『手取り二十二万の男が異世界で初めて店を休んだ日、街を一人で歩いた』 ~先生、聴こえますか~ ep-20
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本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです。
暖簾を掛けなかった。
この店を開けてから、初めてだった。
揚太郎は店の前に立って、たたんだままの暖簾を手に持っていた。
特別な理由はない。
今日は休もうと、朝起きた瞬間に思っただけだ。
リーネに言ったら「えっ!?」と言った。
アル爺に言ったら「そうか」と言った。
ハンスに言ったら「わかりました」と言って、孤児院に帰った。
三人がいなくなった厨房は、静かだった。
揚太郎は暖簾を棚に戻して、外套を羽織った。
行くあてはない。
ただ、歩く。
◇
市場を抜けた。
朝の市場は賑やかだ。
野菜を売る声、魚の値段を叫ぶ声、石畳を転がる荷車の音。
揚太郎はその中を歩きながら、一つのことに気づいた。
市場の端に、新しい看板が出ている。
「本日の特売:大根、人参、牛蒡」
大根の値段を見た。
アル爺がいつも仕入れる値段より、少し安い。
(……アル爺が来たら教えてやろう)
そう思って、止まった。
今日は休みだ。
揚太郎は看板から目を離して、歩き続けた。
◇
王都の北区に入った。
ここは以前、シルヴィアが不正経費を摘発した貴族の屋敷が並ぶ一帯だ。
今は少し様子が違う。
屋敷の一つが、公開されている。
扉の前に小さな札が掛かっていた。
「王都財務局、市民相談窓口。毎週月曜開設」
揚太郎はその札を見た。
筆跡が、几帳面だ。
(……シルヴィアが作ったのか)
直接聞いたわけではない。
だが、この几帳面さはあの女以外にない。
揚太郎は歩き続けた。
◇
王都の東区に入った。
ここは軍の施設が並ぶ一帯だ。
訓練場の前を通りかかると、見覚えのある背中があった。
カトリーヌだった。
若い騎士たちに何かを教えている。
声が聞こえた。
「剣を持つ前に、足元を見ろ。どこに立っているかわからない人間は、どこにも進めない」
揚太郎は立ち止まらなかった。
ただ、横を通り過ぎながら思った。
あの雨の夜、泥水が顔に跳ね返る石畳の上で、銀貨三枚を持って来た女が、今は若い騎士に足元を教えている。
悪くない。
◇
王都の中心部を抜けた。
大聖堂の前を通りかかると、境内から子供たちの声がした。
孤児院の子供たちだ。
シスター・マルガレーテが何かを教えていて、子供たちが声を揃えて繰り返している。
その中に、ハンスがいた。
ハンスは子供たちの中で一番背が高い。
さっきまで店で皿を洗っていた子が、今は隣の子供の肩を叩いて何かを教えている。
揚太郎は境内を横目に見ながら、通り過ぎた。
◇
王都の西区に入った。
ここは商館が並ぶ一帯だ。
グスタフの商会の支店が、新しくできていた。
看板に小さく書いてある。
「緊急食料融通ネットワーク、常設窓口」
先週の飢饉対応で作ったルートを、常設にしたらしい。
揚太郎は看板を一瞥した。
金貨千枚を断られた男が、銀貨三枚で来るようになって、今は国の食料ネットワークを作っている。
人間は変わる。
変わらないように見えて、変わっている。
◇
南区の路地裏に入った。
見覚えのある路地だ。
当たり前だ。
毎日ここを歩いている。
だが今日は、客として歩いていない。
揚太郎は路地の入口に立って、奥を見た。
自分の店の暖簾が、今日は掛かっていない。
暖簾のない入口は、少し間抜けだと思った。
それでも路地は路地だ。
石畳の継ぎ目に苔が生えている。頭上では洗濯物が風に揺れている。どこかの窓から子供の声がする。
この路地裏に来た日のことを、思い出した。
パン粉を握りしめたまま、石畳の路地に立っていた。
「あ゛ー……どこだここ……」
間抜けな第一声だった。
あれから、どのくらい経ったのだろう。
数えていない。
数える必要がなかった。
◇
揚太郎は路地の石畳に腰を下ろした。
壁に背中をつけて、空を見た。
日本の空とは少し違う青だ。
最初は気になったが、今はもう慣れた。
目を閉じた。
日本の記憶が、静かに浮かんでくる。
スーパーの蛍光灯。半額シールの貼られたロース肉。隣の棚の半額パン粉。
満員電車の雑踏。上司に詰められた会議室。月末の営業報告書。
そして、千円のとんかつ定食。
あの味が正解だった。
あの値段で、あの幸せが手に入った。
(先生)
揚太郎は目を閉じたまま、心の中で呼びかけた。
北里栄三郎先生。千円札の顔。
(俺は今、異世界の路地裏に座っています)
(今日は初めて、店を休みました)
(特別な理由はないです。ただ、休もうと思いました)
(先生が泣いていた理由が、最近わかった気がします)
(二千八百円の前で敗北した千円じゃなくて、千円で幸せが手に入ることへの悔しさだったんじゃないかと)
(俺もずっと、それが悔しかった)
(だからこの世界で、銀貨三枚にしました)
(銀貨三枚で、カトリーヌが立ち上がりました)
(銀貨三枚で、シルヴィアが手帳を閉じました)
(銀貨三枚で、エルザが人間になりました)
(銀貨三枚で、ハンスが泣きました)
(銀貨三枚で、アル爺が蒸籠を磨くようになりました)
(銀貨三枚が、国を救っていました)
(誰も大げさに言いませんでしたけど)
(銀貨三枚で、リーネが味噌を溶くようになりました)
(袋がなくても、ここにいられると気づいた日の顔を、俺は覚えています)
風が吹いた。
路地裏の洗濯物が、一斉に揺れた。
揚太郎は目を開けた。
空が、夕暮れに変わり始めていた。
琥珀色の夕暮れ。
日本より少し濃い色だが、今はもう悪くないと思っている。
立ち上がった。
外套の埃を払った。
店に向かった。
暖簾を棚から出した。
掛けた。
明日からまた、ここから始まる。
鍋に水を入れた。
火をつけた。
油を温め始めた。
厨房に、静かな熱が満ちてくる。
揚太郎は窓の外を見た。
路地裏の夕暮れが、石畳をオレンジに染めている。
手の中に、今日のとんかつはない。
でも明日の分がある。
(先生、聴こえますか)
ジュワァァァ……。
油が、温まり始めた。
(完)
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