表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

建安二十二年冬魏王国政庁内深夜の鴨の炙りと粟飯

魏文帝曹丕は孤独なのではない、孤高なのだ。

孤高にただ食事を文学を愛する男、それが曹丕だ。

建安二十二年、冬。鄴、魏王国政庁の一隅。

副丞相・曹丕の執務室を支配しているのは、静寂ではなく、微細な「音」の集積だった。

竹簡が重なり合う乾いた音、筆先が木簡をこする音、時には竹簡を束ねた策の山が崩れる音、そして、彼自身の肺から漏れ出る、細い溜息。


「……五官中郎将、魏王太子、副丞相。肩書ばかり増えるが、その実手元に残るのは風雅とは程遠い文字の列ばかりだ」


机の上には、もはや美学の欠片もない報告書が地層を成している。

『青州兵の下級将校による軍糧横領の疑い』

『青州兵の再編に伴う居住区の境界争い』

『官渡以来の戦没者遺族への弔慰金支給、その三割の遅延理由』


一つひとつは塵のような些細な事務連絡だ。しかし、それが万単位で積み重なれば、人の精神を圧殺する不動の山となる。曹丕は、副丞相としての完璧な仮面を維持するため、それらすべてを精査し、最適解を下さねばならない。父・曹操の「才ある者を登用する」という方針の裏で、その才を管理し、実務の歯車を回し続けるのは、他ならぬ曹丕の役目だった。


「父が相も変わらず、劉備ならともかく孫権などとかかずり合っているから私がこんなことばかりせねばならんのだ。王たるもの、徳で帰服させるか、戦をするならば下の者に任せるべきであるのに」


指先は墨にまみれ、首筋は鉄板のように凝り固まっている。


「父は戦が好き過ぎるのだ。諡はきっと武にしてやる。何が周の文王だ」


顔を上げると、以前、楊脩から贈られた王髦の剣が目に入った。間違いなく名剣である。試してみて驚嘆したものだ。しかし、くれた剣の素晴らしさと裏腹に、楊脩の自分への態度はどうだ。


不愉快だ。文字も曹丕の不愉快に素直に応じてその姿を歪めた。曹丕も顔を歪める。書き損じではない。意味は通じる。それでも、小刀を取ってその文字を削り取った。楊脩の態度は冷淡で不愉快極まりない。だが、彼が連ねる言葉は、たまらなく美しい。この矛盾が、曹丕をさらに苛立たせた。


「私は、こんな味のしない文字ばかりではなく、詩を書きたいのだ。この世の無常を、生命の短さを、一篇の文に凝縮したいのだ……。だが、現実はこの、まとまりのない、竹簡の束という無常の中にしかないのか」


眼精疲労で視界がかすむ。かつて阮瑀・王粲と語り合った、あの華やかで高潔な議論の時間は、いまや遠い夢のようだ。二人とも、もう亡い。彼の中の感性が、事務作業という名のヤスリで、じりじりと削り取られていく。


夜も深さを増した頃、一人の老僕が静かに膳を運び込み、一礼して去った。

曹丕は、重い頭を支えながら、ようやく箸を取った。

蒸したての粟飯に、季節の野菜を刻んで炒めたもの。そして、主役である「鴨の塩漬けを炙ったもの」が、青磁の皿に端正に盛られている。


曹丕は箸で鴨の身を小さく切り分けた。香ばしい脂の香りが、鼻腔をくすぐる。一口、口に運ぶ。


――ああ。


皮目はぱりりと音を立て、内側から溢れ出す脂が、熱を帯びた粟の甘みと混ざり合う。塩気は控えめだが、鴨の野性味を閉じ込めるには十分だ。咀嚼するたびに、冬の寒さに硬直していた首筋の力が、ゆっくりと解けていくのを感じる。


荒廃していた彼の内面世界に、一筋の清冽な風が吹き抜けた。


「この脂ののり……これこそが『詩経』の周南に謳われる、豊穣の祈りの滋味だ」


彼は独りごちながら、目を細めた。

「噛み締めるたびに、鴨の野性味が喉の奥へと滑り込んでくる。これは単なる肉ではない。厳しい北方の冬を越えるための生命の濃縮だ。かつて管仲が斉を富ませるために塩を重んじた如く、この塩漬けの加減には、素材を千古に留めるための叡智が詰まっている」


彼は二口目を運び、その複雑な風味を咀嚼する。


「炙りの火入れも絶妙だ。強すぎれば焦げが雑味となり、弱すぎれば獣の血生臭さが立つ。これは古の哲人が説いた中庸の精神そのもの。過不足なく、調和を保つことの難しさを、この青磁の皿の上で教えられているようだ」


事務作業で乾ききっていた彼の感性が、食事という媒体を通じて、急速に瑞々しさを取り戻し始める。


「見てくれ、この粟飯の粒立ちを。一粒一粒が独立していながら、全体として一つの膳を構成している。これこそが、我々が目指すべき国の秩序ある美ではないか。個人が身分ごとに正しく配置され、それぞれの役目を全うすることで、この国という膳が完成するのだ」


彼は最後の一切れを、愛おしそうに眺めた。

「『道は一にあらず』というが、この料理人もまた、素材と火を対話させるという『道』を究めている。努力だけでは到達し得ない、天性の直感がここにある」


完食した曹丕は、手拭いで口元を拭った。

先ほどまで彼を苛んでいた「事務の泥」は、鴨の脂とともに喉の奥へ洗い流されていた。政務の重圧も、父・曹操の巨大な影も、今は遠い。この一皿が、彼を「五官中郎将、魏王太子、副丞相」という鎖から解き放ち、ただの食を愛する男に戻してくれる。

曹丕はしばし瞑目し、力強く再び目を開いた。


「……これなら、まだ書ける。事務報告書の余白にさえ、私は後世に残すべき正当なる裁きを刻める気がする」


彼は再び筆を執った。

墨の匂いが、今度は不快な仕事の象徴ではなく、新しい秩序を生むための香りに感じられた。


「よし。軍糧の横領の件、まずはこの確固たる論理で、峻厳なる断を下してやろう」


夜明近くまで、副丞相の部屋からは、策を開閉する音が響き続けた。その背中は、もはや庶務に疲弊した官僚ではなく、食によって魂を癒やし、統治の哲学を再構築した、若き指導者のそれであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ