第9話 間に合った、と思った
王都から届いた書状には、宰相府の蝋印が押されていた。
あの白い羊皮紙。三日前、この応接室で宰相閣下が座っていた椅子の上に、今度は公式の布告書が置かれている。
マルクが読み上げる声が、執務室に淡々と響いた。
「『神殿長ドラクロワの職務違反は以下三件と認定する。第一、結界管理規則に定められた術者交代手続きの不履行。第二、宰相府への事前通告義務の懈怠。第三、上記違反に起因する王都結界の崩壊および国防危機の惹起。以上をもって、ドラクロワ伯爵を神殿長職より更迭する。ドラクロワ伯爵家は神殿関連の一切の利権を制限される』」
更迭。
あの廊下で「お前の代わりなどいくらでもいる」と言った方が。引き継ぎ書類を見もせずに手を振った方が。
「『聖女フローレンス・ミラベールについて。結界維持能力なしと公式記録に記載する。聖女としての職掌範囲を、癒しおよび浄化の儀式に限定する』」
限定。剥奪ではない。
フローレンス様の加護──癒しと浄化──は本物だ。あの力で救われた人は大勢いる。それまで奪うのは正しくない。けれど、結界を守っていたのは聖女ではなかった。それが、国の公式記録に残る。
「『なお、ヴァレンヌ・リゼットが過去七年間にわたり王都結界の維持管理を単独で担ってきた事実を、ここに正式に認定する』──以上、宰相府公示第七十二号」
マルクが布告書を机に置いた。
しん、と静まった。暖炉の薪が小さく爆ぜる音だけが聞こえる。
(七年間)
七年間、この紙一枚がなかった。
毎朝四時に起きた。冷たい術式陣に手をついた。夕方六時にもう一度。三百六十五日を七回繰り返した。その全てが「形式的」と呼ばれ、「代わりはいくらでもいる」と言われた。
それが今、宰相府の蝋印つきの布告書に、私の名前と共に記されている。
「……そう、ですか」
三度目の「左様ですか」。
あの夕暮れの廊下で追放を告げられた日。使者を退けた日。そして今日。
同じ返事なのに──毎回、違うものが胸を通り抜けていく。
「ヴァレンヌ技官長」
マルクが、少しだけ声を和らげた。
「もう少し、後日談を聞きますか」
頷くと、マルクは手帳を開いた。
「ドラクロワ家は神殿との繋がりで社交界に地盤を持っていましたが、利権制限で土台が崩れたようです。複数の家が距離を取り始めている、と」
因果応報──という言葉が、一瞬よぎった。
「聖女フローレンス様は癒しの儀式に専念される形で。夜会への影響力は大幅に低下した模様です。それから──ルヴェール子爵家のエドモン殿ですが」
マルクが一拍、言葉を切った。
「聖女の側近としての立場を事実上失い、子爵家内での発言力も落ちている、と。……婚約手続きの件も社交界に広まりつつあるようで」
エドモン。
あの夕暮れの廊下で目を逸らしていた人。辺境まで来て「戻ってくれ」と言いながら、書類を奪う密命を帯びていた人。
(……あの人は、自分で何かを決めたことがあっただろうか)
誰かの隣にいることでしか立てない人だった。聖女の隣。私の隣。どちらも、自分の足で選んだ場所ではなかった。
──もう、私には関係のないことだ。
「ありがとう、マルク」
布告書を引き出しにしまった。飾る気にはならない。事実の記録として、あればいい。
◇
夕方。結界の維持儀式を終えて術式陣から離れると、空が橙色に染まっていた。
辺境の夕焼けは、王都とは色が違う。冷たい空気のせいか、光が鋭くて、空の端が燃えるように赤い。その下で、結界の光が──私の魔力が紡いだ光が、地平線に沿ってうっすらと帯を引いている。
もうすぐ完成する。あと数日で、この結界は安定する。
雪原に立ったまま、しばらく光を眺めた。
七年間。
毎朝四時と毎夕六時。冷たい術式陣に立ち続けた七年間。誰にも見られず、誰にも気づかれず、それでいいと思い込んでいた七年間。
──それが今、国の記録に残った。
嬉しいのか、悲しいのか、わからない。たぶん──両方だ。遅すぎる。遅すぎるけれど、届いた。
ため息が、ひとつこぼれた。
白い靄がふわりと広がって、夕焼けの空に溶けていく。
七年分の重さが、ため息と一緒に──少しだけ、軽くなった気がした。
復讐の達成感、とは違う。
解放。
あの人たちを恨んでいたかと聞かれたら──恨んではいない。恨む暇があったら、結界に魔力を注いでいた。それが私の七年間だった。
ただ、もう背負わなくていい。
それだけで、十分だった。
◇
官舎に戻ろうとした時、騎士の一人が走ってきた。
「ヴァレンヌ殿。辺境伯閣下がお呼びです。執務室へ」
呼び出し。
普段は報告書のやり取りだけだ。直接呼ばれるのは──使者が来た日以来かもしれない。
何だろう、と思いながら館に向かった。
◇
執務室の扉を開けると、ギルベルト閣下が窓辺に立っていた。
夕日が横から射し込んで、灰色の瞳に橙色の光が混じっている。いつもは感情の薄いあの目が、今日は──少しだけ違って見えた。何かを決めた人間の目だ。
「……座れ」
いつも通り短い。けれど声が、ほんの少しだけ硬い。
椅子に腰かけた。ギルベルト閣下は窓辺に立ったまま、しばらく外を見ていた。
沈黙。
暖炉の火がぱちりと鳴る。
「布告書は読んだか」
「はい。マルクから」
「……そうか」
またあの一言だ。三日前──宰相閣下のオファーを断った日と同じ返事。あの時は、胸がちくりと痛んだ。引き留めてくれなかった、と。
けれど今日の「そうか」には──三日前とは違う何かが混じっている気がした。
ギルベルト閣下が、窓から視線を外して、こちらを見た。
まっすぐに。逸らさずに。
「あの日──」
低い声が、一語ずつ落ちてくる。
「貴女が辺境に来た日。馬車から降りたと報告を受けた時……招聘状はまだ届いていなかった」
覚えている。到着した日、騎士が言った。「招聘状が届く前に来たか」と。
「三年前の視察から、招聘の準備をしていた。書類を揃えて、俸給を確保して、官舎を整えて。──だが、手続きが間に合わなかった」
三年間。
この人は三年間、準備をしていた。
「貴女が追放されたと聞いたのは、招聘状を出す直前だった」
間。
ギルベルト閣下の声が、一段低くなった。
「招聘状が届く前に来たと聞いた時──俺は」
灰色の瞳が、微動だにしなかった。
「──安堵した。間に合った、と思った」
──。
間に合った。
(……間に合った?)
人材確保のために──ではない。この言い方は、もっと別の何かだ。「間に合う」という言葉は、何かに追われている時に使うものだ。期限がある時に。間に合わなかったら取り返しがつかない何かがある時に。
心臓が、速くなっている。
「三年前から──貴女をここに」
ギルベルト閣下が、そこで言葉を切った。
口が動いた。けれど、続きは声にならなかった。
(……三年前から)
三年前の視察で結界の光を見た時から。「綺麗だ」と呟いた夜。「あの光が欲しい」と言った夜。──全部、繋がっている。
全部。
名前のない差し入れ。手袋。外套。報告書の即日返答。風邪の見舞い。「戻らなくていい理由なら、俺がいくらでも作る」。三日前の「そうか」の一拍の沈黙。あの夜、執務室で外套を手に取って、何か言いかけてやめた横顔。
──全部、そういうことだったのか。
目の奥が、熱くなった。
泣くつもりはない。七年間泣かなかった。追放された日も、使者を退けた日も、宰相閣下の「遺憾」を聞いた時も。
けれど──。
「ギルベルト閣下」
声が、少し震えた。
ギルベルト閣下の目が、僅かに見開かれた。名前で呼ぶのは──いや、今まで「閣下」としか呼んだことがない。何も変わっていない。けれど、何かが変わった気がした。
「私は、王都に帰りません」
一度言ったことだ。宰相閣下に言った。ここで必要とされているから、と。
でも今回は、理由が違う。
「必要とされているから──ではなく」
膝の上で組んだ指が、少しだけ震えた。
「私がここを選びます。この結界と、この場所と、この人たちを」
──この人を。
最後の二文字は、声にならなかった。なりかけて、喉の奥で止まった。
ギルベルト閣下の口角が、ほんの少しだけ──上がった。
あの日、私が受諾した時に見せた微かな変化と同じだ。けれど今日のほうが、はっきりしている。目尻に小さな皺が寄って、灰色の瞳に──光が差した。
(笑った顔を見るのは、二度目だ)
「……そうか」
三度目の「そうか」。
三日前の「そうか」とは、全く違う響きだった。飲み込んだものが何もない、真っ直ぐな一言。
ギルベルト閣下は、それ以上何も言わなかった。
けれど──「三年前から、貴女をここに」の続きが、まだ残っている。
聞きたかった。聞きたかったけれど、今は──この温かい沈黙のほうが正しい気がした。
◇
執務室を出ると、廊下の窓から結界の光が見えた。
辺境の夜空に、淡い燐光が帯を引いている。私の魔力で紡いだ光。もうすぐ完成する、新しい結界。
七年間、誰にも気づかれなかった光と同じ色だ。
けれど今は──それを見ていた人がいたことを、知っている。
三年前から。ずっと。
胸の奥で、まだ名前のつかない何かが、静かに灯っている。
──閣下の「三年前から」の続きを、いつか聞ける日が来るだろうか。
来てほしい、と思った。
それは、ここに来てから初めての──自分のための願いだった。




