鈴木ファースト :約4500文字 :名字
「鈴木くん、鈴木くん……鈴木くん、ちょっと」
「はい」
鈴木が部長に呼ばれて席を立った。やれやれ、またか――おれは眉を指で掻き、視線だけをそちらへ滑らせた。
あの鈴木という新人は、ここ最近どうも遅刻が目立ち、つい三日前にも部長に注意を受けたばかりなのだ。
入社当初は真面目で温和、いかにも好青年といった印象だったのに、ここ一、二週間で様子ががらりと変わった。目つきが鋭くなり、口数も減り、どこかやさぐれているというか、態度が妙にふてぶてしくなっていた。
部長は鈴木を気遣っているのだろう。周囲に聞こえないよう声を潜めて話し始めた。だが皆、作業の手を緩めてつい聞き耳を立ててしまっているようで、オフィス内は静まり返っており、その配慮はほとんど意味を成していなかった。
「最近どうだ? 何かうまくいっていないこととか、悩みごとがあるんじゃないか?」
「まあ……」
「うんうん、そうか。そうだよな。君はもともと真面目なタイプだからな。大丈夫か? 仕事のことじゃなくてもいいんだぞ。話してくれれば、きっといい方向に進むはずだ」
部長は優しく諭すように言った。パワハラだ何だと騒がれるのを恐れているのだろう。過剰なほど柔らかい声だった。
「部長」
「うん、うん。なんだい?」
「鈴木をもっと敬うべきです」
「うん、うん……うん……ん?」
「部長は鈴木に対する敬意が足りないと申し上げているのです」
――鈴木、狂ったか?
おれは内心でそう呟き、改めて二人を注視した。部長は目を丸くし、口を半開きにしたまま固まっていた。
「あ、ああっと……つまり、君に割り振った業務に不満があるということかな? 君をその、過小評価してしまったと……」
部長は慎重に言葉を選び、絞り出すように言った。すると鈴木は深くため息をつき、ゆっくりと首を横に振った。
「僕に対してだけの話ではありません。“鈴木”全体の話をしているんです」
「え……全体……?」
「時代は鈴木ファーストなんですよ」
――狂ったな。
おれは隣の席の同僚と顔を見合わせ、小さく頷き合った。
「いいですか。鈴木は全国一位の名字を誇る、気高き民族なのです」
「民族って君、同じ日本人じゃないか……。それに全国一位は佐藤じゃ――」
「佐藤は! 腑抜けだ!」
鈴木が突然、机を思いきり叩いた。鈍い衝撃音がオフィスに響き、社員たちの肩が一斉にびくりと跳ねた。とくに佐藤さんは椅子から浮き上がり、ずり落ちそうなほど驚いていた。
「佐藤は一位の座に胡坐をかき、成すべきことを何ひとつ成していない、ただの敗者だ! それにいいですか、佐藤は総理大臣をたった一人しか輩出していないんですよ。鈴木は二人! 二人もだ!」
「そ、そうか……でも、たしか田中も二人いたよな。他にも――」
「とにかく! 鈴木はもううんざりしてるんですよ……」
「君が……? それとも鈴木全体が……?」
鈴木は両手で顔を覆い、そのまま大きく反り返った。そして、「鈴木はね……」と喉の奥から絞り出すように呟いた。
「鈴木は……長い間、搾取されてきました……」
「さ、搾取……? 何を……?」
「鈴木が! 鈴木による、鈴木のための生き方をして、何が悪いんですか!」
――狂ってる。
おれは視線を落とし、小さくため息をついた。
鈴木の熱弁はさらに三十分ほど続いた。鈴木がいかに素晴らしい存在か。鈴木が鈴木が鈴木がと、自分中心――いや、鈴木中心の大演説で、聞いているこちらが恥ずかしくなるので、おれはイヤホンをつけてただパソコンに向かっていた。
最後は近づく者を全員撥ね飛ばす勢いで、オフィスを飛び出していった。もっとも、誰も止めようとはしなかったが。
残されたのは、カタカタと遠慮がちに再開されたキーボードを打つ音だけ。誰も何も言わず、部長が気まずさを掻き消すようにわざとらしい咳払いをしたのを区切りに、場の空気はゆっくりと元に戻っていった。だが――。
「なんなんだ、この騒ぎは……」
終業後。会社から駅へ向かう途中、おれは異様な光景に足を止めた。
道のあちこちにオレンジ色のタオルを掲げた人々が集まっている。妙に高揚した様子で談笑し、時折「鈴木! 鈴木!」と声を張り上げていた。年齢層は高く、中年から老人ばかりだ。タオルには太々しい白文字で、こう書かれていた。
「『鈴木』……?」
「はーい!」「はーい!」「はーい!」
おれが読み上げた瞬間、周囲の連中が一斉にこちらを向き、元気よく声を上げた。そのうちの一人の中年の女が小走りで近づいてきて、おれは反射的に一歩後ずさりした。
「あなたも鈴木よね?」
「え?」
「鈴木人でしょ? ほら、鈴木顔だもの。はい、タオル」
中年の女は満面の笑みで、オレンジ色のタオルを差し出してきた。
「すずきじん……? いや、その……」
「え、違うの?」
女の手の中で、鈴木の文字がぎゅっと握り潰された。女もまた、顔に深い皺を寄せておれを睨んでいた。
「おい、お前、鈴木じゃねえのかよ」
刺すような声が飛び、連中がじりじりと距離を詰めてきた。おれは曖昧に笑い、「じゃあ……」とだけ言って踵を返した。
しばらく歩いてからそっと振り返ると、連中は険しい表情のまま無言でついてきていた。
背中にぞわりと悪寒が走り、おれは足を速めた。角を曲がり、目についたコンビニへ飛び込んだ。
店の一番奥、棚の陰に身を潜める。冷蔵ケースの低い音と、レジのほうから商品をビニール袋に詰める音が聞こえる。入店音が響くたびに、びくりと体が強張った。
――そろそろ、大丈夫か……。
しばらくして棚からそっと顔を出し、窓の外を覗いた。相変わらずオレンジ色がちらほらと見えるが、あの連中の気配はなく、おれはほっと息をついた。
なんとなく手ぶらで出ていくのも悪い気がして、おれは近くの棚から適当にヨーグルトを一つ取ると、レジへ向かった。
「いらっしゃいませー。鈴木ですね?」
「……は?」
喉奥から、かすれた声が漏れた。
「鈴木ですよね?」
「いや、ヨーグルトですけど……」
「え、鈴木じゃないんですか?」
茶髪の若い店員が、スキャナーを握ったまま眉をひそめた。
「すみませんが、鈴木以外の方には販売できない決まりなんですよ」
店員は口角を歪め、レジ台に両手をついてそう言った。胸元の名札には『鈴木』の二文字が印字されていた。
「で、でも、前は普通に……」
どこか気圧されながらも、おれはなんとか言葉を返した。
「昨日までは、ね。でも……今日からは違う」
店員は低い声で言い、身を乗り出して顔をぐっと近づけてきた。
「……レボリューション」
耳元で囁いたあと、店員はすっと身を引き、満足げに微笑んだ。
「じゃ、じゃあ、彼も鈴木なんですか?」
おれは隣のレジに立つ中東系の店員を指さした。
「ええ、鈴木です。なっ」
「ハイ。キカシマシタ。スズキ・オランジャン、デス」
乾いた笑いしか出なかった。
結局、おれは何も買わずにコンビニを出て、駅へ向かった。
だが駅前はさらに混沌としていた。オレンジ色Tシャツを着てタオルを掲げた連中――鈴木たちがあふれ返っていたのだ。彼らは隊列を組み、声を張り上げながら練り歩いていた。
「鈴木ファースト!」
「鈴木による、鈴木のための政治を!」
「鈴木以外は排除!」
拳を突き上げ、熱気が渦を巻く。肌がビリビリと震えた。まるで祭りのような盛り上がりだが、排他的で背筋が寒くなる光景だった。
おれは人波をかき分け、改札へ向かった。だが途中で腕が突き出され、行く手を阻まれた。
「お前、鈴木じゃないな? 鈴木以外はさっさと出ていけ!」
「いや、だから電車で帰ろうと……」
「出ていけ!」
まるで話が通じない。目が据わっており、人間の顔をしているのに別の生き物のようだった。
おれはあきらめ、駅を背にして家へ向かってとぼとぼ歩き出した。
途中、中学の同級生だった鈴木らしき男を見かけ、思わず声をかけそうになった。だが、伸ばしかけた指はぴたりと止まった。彼もまた、鞄からオレンジ色のタオルを取り出し、誇らしげに掲げたのだ。
どうやら全国から鈴木がこの町に集まっているらしい。歩きながら連中の会話や演説を断片的に拾ううち、事情が少しずつ見えてきた。
計画はずっと前から進められていたようだ。全国の鈴木による一斉蜂起。鈴木の解放運動――。
だから、うちの会社の鈴木もあんなことを言い出したのだろう。今日が、そのXデーだったのだ。
そこで、おれは思い出した。そういえば、この町の市長もたしか鈴木だった。
ぞわりと寒気が背中を走り、胸の奥がぎゅっと縮み上がった。おれは背中を丸め、できるだけ存在感を消しながら歩き続けた。鈴木、鈴木、鈴木、鈴木、鈴なりの鈴木並木道を歩いた。
ようやくアパートにたどり着くと、おれは玄関で崩れ落ちるように座り込んだ。足は棒のように固く、体は鉛の塊みたいに重い。薄汚れた天井を見上げていると、寒気が背中から全身へと這い、目の奥がじんと熱くなった。言いようのない恐怖に感情は指針を失い、もうぐちゃぐちゃだった。
明日、熱が出そうだ――そんな予感を抱きながら、おれはのっそりと立ち上がり、洗面所へ向かった。
顔を洗い、居間に入るとテレビをつけた。やっているのはニュース番組だ。おれはすとんと腰を下ろし、ぼんやりと画面を見つめた。アナウンサーの整然とした声が、わずかな安堵を与えると同時に、どこか他人行儀で寂しくも感じられた。
日本人ファースト――かつてそう掲げ、第一党にまで上り詰めた党があった。外国人犯罪の増加、理由を明らかにしない不起訴。鬱憤は溜まりに溜まり、やがて爆発し、人々は排他的な政党へと票を投じた。その結果、大勝。国はついに外国人排除へ舵を切った。
観光以外の滞在は認めず、働くには帰化を義務づけ、名字は佐藤や田中、鈴木といった無難なものに統一した。
こうしてこの国から“外国人”はいなくなった。しかしその後、名字同士の強い結束が生まれた。同時に、他の名字への対抗意識が芽生え、摩擦が起き始めた。“敵”を必要とする構造は消えなかったのだろう。その果てが、今回の鈴木ファースト。
テレビ画面には、警官隊に押し倒される鈴木たちの姿が映っていた。オレンジ色が地面に沈み、落ち葉のように踏みにじられていく。
鈴木は――排除された。
おれは静かに涙をこぼした。
鈴木たちをただ哀れんでいるのか。それとも、自分を重ねてしまっているのか。涙の理由は分からなかった。
しばらくして外がすっかり暗くなった頃、インターホンが鳴った。おれはゆっくり立ち上がり、電気をつけて玄関へ向かった。
ドアを開けると、そこには数人の知り合いが立っていた。皆、深刻な顔をしている。
「鈴木のニュース、見ましたか?」
「……ええ、先ほど」
おれは目尻を拭いながら答えた。
「あんなの、失敗するに決まってますよね……」
「いえ、そうとも限りません」
「え?」
「今回捕まったのは一部の鈴木です。大多数の鈴木は、着々と独立の準備を進めているという情報が入っています」
「田中もやる気ですよ」
「わかりますか。これは狼煙なんですよ。次は我々の番ですよ、“高橋”さん」
彼ら――高橋たちはゆっくりと口角を上げた。おれはドア横の表札に目をやり、そこに刻まれた名字を見つめながら、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「時代か……」




