第4話 ……綺麗だ
辺境の結界が、少しずつ光を取り戻していく。
朝、術式陣に手を置くたびに、昨日より確かな脈動が掌に返ってくる。私の魔力署名が、先代の結界に馴染み始めているのだ。最初はおっかなびっくり──というのは結界のほうの話で、見知らぬ術者の魔力をおそるおそる受け入れていた術式が、三日も経つと自分から魔力を吸い上げてくるようになった。
(……懐かれた、のかな)
お腹を空かせた猫が足にすり寄ってくるみたいで、少し可笑しい。
赴任してから五日目の夕方。結界修復の経過報告をまとめてギルベルト閣下に提出したら、一刻も経たないうちに返答が戻ってきた。
『承認。順調だな』
一行。
相変わらず短い。けれど「順調だな」というその一言には、報告内容をちゃんと読んだ人間にしか書けない確かさがあった。術式の応答率が上がっていること、魔力署名の定着が予定より早いこと──私が書いた数字を見て、「順調」と判断している。
(……読んでくれている)
当たり前のことだ。上司に報告書を出したら、読んで返事をするのは当たり前のこと。
なのに、こんなことで嬉しくなる自分がいる。七年間、報告書を出しても返事が来なかった場所にいたせいだ。ドラクロワ閣下は神殿の予算書には即日で朱を入れるのに、結界維持の報告書は机の端に積まれたまま埃をかぶっていた。
──比べるのはやめよう。もう、あの場所のことは。
◇
同じ日の夜。魔法通信石が鳴った。
王都からの続報だった。
結界の綻びがさらに広がっている。北東区画だけでなく、隣接する市場区画にも小型の魔物が出没し始めた。死者はまだ出ていないが、負傷者は十名を超えた。
そして──。
「聖女フローレンスが結界術式の起動を試みた。結果は失敗。術式は全く反応しなかったそうだ」
ギルベルト閣下が通信内容を読み上げる声は、いつも通り平坦だった。
全く反応しなかった。
……当然だ。
結界術式は、聖女の加護とは完全に別の系統の魔法だ。癒しや浄化がどれほど強力でも、結界の術式陣は応じない。触れても、祈っても、加護を注いでも──術式は、結界術師の魔力署名以外には反応しない。
そういう仕組みだ。私が七年間、毎日その仕組みの中で働いてきたから知っている。
フローレンス様は知らなかった。知ろうとしなかった。
(……いや。誰も教えなかった、というほうが正しいのかもしれない)
先代のセシル様が亡くなった後、結界術の知識を持つ人間は神殿に私しかいなかった。私はフローレンス様に説明しようとしたことがある。就任の翌月、「結界の仕組みについてご説明させてください」と申し出た。
フローレンス様は微笑んで言った。「難しい話は苦手なの。リゼットに任せるわ」
──任せる、と。
任せてくれていたなら、なぜ追い出したのだろう。
考えても仕方のないことだ。もう答えは出ている。あの方にとって、私の仕事は「任せる」ほどの認識すらなかった。「あるもの」として空気のように扱い、なくなって初めて──。
胸の奥が、ざらついた。
フローレンス様が結界を起動できなかったことを、嬉しいとは思わない。嬉しいはずがない。起動できないということは、王都の結界がこのまま崩れていくということだ。市場の商人が怪我をし、子供が怯え、人々が不安の中で夜を過ごしている。
それは、私が望んだことじゃない。
引き継ぎ書類を渡そうとした。受け取ってもらえなかった。
ただ、それだけのことだ。
◇
その夜。
結界の夜間チェックに出た。
辺境の結界は夜になると光が微かに強まる。気温が下がると魔力の流れが変わるからだ。王都でも同じだった。冬の夜明け前が、いつも一番光が強かった。
術式陣に手を置いて、魔力の流れを確かめる。異常なし。脈動は安定している。
立ち上がって息を吐くと、白い靄がふわりと広がった。空を見上げる。
星が──降るようだった。
王都では見えない星だ。街の明かりが多すぎて、三等星以下はぜんぶ闇に溶けてしまう。ここには、街の明かりがない。あるのは雪と、針葉樹と、見渡す限りの暗い平原だけだ。
そのぶん、空が近い。
星の粒が天蓋いっぱいに散らばって、その下を結界の淡い光が──私の魔力が紡いだ光が、地平線に沿ってうっすらと帯を引いている。
「……ヴァレンヌ」
声がして振り返ると、ギルベルト閣下が立っていた。
外套の襟を立てて、こちらを見ている。手には剣。見回りの途中らしい。
「閣下。夜間の見回りですか」
「ああ」
近づいてきて、私の隣に──少し離れた場所に立った。
二人で空を見上げる格好になる。
沈黙。
けれど、居心地の悪い沈黙ではなかった。ギルベルト閣下は元々言葉が少ない。私もこういう静かな時間は嫌いじゃない。
冷たい空気が頬を撫でる。吐く息が白く立ち上って、すぐに消える。結界の光が、雪の表面にぼんやり反射して、足元がほんのり明るい。
「……綺麗だ」
低い声が、すぐ隣から聞こえた。
「ええ。星が、綺麗ですね」
ギルベルト閣下は答えなかった。
ちらりと横を見ると、灰色の瞳は星ではなく、もう少し低い場所を見ている──気がした。結界の光がぼんやりと揺れているあたり。
……気のせいだろうか。
暗くて、よくわからなかった。
(星の話、ですよね?)
訊けなかった。訊くほどのことでもない。綺麗なのは星に決まっている。辺境の夜空なのだから。
それ以上は何も言わず、しばらく二人で空を眺めていた。
◇
官舎に戻って、寝台に腰を下ろす。ギルベルト閣下から受け取った手袋を──結局返しそびれている──棚に置いて、冷えた手で茶碗を包んだ。
蜂蜜入りのジンジャーティー。赴任初日から、なぜか茶葉が切れたことがない。
湯気の中で、ふとセシル様の声が蘇った。
あれは、結界術を教わり始めて二年目の冬だった。セシル様が珍しく、術式のことではなく「規則」の話をしてくださった。
『結界管理規則、というのがあるの。術者の交代には三ヶ月前の届出と一ヶ月の移行期間が法律で義務づけられている。それから──術者を罷免する場合は、宰相府への事前通告が必要よ』
十七歳の私は「そんな規則があるんですか」と驚いた。
セシル様は笑って言った。
『結界は国防の要だもの。術者を勝手にすげ替えることは、国の安全に関わるの。だから手続きが必要。もし手続きを踏まなければ、それは神殿の責任よ。覚えておいてね、リゼット』
覚えている。
あの時は、自分に関係のある話だとは思わなかった。まさか自分が手続きなしで追い出される日が来るなんて──。
三ヶ月前の届出。一ヶ月の移行期間。宰相府への事前通告。
ドラクロワ閣下は、そのどれも行っていない。
(……もし、あの追放が規則に違反していたのだとしたら)
考えかけて、首を振った。今さらだ。私はもうあの場所にはいない。規則がどうであれ、あの人たちの下に戻る気はない。
けれど──頭の片隅に、セシル様の言葉だけは、そっと仕舞っておくことにした。
◇
翌朝。
執務室で結界の朝のチェック結果をまとめていると、マルクが入ってきた。
「ヴァレンヌ殿。少し気になる報せが」
マルクの声がいつもより低い。
「王都から辺境に向かっている人物がいるようです。街道の宿場から情報が入りました」
「……どなたですか」
「エドモン・ルヴェール殿」
手が、止まった。
エドモン。
(……なぜ)
あの廊下で目を逸らしていた横顔が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
「どのようなご用件かは、まだわかりません。到着は明後日になるかと」
マルクが何か言い添えたが、耳に入らなかった。
あの日。追放を告げられた夕暮れの廊下で、エドモンは一言も口を開かなかった。私が書類を差し出した時も。「不要だ」と言われた時も。背を向けて歩き出した私の後ろ姿にも──何も。
今さら、何を言いに来るのだろう。
(……謝りに?)
一瞬、そんな考えが頭をよぎった。
すぐに打ち消した。期待するな。期待しても意味がない。
「……わかりました。ありがとう、マルク」
ペンを持ち直す。報告書の続きを書かなければ。辺境の結界は、今日も私の魔力を待っている。
窓の外で、雪が静かに降っていた。




