第9話 ただいま
「リゼット、ごめんなさい」
扉を開けた瞬間、その声が飛んできた。
挨拶より先に。名乗りより先に。
小さな応接室の中央に、フローレンス・ミラベールが立っていた。
金色の巻き髪は変わらない。翠の瞳も変わらない。けれど──纏っている空気が、違う。華やかな社交の匂いが消えて、代わりに──何と言えばいいのだろう。素のまま立っている、という感じ。
化粧が薄い。夜会用の髪飾りもない。簡素な聖女の白衣だけを着て、両手を膝の前で組んでいる。
目が赤い。泣いていたのか──泣いているのか。
「座ってください、フローレンス様」
「座らない。立って言うわ」
フローレンス様の声が、震えていた。
あの日の声と違う。「ねえリゼット、今までありがとう」と微笑んでいた、あの余裕のある声ではない。
「あなたが毎朝何をしていたのか、私は知らなかった。知ろうとしなかった。結界がどうやって維持されているのか、聞こうともしなかった」
一語ずつ、区切るように。
「あなたが引き継ぎ書類を渡そうとしてくれたのに、私は──ドラクロワ閣下が『不要だ』と言った時、何も言えなかった」
「フローレンス様──」
「聖女の加護があれば結界は守れると、本気で思っていたの。加護と結界が別物だなんて、考えたこともなかった。あなたが教えようとしてくれたのに、私が断ったのに」
覚えている。就任の翌月。「結界の仕組みについてご説明させてください」と申し出た時、フローレンス様は微笑んで言った。「難しい話は苦手なの。リゼットに任せるわ」と。
任せる、と言いながら──任せた相手を追い出した。
「結界が崩れて、街の人が怪我をして、騎士団が毎日魔物と戦って。それで初めて──私がどれだけ何も知らなかったかわかったの」
フローレンス様の指が、白衣の裾を強く握りしめている。
「あなたの七年間を『形式的』だって──私は直接言ったわけじゃない。でもそう扱われているのを知っていて、何も思わなかった。それは同じことだって、今ならわかる」
沈黙。
大広間の外から、鳥の鳴き声がかすかに聞こえている。冬の王都。空気が乾いていて、音がよく通る。
「ごめんなさい、リゼット。──遅すぎるのはわかっているわ」
フローレンス様が、頭を下げた。
深く。社交界の会釈ではない。腰から折って、金色の巻き髪がさらりと肩から流れ落ちた。
(──ああ)
七年間、一度も見たことのない姿だった。
この人はいつも笑っていた。にっこりと、華やかに。人の輪の中心で、誰からも好かれて。自分の足元で何が起きているかも知らずに。
知らなかった。知ろうとしなかった。
──今は、知っている。
知った上で、ここに立っている。頭を下げている。
それは──成長、なのだと思う。遅い。遅すぎる。でも。
「フローレンス様」
「……はい」
「顔を上げてください」
フローレンス様が顔を上げた。翠の瞳が濡れている。鼻の先が赤い。この人を泣かせたかったわけではない。
「私は──恨んではいません」
嘘ではなかった。あの雪原でため息と一緒に吐き出した通りだ。恨む暇があったら結界に魔力を注いでいた。それが私の七年間だった。
「ただ、一つだけ」
「何でも聞くわ」
「癒しの加護を、大事にしてください。あなたの加護で救われた人は大勢います。結界は守れなくても──傷ついた人を癒す力は、誰にも否定できません」
フローレンス様の目から、涙がぽろりとこぼれた。
「……それを、あなたが言ってくれるの」
「私が追い出された後も、癒しの儀式は続けていらっしゃったんでしょう」
フローレンス様が頷いた。声が出ない様子で、唇を噛んでいる。
「それが──あなたの力です。結界ではないけれど、同じくらい大切な」
自分で言いながら思った。七年前の十六歳の私なら、こんな言葉は出てこなかっただろう。あの頃は「私の仕事を見てほしい」「気づいてほしい」で精一杯だった。
今は──自分の技術が何を守っているか知っている。セシル様の教本がある。結界を託してくれた人の願いがある。カミーユに伝えた技術がある。辺境で実戦を経た結界がある。
足元がしっかりしていると、人に優しくできる。
フローレンス様が袖で目元を拭って、少しだけ──笑った。あの華やかな笑みではない。不器用で、ぎこちなくて、鼻が赤い。
でもたぶん、これが──素の笑顔だ。
「ありがとう、リゼット。──次に会う時は、胸を張れる自分でいるから」
「ええ。楽しみにしています」
社交辞令ではなかった。本当に、そう思った。
◇
応接室を出ると、カミーユが廊下で待っていた。
「ヴァレンヌ殿。宰相府から通達が出ました」
カミーユの表情が引き締まっている。
「神殿次長オーギュスト・ヴェルニエ──功績報告における虚偽記載および結界再構築の功績捏造により、神殿次長職を解任。神殿長候補からも除外。ヴェルニエ侯爵家への爵位処分はなし」
解任。
昨日の署名照合から、一日。宰相閣下の動きは速い。「精査する」と言った翌日にはもう結論を出している。
(……あの方は、最初からわかっていたのかもしれない)
署名照合の結果を見るまでもなく、オーギュストの報告が虚偽であることを。宰相閣下はあの日、辺境で私の引き継ぎ書類を読んだ。七年分の維持手順が全てそこに書かれていることを知っている。その書類を基に再構築が進んでいることも把握している。
公式の場で照合結果が示されるのを──待っていたのだ。
「カミーユ殿」
「はい」
「王都の結界再構築は、このまま魔術師団で引き継げますか」
「はい。ヴァレンヌ殿に教わった基礎があります。教本の写しもあります。──大丈夫です」
カミーユが頷いた。力強い目だった。
「なら──」
息を吸った。
「帰ります」
「え?」
「辺境に帰ります。私の帰る場所は、あそこですから」
カミーユが目を見開いた。それから──にっと笑った。
「知ってました」
「知ってたんですか」
「辺境にいた時のヴァレンヌ殿の顔を見ていれば、わかります。あの場所と──あの方の隣が、あなたの居場所でしょう」
(……そんなにわかりやすかったですか、私)
頬が熱くなった。否定はしない。できない。
「カミーユ殿。王都のことは、任せます」
「はい。──任されます」
任せる。
その言葉を使うのが、少しだけ怖かった。あの日フローレンス様が「リゼットに任せるわ」と言った時と、同じ響きがするから。
でも違う。カミーユは知っている。結界術に触れた。脈動を感じた。技術の中身を理解した上で、引き受けようとしている。
知った上で任される。それは──丸投げとは、違う。
◇
馬車が三日走って、景色が灰色から白に変わった。
空気が冷たくなる。針葉樹が増える。雪が道の両脇に積もっている。
辺境だ。
帰ってきた。
馬車が辺境伯の館に近づいた時、門の前に人影が見えた。
大きな背中。腕を組んで、石柱に背を預けている。
ギルベルトだ。
馬車が止まった。扉を開けて降りると、冬の辺境の冷気が頬を刺した。吐く息が白い。雪がちらちらと舞っている。
ギルベルトが、こちらを見ていた。
灰色の瞳。表情は──読めない。いつも通り読めない。無愛想で、素っ気なくて。
けれど門の前に立っている。馬車が到着する時間を逆算して、ここで待っていたのだ。
「……遅い」
一言。
低い声。掠れてはいない。けれど──重い。三日分の「いつ帰る」が、全部その一言に圧縮されている。
笑いが込み上げた。泣きそうなのか笑いたいのかわからない。両方だ。
「ただいま戻りました」
声が震えた。隠せなかった。隠す気もなかった。
ギルベルトの口角が──上がった。
あの微かな変化ではない。はっきりと。目尻に皺が寄って、灰色の瞳が細くなって。
(──ああ、この顔だ)
この顔が見たくて、帰ってきた。
それだけで──三日間の馬車の旅も、大広間で震えた膝も、フローレンス様の涙も、全部報われた気がした。
「マルクから聞いたんですけど」
ふと思い出して、言った。
「ギルベルト、毎晩通信石を起動していたそうですね」
ギルベルトの動きが止まった。
「マルクが」
「ええ。『閣下は通信石を肌身離さずお持ちでした。毎晩同じ時間に起動されていましたよ』と」
ギルベルトが、顔を背けた。
耳が──赤い。首筋まで。冬の辺境の寒さのせいではない。断じて。
「……業務連絡だ」
「『いつ帰る』しか言わない業務連絡ですか」
「…………」
沈黙。
門の前で、雪がちらちらと舞っている。
笑ってしまった。声に出して。さっきの「泣きそうか笑いたいかわからない」が、笑うほうに倒れた。
ギルベルトが──耳を赤くしたまま、懐に手を入れた。
取り出したのは、封書だった。
蝋印がある。宰相府の紋章──ではない。もっと重い。金の刻印が入っている。
王家の紋章。
「……話がある」
ギルベルトの声が、低くなった。さっきの照れとは違う。真剣な声。あの越冬侵攻の夜に指示を飛ばした時と同じ密度がある。
蝋印つきの書状を片手に、灰色の瞳がまっすぐにこちらを向いた。
「中に入れ」
短い。
けれどその一言の奥に──何かが、ある。
何かが動こうとしている。
ギルベルトの手の中で、金の蝋印がちらりと光った。




