第3話 結界は、生きている
結界は、生きている。
──セシル様の言葉を、この手が覚えていた。
赴任の翌朝。防寒着に身を包んで辺境の結界術式陣に向かうと、雪を被った石の台座が、白い平原の真ん中にぽつんと立っていた。
王都の術式陣は神殿の地下にある。薄暗くて、冷たくて、人の気配がない場所だ。ここは正反対だった。風が吹きっさらしで、空が広くて、陽の光がまっすぐに落ちてくる。
「……ずいぶん、開けた場所ですね」
案内してくれた騎士──副官のマルクと名乗った人が、苦笑した。
「辺境は平地が多いので。屋内に入れると建物の維持費がかかりますし、先代の術式師は『空の下のほうが結界が喜ぶ』と仰って」
先代の術式師。ギルベルト閣下の先代が雇っていた方だろうか。
(結界が喜ぶ、か。……セシル様と同じことを言う)
石の台座に近づいて、手袋を外した。
素手で触れないと、術式の状態はわからない。昨日届いていた防寒着のおかげで身体は温かいが、指先だけは冷気に晒されてすぐに赤くなった。
両手を、台座の上にそっと置く。
──来た。
微かな振動。脈を打つように、弱々しく、けれど確かに。
先代の結界が、まだ生きている。
息を呑んだ。
老朽化しているとは聞いていた。術式を維持する術者がいなくなってから、もう何年も経つのだろう。魔力の流れは細く、所々で途切れかけている。人間で言えば──高熱を出して、ぐったりしている状態だ。
でも、死んではいない。
「……がんばったね」
無意識に、そう呟いていた。
セシル様がそうしていたように。結界に話しかけるように。掌から、少しだけ魔力を流し込む。
術式陣が、淡く光った。
ほんの微かな──赤ちゃんの寝息みたいな光。けれど先代の結界は確かに応えて、私の魔力を受け入れた。魔力署名が違うから拒絶されるかもしれないと思っていたのに。
(……弱っているから、かえって受け入れやすかったのかもしれない)
警戒する体力すら残っていない。そう思うと、少し切なかった。
「ヴァレンヌ殿! 光って……今、光りましたよね?」
背後で、マルクと騎士たちがざわめいている。
振り返ると、数人の騎士が目を丸くしていた。辺境の騎士たちだ。ギルベルト閣下の部下。結界の管理にも携わっているのだろう、術式陣の周囲に配置されていた。
「結界が応答しました。先代の術式は老朽化していますが、芯はまだ生きています。修復できます」
「修復……本当ですか?」
「ええ。ただし時間がかかります。毎日少しずつ、私の魔力署名を馴染ませていく必要があるので」
騎士の一人が、隣の男の腕を肘で突いた。
「おい。聞いたか。触っただけで光ったぞ」
「……王都の結界を七年間、この方が守っていたのか」
小声だったが、冬の空気は音をよく通す。
聞こえてしまって、少し困った。そんな大したことではない。七年間、毎日同じことを繰り返していただけだ。
──でも。
王都では一度も、そんなふうに言われたことがなかった。
◇
修復作業に没頭した。
結界に魔力を注ぐのは、七年間やってきたことの延長だ。ただ、弱りきった術式を立て直すのは維持よりずっと負担が大きい。衰弱した結界は魔力の吸収が不安定で、注ぎすぎれば術式が暴走するし、足りなければ応答が途切れる。
加減を探りながら、少しずつ、少しずつ。
気づいたら日が傾いていた。
(……あれ。なんだか、視界が)
立ち上がろうとした瞬間、膝が折れた。
──魔力切れだ。
王都にいた頃はこんなことなかった。毎日の維持儀式は身体が覚えているから、魔力の配分も自動的に調整できた。けれど新しい結界への注入は、勝手が違う。無意識に、必要以上の魔力を注いでしまったらしい。
地面が近づいてくる。膝をつく、と思った瞬間──。
腕を、掴まれた。
大きな手だった。
「……休め」
低い声。一言だけ。
ギルベルト閣下が、いつの間にか隣に立っていた。私の腕を掴んだまま、もう片方の手で肩を支えている。剣だこのある、硬い掌の感触が、外套越しに伝わった。
「す、すみません。少し魔力を使いすぎたようで──」
「わかっている」
短い。けれど「わかっている」という言葉の選び方に、微かな──責めるのではない、何かがあった。
(……見ていたのだろうか。作業中、ずっと)
ギルベルト閣下は私を支えたまま、ちらりと私の手元に視線を落とした。
素手だった。術式に触れるために手袋を外したまま、何時間も冷気の中にいた。指先が赤いを通り越して、白くなりかけている。
無言で、ギルベルト閣下が自分の手袋を外した。
革の手袋。使い込まれて柔らかくなった、大きな手袋。
それを、私の手に──押しつけるようにして、渡した。
「閣下、これは──」
「明日も作業するなら、指を凍らせるな」
それだけ言って、踵を返した。
大きな背中が遠ざかっていく。外套の裾が風に煽られて、ばさりと翻った。
(……予備をお持ちなのだろう)
そう思いながら、受け取った手袋に指を通す。ぶかぶかだ。私の手には大きすぎて、指先が余る。
革の内側に、まだ温もりが残っていた。
◇
官舎に戻ると、マルクが廊下で待っていた。
「お疲れ様です、ヴァレンヌ殿。今朝お出しいただいた結界修復の報告書、閣下からもう返答が来ていますよ」
「もう? 今朝出したばかりですが」
マルクが肩をすくめた。四十がらみの、穏やかな顔つきの男性だ。ギルベルト閣下の無愛想を補って余りある柔和さがある。
「閣下の報告書の返事、ヴァレンヌ殿の分だけ異様に早いんですよ。他の連中のは翌日まで放置されるのに」
……え?
「几帳面な方なのですね」
「いえ、几帳面なのは全員に対してならそう言えるんですが──まあ、いいです。とにかく返答は『承認、計画通りに進めよ』でした」
マルクが何か含みのある笑みを浮かべた気がしたが、追及する間もなく、執務室の魔法通信石が甲高い音を立てた。
◇
通信の内容を聞いたギルベルト閣下の表情が、僅かに変わった。
「王都の結界、北東区画に綻びが出た。小型の魔物が市場に侵入、負傷者三名」
胸の奥が、きゅっと締まった。
五日目。
(──予想より少し、早い)
北東区画は元々結界の薄い場所だった。維持儀式の際、あそこだけは他の区画より多めに魔力を注いでいた。私がいなくなって、それが途絶えた。
だから、あそこから綻びが出る。
知っていた。わかっていた。引き継ぎ書類に、そう書いた。
受け取ってもらえなかったけれど。
「……ヴァレンヌ」
ギルベルト閣下がこちらを見ている。
灰色の瞳。あの瞳は、余計なことを言わない。慰めも、同情も、正論も──何も足さない目だ。
ただ一言だけ。
「貴女のせいではない」
簡潔な、短い一言だった。
それなのに──胸の奥に刺さっていた棘が、少しだけ抜けた気がした。
私のせいではない。
(……そう、だろうか)
まだ、完全にはそう思えない。あの結界を七年間育てた私が去ったことで、街の人が怪我をした。その事実は消えない。
でも──。
手袋の中で、指先がじんわりと温かい。ぶかぶかの革の手袋の中で、さっきまで白くなりかけていた指に、少しずつ血の色が戻ってきている。
あの人たちは、この手を「形式的」と呼んだ。
この人は、この手に手袋をくれた。
──七日目まで、あと二日。
王都の結界が、どうなるのか。
私には、もうわからない。




