第2話 招聘状が届く前に来たか
寒い。
王都とは比べものにならない冷気が、馬車を降りた瞬間に頬を刺した。吐く息が白い。雪がちらちらと舞っている。
(北方ってこんなに寒いの……? まだ秋なのに?)
薄手の外套を掻き合わせて身を縮めていると、騎士服姿の男性が近づいてきた。
「ヴァレンヌ嬢ですか。アッシュフォード辺境伯がお待ちです」
……え?
「お待ち、と仰いましたか? 私、どなたにもこちらに来るとは──」
「伯より伝言です。『招聘状が届く前に来たか』と」
意味がわからない。
招聘状? 私はただ、北方に知人がいるという父のつてを頼って──いや、正直に言えば、行くあてもないまま馬車に乗っただけだ。招聘状など受け取った覚えはない。
困惑したまま、辺境伯の館に案内された。
質素な建物だった。王都の貴族邸のような華美な装飾はどこにもない。けれど廊下の石壁に罅ひとつなく、窓枠の木は丁寧に磨かれている。隅々まで手入れが行き届いているのが、歩いているだけでわかった。
暖炉の火がぱちぱちと爆ぜている。
廊下の空気がほんのりと温かくて──冷えきった身体に、じわりと染みた。
◇
執務室の扉が開く。
大きな背中が見えた。窓辺に立っていた人が振り向く。
──削ぎ落とされている、と思った。
無駄のない輪郭。灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見た。整っている、と言えばそうなのだろうが、それよりも「余計なものが何もない」という印象のほうが強い。表情が乏しいぶん、瞳の色だけが妙に鮮やかだった。
アッシュフォード辺境伯、ギルベルト閣下。
辺境を守る騎士団長でもある方だ。社交界にはほとんど顔を出さないと聞いていた。
「……座れ」
短い。
けれど声には不思議と角がなかった。低くて、素っ気なくて、でもどこか──乱暴さがない。命令というより、椅子を勧めている声だった。
促されるまま腰かけると、ギルベルト閣下は一通の書状を差し出した。
蝋印つきの正式な招聘状。
宛名──リゼット・クレール・ヴァレンヌ。
役職──アッシュフォード辺境伯領、術式技官長。
俸給──。
目を疑った。
倍。
補佐官時代の、倍だ。さらに研究費の支給、官舎の個室完備、結界管理に関する裁量権の付与。
裁量権。結界の管理方針を、自分の判断で決めていい。七年間、一度もなかったものが──紙の上に、当然のように書いてある。
「閣下、この待遇は……辺境の結界管理だけでは、到底釣り合いません」
「釣り合う」
灰色の瞳が、微動だにしなかった。
間。
「──三年前に見た」
三年前。
(……あの視察の時だ)
思い出した。三年前、各地の領主が神殿の視察に訪れたことがある。フローレンス様が華やかに式典を取り仕切った日だ。壇上には聖女と神殿長と、きらびやかな来賓たち。
私はその裏で──いつも通り、結界の維持儀式を行っていた。
式典の音楽が遠くに聞こえる術式陣で、両手を冷たい石につけて、魔力を注いでいた。いつもと同じように。
ふと視線を感じて顔を上げたら、回廊の向こうに一人、こちらを見ている人がいた。灰色の瞳。目が合って、私は慌てて視線を戻した。
──あれが、この方だったのか。
「聖女が式典の壇上にいた。貴女は一人で、あの術式陣に立っていた」
ギルベルト閣下の声は淡々としている。事実を述べているだけの、感情の薄い声。
なのに、次の一言は──。
「──どちらがあの結界を維持しているか、見ればわかる」
(三年、前から──)
不意に、喉の奥が熱くなった。
七年間、誰にも見られていないと思っていた。誰にも気づかれず、誰にも評価されず、それでいいと思い込んでいた。
なのにこの人は、見ていた。
たった一度の視察で。壇上の聖女ではなく、裏の術式陣に立つ私を。
「……ありがたく、お受けいたします」
声が少し震えたことに、自分で気づいた。
ギルベルト閣下は何も指摘しなかった。ただ小さく──本当に小さく、
「……よかった」
と、呟いた。
視線はもう窓の外に戻っている。表情は相変わらず読めない。
(……今の、聞き間違いじゃないですよね?)
いや、聞き間違いではない。確かに聞こえた。よかった、と。
人材が確保できてよかった、という意味だろう。辺境は結界術師が不足していると聞く。この待遇も、裏を返せばそれだけ人材が足りないということだ。
──うん。そういうことだ。それ以上の意味はない。
◇
翌朝。
官舎の部屋で目を覚ますと、覚えのない荷物が扉の前に置かれていた。
厚手の毛布。裏起毛の防寒着。それから、小さな木箱に入った茶葉のセット。
蓋を開けると、蜂蜜入りのジンジャーティーの甘い香りがした。
送り主の名前は、どこにも書かれていない。
……昨日、私が寒がりだと知ったのは──。
馬車から降りた時に身を縮めていたのを見た人間は、案内の騎士と、ギルベルト閣下だけだ。
(……まさか、ね)
いやいや。辺境伯ともあろう方が、赴任初日の技官にわざわざ茶葉を届けるなんて。ないない。きっと事務方が新任者向けに用意してくれたのだろう。北方は寒いから、防寒具の支給は標準なのかもしれない。
毛布に顔を埋めてみる。
ふかふかだ。
ちょっと、いや、かなり上等な品だ。事務方の備品にしては──良すぎないだろうか。
……考えるのはやめよう。
薬缶に水を汲んで、蜂蜜入りの茶を淹れた。
温かい。甘い。
生姜の香りが湯気と一緒にふわりと立ち上って、冷えた指先に、少しずつ血が通い始める。
窓の外は白い景色だった。雪をかぶった針葉樹が、どこまでも続いている。王都とは何もかもが違う。空気も、光の色も、静けさも。
三日前まで私がいた場所では、誰も私の仕事を見ていなかった。
ここでは──少なくとも一人、見ていた人がいた。
三年も前から。
茶碗を両手で包み込む。陶器越しに伝わる熱が、掌にじんと広がった。
──なんだか、泣きそうになったのは内緒だ。




