第6話 婚約破棄の手続きもまだですね
「リゼット、戻ってきてくれないか」
客間の椅子に座ったエドモンは、真っ直ぐにこちらを見ていた。
あの夕暮れの廊下では目を逸らしていた人が、今は正面から私の顔を見ている。
──見れるようになったのは、どういう心境の変化なのだろう。
「フローレンス様も心を痛めておられるんだ。結界のことで、王都は大変なことになっていて。リゼットがいなくなってから、何もかもうまくいかない」
私がいなくなってから。
(……いなくなったんじゃない。追い出されたんだけど)
その言い方だと、まるで私が勝手にいなくなったみたいだ。
エドモンの顔は相変わらず整っている。穏やかな目元。柔らかい茶色の髪。社交界で「誠実な好青年」と評判だった顔だ。二年前までは──この顔を見ると胸が温かくなったものだけれど。
「僕が間違っていた。あの時、何か言うべきだったんだと思う」
何か。
何か、言うべきだった。
(……「何か」って、何?)
「戻ってきてくれれば、全てうまくいく。神殿長閣下も、今度こそリゼットの仕事を正当に評価すると──」
「今度こそ」
思わず声に出した。エドモンの言葉が途切れる。
「今度こそ、ですか」
「……え」
「七年間ありましたよね、エドモン。評価する機会は」
エドモンが口を閉じた。
私は努めて穏やかに、けれど視線は外さずに続けた。
「あなたは神殿にいた。私が毎朝四時に術式陣に行くのを知っていた。夕方六時に戻ってくるのも知っていた。その間、あなたは一度だけでも──私が何をしているのか、見に来たことがありますか」
沈黙。
エドモンの視線が、ほんの少し泳いだ。右下に逸れて、テーブルの木目を追って、また戻ってくる。この癖は知っている。都合の悪い質問をされた時の、昔からの癖だ。
「それは……忙しくて」
「ええ。忙しかったのでしょうね」
フローレンス様のお側で。
口には出さなかった。出す必要もない。エドモン自身がわかっているはずだ。
「リゼット、僕は──」
「ひとつ、確認してもいいですか」
遮った。
エドモンが息を呑む。
「婚約破棄の正式手続きも、まだですね。エドモン」
空気が、凍った。
エドモンの顔から、穏やかな表情が消えた。目が見開かれて、唇が微かに震える。
「貴族の婚約は、両家の合意と宮廷記録局への届出で成立しています。破棄するには同じ手続きが必要です。あなたは──どちらもしていない」
半年前の夜、「僕たちの婚約は」と言いかけて最後まで言えなかったあの時から、何ひとつ変わっていない。正式な破棄も、両家への通達も、何もかもが宙ぶらりんのまま放置されている。
私を追放の場で庇わなかっただけではない。婚約を終わらせることすら、自分の口でできなかった。
「……それは」
エドモンの声がかすれた。
「そのうち、ちゃんと──」
「ええ。そのうち、ちゃんとしてください。──ルヴェール殿」
名前ではなく、家名で呼んだ。
エドモンの表情が、はっきりと歪んだ。「リゼット」と呼ばれていた距離が、たった一言で消えたことに気づいたのだろう。
「帰還の件については、お断りいたします。理由は神殿の使者の方にお伝えした通りです」
立ち上がる。一礼。
「長旅でお疲れでしょう。今夜の宿は手配させますので、ごゆっくりお休みください」
それだけ言って、客間を後にした。
廊下に出ると、脚が少し重かった。
(……疲れた)
怒鳴りたかったわけじゃない。泣きたかったわけでもない。ただ──あの人と同じ空気を吸うのが、ひどく消耗した。
◇
官舎に戻ると、身体が急に重くなった。
喉の奥が痛い。頭がぼんやりする。
(……まずい。風邪だ)
連日の結界修復に加えて、使者の撃退、エドモンとの面会。身体に無理をさせた自覚はあった。北方の寒さにもまだ慣れきっていない。
寝台に倒れ込むと、毛布を頭までかぶった。あの上等な毛布。赴任初日に届いていた、送り主不明のふかふかの毛布。
どのくらい眠っただろう。
こんこん、と扉を叩く音で目が覚めた。
控えめだが、はっきりした音。この叩き方は──。
「……はい」
かすれた声で返事をすると、扉が少しだけ開いた。
ギルベルト閣下の灰色の瞳が、隙間から覗いている。
「……起きたか」
「閣下。すみません、報告書がまだ──」
「報告書は明日でいい」
短い。いつも通り短い。
それだけ言って、扉が閉まった。足音が遠ざかる。
(……やっぱり、報告書の催促だったんだ)
枕に顔を埋めて、もう一度目を閉じる。
──あれ。
薄目を開けて、枕元を見る。
茶葉の小箱が、増えている。
蜂蜜入りジンジャーティー。同じ甘い香り。それから、蜂蜜の小瓶がもう一つ。蓋に「生姜によく合う」と小さな文字で書いてある。殴り書きのような、素っ気ない字だ。
(……事務方が風邪見舞いに蜂蜜を?)
いや、この字。この字は見覚えがある。報告書の返答に書かれていた一行──『承認。順調だな』の、あの無骨な字だ。
まさか。
(……まさか、ね)
考えがまとまる前に、瞼が重くなった。
熱のある身体は、判断力を奪う。蜂蜜の小瓶を握ったまま、また眠りに落ちた。
◇
目を覚ましたのは、夕方の鐘が鳴った頃だった。
窓の外が橙色に染まっている。頭はまだ少しぼんやりするが、朝よりはましだ。
身体を起こして、枕元の茶葉で湯を淹れた。蜂蜜を多めに落とす。甘くて温かい液体が、腫れた喉をそろそろと通っていく。
こんこん。
また、扉を叩く音。
「はい」
今度はマルクだった。扉を開けて顔を覗かせると、いつもの柔和な表情が──ほんの少しだけ、硬い。
「体調はいかがですか、ヴァレンヌ殿」
「だいぶ楽になりました。ご心配おかけして──」
「いえ。それより──閣下が今日五回ほどお見えでしたよ。『寝ているか』と確認しては戻っていかれるので、私のほうが落ち着かなくて」
五回。
「……五回?」
「朝に二回、昼に一回、先ほど一回、それからさっきのが五回目です。報告書の催促にしてはずいぶんな回数でしょう」
マルクが軽く肩をすくめた。
(……五回って、そんなに来てたの? 私、ほとんど寝ていたのに)
いやいや。きっと結界修復の進捗が気になっていたのだろう。技官長が倒れたら業務が止まる。上司として当然の確認だ。
「マルク、ギルベルト閣下にお伝えください。明日には復帰できるかと──」
「ヴァレンヌ殿」
マルクの声のトーンが、すっと変わった。
柔和な顔はそのまま。けれど目だけが、静かに真剣になっている。
「もう一件。……少しお伝えしたいことがあるのですが」
茶碗を置いた。
「ルヴェール殿の件です。殿が辺境を発たれた後、念のため──辺境伯領の通常の来客確認として、所持品の記録を取らせていただいたのですが」
マルクが、一瞬だけ言葉を切った。
「聖女フローレンス様の私信と思われる書状が見つかりました。内容について、明日改めてご報告いたします」
フローレンス様の、私信。
エドモンが持っていた。
「……わかりました」
声は平静を保ったつもりだった。
けれど茶碗を持つ指先が──ほんの少しだけ、強張ったのが自分でもわかった。
マルクが一礼して去った後、官舎の部屋に静寂が戻る。
窓の外で、雪が降っている。
エドモンは「戻ってきてほしい」と言った。「僕が間違っていた」と。
あの言葉の裏に──何があったのだろう。
蜂蜜の小瓶を見つめる。殴り書きの文字。「生姜によく合う」。
……少なくともこの瓶には、裏も表もなさそうだった。




