第三夢十夜 南の突端にて(第二十九夜)
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私は北にばかり憧れていて夢で南に行った事が無い。夢ではなく現実にも仕事の出張以外では殆ど皆無に等しい。しかしこの夢は不思議な事に舞台が南国だった。
何処から汽車に乗ったのか判らない。けれども私はもう随分長く乗っている気がしていた。座席に座る私には疲労感があった。それも身体の特定の部位を酷使した結果の、例えば筋肉痛であるとか骨折などというものに拠るのではない、もっと身体全体、腹の底に感じるエネルギーがもう残り少ないといったそんな感覚の疲弊だった。
汽車が何処に向かっているのかも判らなかった。何にせよ最早私は私を運ぶ汽車に自分を委ねる事しか出来なかった。そしてそれで結構安んじた心地で居た。他にどうとも仕様が無い、これは或る意味人を落ち着かせてくれる。後悔が生まれる事が無いからだ。他にどうしようも無いからだ。
私は若者だった。窓に映る私の顔は長い黒髪の青年だった。しかし説明出来ない事ながら私には永く生きてきた記憶があった。そう十数年どころではない、もう七八十年程も生きて経験してきた記憶が。だが不思議な事に、永く生きてきた記憶と実感とは間違い無くあるのに何の仕事職業をして働いてきたのかが思い出せなかった。
「私は技術者だったのだろうか、それとも事務職だったのか。いや商売人だったのかも……」
私が記憶していたのは、何処其処に行ったとか、誰が私の家族であったのかとか、そして私が一生何に憧れて生きてきたのかという事、それらを私に示してくれる事実だけだった。その種の記憶だけが果てしなく長く私の中に続いていたのである。棚引く果てが霞む程に、遠く遠く。
「こんなに長い一生を、本当に私は生きてくる事が出来たのか。信じられない。まだ私が若い頃、汽車に乗っていて自分のこれからの未来を恐ろしいと思った事があった。自分の如き者が本当にこの世を生きていく事が出来るのかと。しかし……、本当に……。現在の私にこの記憶あるという事は、真実に私はそれらを経て今この時まで生きてきたのか。そんな事は……、到底信じられない」
私はそんな風に心に感じていた。私は不図自分自身の手の甲に目が留まった。肌に艶と張りのある若々しい青年のそれだった。次第に私は何が何やら判らなくなっていった。けれども自分の人生の大半を既に終えた事に心の奥のどこかで安堵していた様に思う。
「ちゃんと年齢を取る事とただ老いる事、この二つは違う。判然と違う」
何故か私の中にそんな言葉が浮かんだ。
列車は不思議な場所を走り始めた。長い切通しを抜けるといきなり眼前に広い平地が広がっていた。それは見事な光景だった。遠くに海が見える。そしてまるで山地の隧道を抜けた後の様に地平と私の乗る列車との間には高さがあった。その高さを高架の線で走っているのだが不思議な事に高度が下がらない。前方にも側方にも次の山が見えない。なのに列車は高い高度を維持したままずっと高架の鉄道橋の上を進んでいる。これは一体如何なる事か。私の頭では説明がつかなかった。
加えて地面の所々に生えている樹々が私には馴染の無い種類のものだった。丈の高低はあるがそれらは何となく南国に生育するものの様に思えた。椰子の樹らしいのも見える。私の故郷は温暖な地域だが南国ではない。また私の人生にそんな場所で過ごした時期も無い。此処は一体何処なのか。
だが何処かで、何処かでこの光景を見た事がある。いつの事だったか。若い頃かそれとも最近か。どうしても思い出せない。若しかしたら夢の中で見たのかも知れない。
遠くまで見晴らしの利くその広々した平地の上を相当の高度の単線高架で走る私の列車は、そのうちにどうしても私が目にしなければならないものを私の視界に運んできた。私の乗って来た島の西側を走る路線から島の東側の線路が見えてきたのである。その途端、私の中に異様な覚醒が生まれた。
「そうだ。私は北の果てからこの列車に乗ったのだ。それは……、そう、遠い昔だ。私がまだ青年の頃、私は其処から汽車に乗った。そして何十年もかけてやっと此処までやって来た。けれど、何か、何かもう一つ大事な事を……」
その時島の東側を通る線路上に列車が見えた。僅かに、真実に僅かに、それは私の目に映った。私は息を呑んだ。
「あれは……」
東側を走る列車は此方とほぼ同じ速度で走っていた。それは実に悠然としていた。何にも追い立てられず焦らず、ただ自分の辿るべき道程を走り抜けている様に見えた。その光景は私に大切な事を思い出させた。
「私は自分が生きている間、ずっと何かに見守られている様な気がしていた。何かがずっと私の隣に居てくれる気がしていた。けれどもそれは決して私から見えず、私に話し掛けてくれる事も無かった。だから私は永い間に自分のその気持ちを信じられなくなったのだ。それは私が心に創り出した幻影に過ぎない、私の心の弱さが映し出した幽霊なのだとそんな風に思う様になった。だが、あれは……、あの列車は……」
いつしか私の乗る列車の高架橋は地表に接し、二本の列車は全く同じ速度で並走し始めた。島の終端部が近くなり、私の乗る列車と島の東側を走ってきた列車は相並んで同時刻に終着駅に着いた。其処、その終着駅には何も無かった。多分其処にあったものとは私が私の人生を最後まで諦めずに走り通したという事実だけだったのだ。いや、それでも幸運なのだ。此処にまで辿り着けない人間が多く居るのだから。
私は汽車を降りプラットフォームを先端まで歩いてみた。すると驚くべき事に、両方の列車の走ってきた線路上にある車止めは駅舎を抜けた先、最早海浜の砂浜の中にあった。其処までも線路を延ばしていたのか。私はそのまま線路敷に飛び降りて錆びた軌条を辿った。直ぐ近くに椰子の樹々が立ち並び穏やかで暖かな風に大きな葉を揺らせている中、私は砂の上を歩いた。
島の南の果ての砂浜の中に立つ、潮風と海水に洗われてぼろぼろになった二線分の車止め。その二つの線路は最後まで交差する事無く終わっていた。
「いや、矢張私の気持ちは幻だったのかも知れない。結局私達は一つになれなかったのであるから」
けれど私は直ぐに或る驚嘆すべき事実を見出した。確かに砂浜に二線分の車止めは立っている。しかしよく見るとその先に白砂に埋もれながら錆びた線路が見え隠れしている。それも二線分両方。私は砂浜の上を駆け出した。言葉で表現する事が出来ぬ程私は興奮していた。そして最早波打際まで間近という所で二本の線路は合流していた。すなわち二線は一つとなっていたのである。そして一つになると同時に、線路は海水にまともに洗われながら本当に其処で途切れていた。
「そうか。此処が本当の終着駅なのだ。此処が私の人生の、真実の終着駅……」
何故か私はそんな事を思った。そしてそう思った途端、私の列車に並走して来たもう一つの列車の意味が分かった気がした。
並走して来た列車は今だけ私の隣に居たのではない。ずっと前から、私が生まれた時からずっと私と同じ様に走ってきたのだ。私からは見えない遥かな遠くを走り続けていた。私からはそれが見えず、そして私が気付かなかっただけで。そして最後になって、本当の最後になって、私の隣に姿を現した。もう姿を見せてもいいぞと権威ある何者かに告げられた様に。或いは自分で堅く守って来た掟が満了したかの様に。
私の感覚が私に伝えたもの、すなわち恒に私に寄り添って私と一緒に私の人生を生きてくれるものがあるという感触、それは嘘ではなかった。私の心に意味も無く浮かんだ妄念ではなかった。それは確かにあったのだ。それを私はいつしか忘れていた、否、信じる事が出来なかったのだ。
「心底から信じる、信じ抜くという事は、何と難しい事か。そしてそれが出来なかった私には、今何が残されているのか」
その時私の心に言葉が浮かんだ。
「いや、君を此処にまで導く事が私の願いだったのだ。君は一生の間、時々私の事を感じ想ってくれたではないか。君が苦しんでいる時、私の事を思い出してくれたな? そしてたった今も二つの線が重ならぬ車止めを見たのに、その先にまだ砂に埋もれた線路が続いているのを見付けたな? それは心にそれを激しく求めていなければ絶対に見付ける事の出来ないものだ。君は私を求めてくれ、それを見出したではないか。それは君が私を信じてくれていたという事以外の何だ?」
私はその言葉の途中からもう泣いていた。
「君は今、確かにこの場所に居る。そうであるなら、私の願いは既に果たされた。此処までの、何十年もかけた真実に長い旅、本当に御苦労様。君はもう休んでもいいのだ。恐ろしい事もつらい事も沢山あっただろう。苦しんだに違いない。でももうそれらは終わった。安心すればいい」
やっぱり私は愚かだった。私が思っていた通りに。けれども私と一緒に生きてくれたその何者かは深く、底知れず深く優しかった。私は並走してきた列車に向かって言った。
「ずっと私と一緒に居てくれて、本当に有難う。一緒に生きてくれた君が居たから、私は此処に辿り着く事が出来たのだ。有難う」
一緒に居るというのは見える見えないに関係が無い。声を出して話し掛けてくれる、手を握ってくれる、肩を抱いてくれる、そういう事の何れにも拠らない。
ただ信じる事、そこにだけ、あるのだ。
此処で目が覚めた。
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