮眠を取るようになった。目を覚ますと、枕元に水差しがある。誰が置いたかは聞かない。聞けば、置いた本人が無表情で「工房の安全管理だ」と言い張るに決まっている。
夜食は二人分になった。
ヴァフタングは私が食べ終えるまで席を立たず、自分の皿も空にする。温かい豆の煮込みを温かいうちに食べきれる。これが案外、ものすごく贅沢だった。
作業場の入口には、私の靴と彼の靴が並ぶ。
旅用だと思っていた道具箱は、私の作業台の下へ収まった。
「今日は吹き作業を二時間までにする」
「掌は治りました」
「治った直後だ」
「これは何手当ですか」
「夫としての希望だ」
「制度名でお願いします」
「夫希望手当」
「雑!」
翌日は、工房から屋敷まで彼が私の道具箱を持った。
「これは?」
「夫として持ちたい」
「運搬補助手当」
「それでいい」
その翌日は、仮眠室の毛布が一枚増えた。
「これは?」
「一緒に休むためだ」
「仮眠同行手当」
「隣へ座る」
「横になるのは禁止です」
「では座る」
本当に椅子を運んできた。公爵家の当主が、眠っている妻の横で一時間、勤務表を読んでいたらしい。目覚めたとき、紙が上下逆だったけれど、そこには触れないでおいた。人には体面というものがある。白手袋と一緒に炉前へ落とした気もするが、拾う自由までは奪うまい。
完成した大花器を徐冷窯から出した日、職人たちは広がった口を見て笑った。
「予定より愛想のいい形になりましたね」
「誰のせいだ」
「手を離さなかった方です」
「離したくなかった」
「作業中は離してください」
「作業外なら?」
「勤務規則を確認します」
「私が工房長だ」
「職権乱用!」
ヴァフタングはまた笑った。
あの日から、よく笑う。私の前だけだと炉番たちは言うが、未確認情報なので採用しない。採用したら、こちらが困る。
食卓には今日も肉料理が置かれた。右手側で、きれいに切られている。
「もう自分で切れます」
「知っている」
「では、これは何です?」
「それは福利厚生ではない」
「では?」
ヴァフタングが私の皿へ最後の一切れを置く。
「夫婦手当だ」
「そんな項目、採用時には聞いておりませんけれど」
帳面を抱えたムルマンが、私たちの間へ翌月の勤務表を置いた。二人の名は、また同じ徐冷窯の欄に並んでいる。
「訂正いたします。夫婦手当は福利厚生に含まれません」




