第5話 左様ですか
「聖女フローレンス様のご命令である。ヴァレンヌ・リゼットは直ちに王都へ帰還し、結界維持の任に就け」
応接室に通された男は、開口一番そう言い放った。
ドラクロワ閣下の名代を名乗る中堅の神官だった。長旅で外套に埃が積もっているのに、態度だけは妙に立派に横柄だ。勧めた椅子にも座ろうとしない。
命令。
ご命令、と来た。
(……謝罪の「し」の字もない。「お願い」でもない。「戻ってきてほしい」ですらない)
聖女様のご命令だから従え。それだけ。
十二日前に「お前の代わりなどいくらでもいる」と言った人たちの、これが呼び戻し方だ。
使者は続けた。
「王都では結界の綻びが拡大しております。聖女様は大変お心を痛めておられます。一刻も早く──」
お心を痛めている。
(結界維持が自分の仕事だとは思ってもいなかった方が?)
頭の中を、いくつもの記憶が駆け巡った。毎朝四時、誰もいない術式陣。冷たい石の床に両手をつき、魔力を注ぎ続けた何千回もの朝。一度も見に来なかった聖女様。「形式的なもの」と言い捨てた神殿長。目を逸らし続けた元婚約者。
──もう、十分だ。
内心で煮えるものを感じながら、それでも私は、静かに椅子に座ったまま口を開いた。
「……左様ですか」
同じ言葉。
十二日前、追放を告げられた夕暮れの廊下で──ドラクロワ閣下に向けたあの一言。
けれど今、この言葉の意味はまるで違う。
「お伝えいたします。私は現在、アッシュフォード辺境伯領の術式技官長として正式に雇用されております」
使者の眉が動いた。
「辺境伯閣下の招聘を受け、雇用契約を結びました。王都神殿への帰還義務は、法的にございません」
「なっ……今は国の危機だぞ! 個人の都合を言っている場合か!」
声が廊下に響くほど大きかった。
私は、指を一本立てた。
「一つ」
使者の目が、私の手に吸い寄せられる。
「結界維持の引き継ぎ書類は、追放当日にお渡ししようとしました。三十ページの運用マニュアルと維持手順書です。『不要だ』と仰ったのは、神殿長閣下ご自身です」
使者の表情が強張った。
指を、二本に。
「二つ。結界管理規則では、術者の交代に際し、三ヶ月前の届出と一ヶ月の移行期間が義務づけられています。いずれも履行されておりません」
使者の喉が上下する。
三本。
「三つ。結界術師の罷免には、宰相府への事前通告が必要と定められています。手続きを怠ったのは──神殿側です」
使者の顔が、みるみる白くなっていった。
(この人自身は、何も知らされていないのだろう)
手続きの問題も、規則の存在も。「とにかく連れ戻せ」とだけ命じられて、三日間馬を走らせてきたに違いない。少しだけ、気の毒になった。ほんの少しだけ。
「で、ですが、結界が崩壊すれば国民が──」
「ええ」
私は静かに、けれど視線だけは逸らさずに言った。
「ですから引き継ぎが必要だと申し上げたのです。──あの日、あの廊下で」
使者が口を開き、閉じ、もう一度開いて──何も出てこなかったらしく、唇を噛んだ。
隣で、ギルベルト閣下が微動だにせず座っている。
腕を組み、灰色の瞳で使者を見つめている。最初から最後まで一言も口を挟まなかった。私に場を任せてくれていた。
けれどあの瞳の圧は──使者にとっては、私の論破より余程こたえたのではないかと思う。辺境を守る騎士団長の、無言の威圧。
「……本件は、宰相閣下に直接お伝えする。今日のところはお引き取りを」
ギルベルト閣下の低い声に、使者は何も言い返せないまま一礼し、退室した。
足音が廊下を遠ざかっていく。
玄関の扉が閉まる音が、小さく聞こえた。
◇
応接室に、二人だけが残った。
窓の外で風が鳴っている。暖炉の火がぱちりと爆ぜた。
私は──自分の手が震えていることに気づいた。
冷静だったはずだ。感情的にならなかったはずだ。声も裏返らなかったし、指を立てて一つずつ数え上げることもできた。
でも、指先が小さく揺れている。
膝の上で両手を組んでも、震えが止まらない。
(七年間。あの人たちの下で守ってきたものを、「私のせいではない」と言い切ることが──こんなに苦しいなんて)
ふわり、と。
肩に、重みが落ちてきた。
ギルベルト閣下の外套だった。
まだ体温が残っている。革と、冬の空気と、かすかに金属の匂いがする。騎士の匂いだ。
かけてくれた手が、一瞬──私の髪に触れそうになって、止まった。
大きな手。剣だこのある、無骨な手。
指先が私の髪の数寸手前で静止して、それから、何事もなかったかのように引かれた。
「……戻りたいなら、止めない」
低い声が、すぐ近くから聞こえた。
間。
暖炉の火が、ぱちり、と鳴る。
「だが──戻らなくていい理由なら、俺がいくらでも作る」
──。
心臓が、跳ねた。
その低い声が、思った以上に柔らかく響いて──肩にかかった外套の重みと体温が、急にはっきりと意識に上がってきた。
(……ずるい。そんな言い方、ずるい)
戻らなくていい理由。
辺境の結界管理に必要だから。人材が不足しているから。三年前から準備していた招聘だから。──きっと、そういう意味だ。この方は領主として、部下を守ろうとしている。
それだけのことだ。
それだけのこと、なのに。
「……ありがとうございます」
口から出たのは、ありふれた一言だけだった。
「礼は要らない」
ギルベルト閣下が、少しだけ顔を背けた。
──耳の先が、赤い。
暖炉のそばに座っているとはいえ、この人は北方の辺境伯だ。この程度の室温で頬を赤らめるような方ではない。
(……あ)
見てはいけないものを見た気がして、慌てて目を逸らした。
外套の襟を握りしめる。温かい。胸の奥も、さっきとは全然違う理由で、どくどくと脈打っている。
(顔が、熱い。──なんで? なんで私まで?)
わからない。わからないけれど、震えはいつの間にか止まっていた。
窓の外で、雪がしんしんと降っている。
ギルベルト閣下の外套は厚くて重くて、それがこんなにも安心するのは──きっと、寒いからだ。
寒いから。
それだけだ。




