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『手取り二十二万の男が異世界で初めて店を休んだ日、街を一人で歩いた』 ~先生、聴こえますか~ ep-20

掲載日:2026/06/06

数ある作品の中から見つけてくださりありがとうございます!

本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです。

 暖簾を掛けなかった。


 この店を開けてから、初めてだった。

 揚太郎は店の前に立って、たたんだままの暖簾を手に持っていた。

 特別な理由はない。

 今日は休もうと、朝起きた瞬間に思っただけだ。


 リーネに言ったら「えっ!?」と言った。

 アル爺に言ったら「そうか」と言った。

 ハンスに言ったら「わかりました」と言って、孤児院に帰った。


 三人がいなくなった厨房は、静かだった。

 揚太郎は暖簾を棚に戻して、外套を羽織った。

 行くあてはない。

 ただ、歩く。


 ◇


 市場を抜けた。

 朝の市場は賑やかだ。

 野菜を売る声、魚の値段を叫ぶ声、石畳を転がる荷車の音。

 揚太郎はその中を歩きながら、一つのことに気づいた。

 市場の端に、新しい看板が出ている。

「本日の特売:大根、人参、牛蒡」

 大根の値段を見た。

 アル爺がいつも仕入れる値段より、少し安い。

(……アル爺が来たら教えてやろう)

 そう思って、止まった。

 今日は休みだ。

 揚太郎は看板から目を離して、歩き続けた。


 ◇


 王都の北区に入った。

 ここは以前、シルヴィアが不正経費を摘発した貴族の屋敷が並ぶ一帯だ。

 今は少し様子が違う。

 屋敷の一つが、公開されている。

 扉の前に小さな札が掛かっていた。

「王都財務局、市民相談窓口。毎週月曜開設」

 揚太郎はその札を見た。

 筆跡が、几帳面だ。

(……シルヴィアが作ったのか)

 直接聞いたわけではない。

 だが、この几帳面さはあの女以外にない。

 揚太郎は歩き続けた。


 ◇


 王都の東区に入った。

 ここは軍の施設が並ぶ一帯だ。

 訓練場の前を通りかかると、見覚えのある背中があった。

 カトリーヌだった。

 若い騎士たちに何かを教えている。

 声が聞こえた。

「剣を持つ前に、足元を見ろ。どこに立っているかわからない人間は、どこにも進めない」

 揚太郎は立ち止まらなかった。

 ただ、横を通り過ぎながら思った。

 あの雨の夜、泥水が顔に跳ね返る石畳の上で、銀貨三枚を持って来た女が、今は若い騎士に足元を教えている。

 悪くない。


 ◇


 王都の中心部を抜けた。

 大聖堂の前を通りかかると、境内から子供たちの声がした。

 孤児院の子供たちだ。

 シスター・マルガレーテが何かを教えていて、子供たちが声を揃えて繰り返している。

 その中に、ハンスがいた。

 ハンスは子供たちの中で一番背が高い。

 さっきまで店で皿を洗っていた子が、今は隣の子供の肩を叩いて何かを教えている。

 揚太郎は境内を横目に見ながら、通り過ぎた。


 ◇


 王都の西区に入った。

 ここは商館が並ぶ一帯だ。

 グスタフの商会の支店が、新しくできていた。

 看板に小さく書いてある。

「緊急食料融通ネットワーク、常設窓口」

 先週の飢饉対応で作ったルートを、常設にしたらしい。

 揚太郎は看板を一瞥した。

 金貨千枚を断られた男が、銀貨三枚で来るようになって、今は国の食料ネットワークを作っている。

 人間は変わる。

 変わらないように見えて、変わっている。


 ◇


 南区の路地裏に入った。

 見覚えのある路地だ。

 当たり前だ。

 毎日ここを歩いている。

 だが今日は、客として歩いていない。

 揚太郎は路地の入口に立って、奥を見た。

 自分の店の暖簾が、今日は掛かっていない。

 暖簾のない入口は、少し間抜けだと思った。

 それでも路地は路地だ。

 石畳の継ぎ目に苔が生えている。頭上では洗濯物が風に揺れている。どこかの窓から子供の声がする。

 この路地裏に来た日のことを、思い出した。

 パン粉を握りしめたまま、石畳の路地に立っていた。

「あ゛ー……どこだここ……」

 間抜けな第一声だった。

 あれから、どのくらい経ったのだろう。

 数えていない。

 数える必要がなかった。


 ◇


 揚太郎は路地の石畳に腰を下ろした。

 壁に背中をつけて、空を見た。

 日本の空とは少し違う青だ。

 最初は気になったが、今はもう慣れた。

 目を閉じた。

 日本の記憶が、静かに浮かんでくる。

 スーパーの蛍光灯。半額シールの貼られたロース肉。隣の棚の半額パン粉。

 満員電車の雑踏。上司に詰められた会議室。月末の営業報告書。

 そして、千円のとんかつ定食。

 あの味が正解だった。

 あの値段で、あの幸せが手に入った。

(先生)

 揚太郎は目を閉じたまま、心の中で呼びかけた。

 北里栄三郎先生。千円札の顔。

(俺は今、異世界の路地裏に座っています)

(今日は初めて、店を休みました)

(特別な理由はないです。ただ、休もうと思いました)

(先生が泣いていた理由が、最近わかった気がします)

(二千八百円の前で敗北した千円じゃなくて、千円で幸せが手に入ることへの悔しさだったんじゃないかと)

(俺もずっと、それが悔しかった)

(だからこの世界で、銀貨三枚にしました)

(銀貨三枚で、カトリーヌが立ち上がりました)

(銀貨三枚で、シルヴィアが手帳を閉じました)

(銀貨三枚で、エルザが人間になりました)

(銀貨三枚で、ハンスが泣きました)

(銀貨三枚で、アル爺が蒸籠を磨くようになりました)

(銀貨三枚が、国を救っていました)

(誰も大げさに言いませんでしたけど)

(銀貨三枚で、リーネが味噌を溶くようになりました)

(袋がなくても、ここにいられると気づいた日の顔を、俺は覚えています)


 風が吹いた。

 路地裏の洗濯物が、一斉に揺れた。

 揚太郎は目を開けた。

 空が、夕暮れに変わり始めていた。

 琥珀色の夕暮れ。

 日本より少し濃い色だが、今はもう悪くないと思っている。

 立ち上がった。

 外套の埃を払った。

 店に向かった。

 暖簾を棚から出した。

 掛けた。

 明日からまた、ここから始まる。

 鍋に水を入れた。

 火をつけた。

 油を温め始めた。

 厨房に、静かな熱が満ちてくる。

 揚太郎は窓の外を見た。

 路地裏の夕暮れが、石畳をオレンジに染めている。

 手の中に、今日のとんかつはない。

 でも明日の分がある。

(先生、聴こえますか)


 ジュワァァァ……。

 油が、温まり始めた。


(完)


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