第8話 ……そうか
国の宰相が、辺境の館に座っていた。
ルシアン・ド・モンティニー公爵閣下。この国の実質的な最高権力者が、供を最小限に絞って、わざわざ北方の辺境まで馬を走らせてきた。
応接室で向かい合うと、宰相閣下はまず私の顔をじっと見た。感情の読めない目だった。冷たいわけではない。ただ、何かを確認しているような──品定めではなく、書類の記述と現物を照合する、あの種の視線。
「早速本題に入る」
前置きはなかった。この方は王都の社交界でも「無駄のない人」と評されていると聞いたことがある。
「七年分の結界維持記録を調査させた」
宰相閣下が、書状を一枚差し出した。宰相府の紋章入りの公式報告書だ。
「全ての術式署名がヴァレンヌ嬢──貴女のものだった。聖女フローレンスの署名は、一件もない」
知っていた。
当然だ。結界術式に魔力を注いでいたのは私なのだから、署名が私のものなのは当たり前だ。
けれど──それを公的に認める人が現れるとは、思っていなかった。
七年間。あの署名は、冷たい術式陣の上にずっと刻まれていた。誰にも読まれず、誰にも確認されず、ただ結界を維持するためだけに。
「神殿長ドラクロワは更迭する」
宰相閣下の声は淡々としている。
「結界管理規則の違反、宰相府への通告懈怠、国防危機の惹起。三件の職務違反だ。ドラクロワ伯爵家は神殿との関わりを制限される」
更迭。
あの廊下で「お前の代わりなどいくらでもいる」と言った方が。「聖女様の加護が結界を守っておられる」と言い切った方が。
「聖女フローレンスは」
「結界維持能力なしと公式記録に記載する。聖女としての権限を、癒しと浄化の儀式に限定した」
限定。剥奪ではない。聖女の加護──癒しと浄化──は本物だ。人を救う力があることは事実で、その力まで奪うのは正しくない。
けれど、結界を守っていたのは聖女ではなかった。
それが、公式の記録に残る。
「なお、聖女は結界術式の起動を試みたそうだが──全く起動しなかった。術式は聖女の加護とは別系統だと、ようやく理解したようだ」
……フローレンス様は、最後まで知らなかったのだ。
自分の加護と結界が別物だということを。知ろうとしなかった、と言うべきか。あの日、「難しい話は苦手なの」と微笑んで遮った時から──ずっと。
「ヴァレンヌ嬢」
宰相閣下が、一瞬だけ間を置いた。
あの感情の読めない目に、微かな──本当に微かな何かが差した。
「七年間の責務に対し、国として何の評価も行わなかったことは、遺憾に思う」
遺憾。
謝罪ではない。宰相閣下らしい、あくまで公的な言葉だ。
けれど──七年間で初めて、国を代表する人間が私の仕事を認めた。
目の奥が、じわりと熱くなった。
泣かない。泣かないけれど。
「……もったいないお言葉です」
声が掠れた。ほんの少しだけ。宰相閣下はそれ以上何も言わず、次の話題に移った。
「結界は王宮魔術師団が再構築にあたっている。だが、移行に時間がかかる」
「ええ。魔力署名の書き換えには──」
「一ヶ月。承知している」
宰相閣下は頷いた。
「ヴァレンヌ嬢。王都に戻れば、宮廷魔術師の地位を用意する。待遇は保証しよう」
宮廷魔術師。
七年前の私なら──飛びついていた。
国に認められた立場。正当な評価。もう「暗くて地味な補佐官」ではなく、公式の肩書きを持って結界を守れる。
けれど今、私の目の前にあるのは──辺境の執務室の窓から見える白い景色だ。
毎朝起きると棚に茶葉がある。結界の報告書を出せばその日のうちに「確認した」と一言返事が来る。名前の書かれていない差し入れが、いつの間にか届いている。寒い朝にはぶかぶかの手袋で指先を温めて、夜には結界の光を見上げる。
そういう場所だ。
「お申し出は光栄です」
立ち上がり、深く一礼した。
「──ですが、私はここで必要とされていますので」
宰相閣下が、ほんの一瞬、目を細めた。
「……アッシュフォード辺境伯は、人を見る目がある」
それから私は、辺境伯家の金庫に預けていた引き継ぎ書類の控えを取り出した。
「こちらでよろしければ、お渡しします。辺境伯領からの技術提供という形で」
対等な立場。もう「補佐官」ではない。もう「代わりがいくらでもいる」人間ではない。
宰相閣下は書類を受け取り、ぱらぱらと目を通した。一ページ、二ページ。ページをめくる手が、途中で止まった。
「……七年分の維持手順が、全てここに」
「はい。北東区画は術式の薄い箇所ですので、重点的に魔力を注ぐ必要があります。季節ごとの魔力配分の調整表も──」
「ヴァレンヌ嬢」
宰相閣下が一度だけ頷いた。深く、しかし短く。
「受け取った」
それだけ言って──館を去った。
◇
応接室を出ると、ギルベルト閣下が廊下に立っていた。
扉の横に背を預けて、腕を組んでいる。まるでずっとそこにいたみたいに。
「断ったのか」
「ええ」
「……そうか」
短い。いつも通り短い。
けれど──いつもと何かが違った。「そうか」の前に、ほんの一拍の間があった。息を吸い込むような、何かを飲み込むような。
それだけだった。
ギルベルト閣下はそれ以上何も言わず、執務室のほうへ歩いていった。外套の裾が廊下の角に消える。
(……引き留めては、くれないんだ)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
宰相の申し出を断った。ここにいたいと思ったから断った。この辺境で、この結界を、この人たちと守りたいと思ったから。
なのに──「そうか」の一語だけ。
(私がここにいてもいなくても、同じなのだろうか。この方にとっては)
違う、と思いたかった。
七年間、「いてもいなくても同じ」として扱われてきた。あの場所ではそうだった。ここは違うと──思いたかった。
思いたかった、のに。
◇
夜。
官舎に戻る途中、執務室の前を通りかかった。
扉が薄く開いている。隙間から、暖炉の橙色の光が廊下にこぼれていた。
足を止めたのは、無意識だった。
隙間から見えたのは、ギルベルト閣下の背中だった。
机の前に立っている。手に──外套を持っている。あの外套。使者が来た日に、私の肩にかけてくれたものと同じ。
外套を手にしたまま、何か言いかけた。
口が動いたのが見えた。けれど、声は聞こえなかった。扉と距離が、言葉を吞んでいた。
言いかけて──やめた。
外套を椅子の背にかけ直して、窓のほうに歩いていった。
それだけだった。
私は、扉の前から離れた。足音を立てないように。見てはいけないものを見た気がして。
官舎に戻って、寝台に腰を下ろす。
「そうか」の一語が、耳の中でずっと鳴っている。
あの一拍の間。飲み込んだ何か。外套を持って、言いかけて、やめた。
(……閣下は、何を言おうとしたのだろう)
わからない。
わからないけれど──胸の奥の痛みは、「いてもいなくても同じ」という種類の痛みとは、少し違う気がした。
窓の外で、辺境の結界が淡く光っている。
私の光。ここで紡いだ光。
──ここにいたい。
その気持ちだけは、嘘じゃなかった。




