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【連載版】「お前の代わりはいくらでもいる」と追放された聖女補佐官が、実は国の結界を一人で維持していたと判明するまであと七日  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第9話 ただいま


「リゼット、ごめんなさい」


 扉を開けた瞬間、その声が飛んできた。


 挨拶より先に。名乗りより先に。


 小さな応接室の中央に、フローレンス・ミラベールが立っていた。


 金色の巻き髪は変わらない。翠の瞳も変わらない。けれど──纏っている空気が、違う。華やかな社交の匂いが消えて、代わりに──何と言えばいいのだろう。素のまま立っている、という感じ。


 化粧が薄い。夜会用の髪飾りもない。簡素な聖女の白衣だけを着て、両手を膝の前で組んでいる。


 目が赤い。泣いていたのか──泣いているのか。


「座ってください、フローレンス様」


「座らない。立って言うわ」


 フローレンス様の声が、震えていた。


 あの日の声と違う。「ねえリゼット、今までありがとう」と微笑んでいた、あの余裕のある声ではない。


「あなたが毎朝何をしていたのか、私は知らなかった。知ろうとしなかった。結界がどうやって維持されているのか、聞こうともしなかった」


 一語ずつ、区切るように。


「あなたが引き継ぎ書類を渡そうとしてくれたのに、私は──ドラクロワ閣下が『不要だ』と言った時、何も言えなかった」


「フローレンス様──」


「聖女の加護があれば結界は守れると、本気で思っていたの。加護と結界が別物だなんて、考えたこともなかった。あなたが教えようとしてくれたのに、私が断ったのに」


 覚えている。就任の翌月。「結界の仕組みについてご説明させてください」と申し出た時、フローレンス様は微笑んで言った。「難しい話は苦手なの。リゼットに任せるわ」と。


 任せる、と言いながら──任せた相手を追い出した。


「結界が崩れて、街の人が怪我をして、騎士団が毎日魔物と戦って。それで初めて──私がどれだけ何も知らなかったかわかったの」


 フローレンス様の指が、白衣の裾を強く握りしめている。


「あなたの七年間を『形式的』だって──私は直接言ったわけじゃない。でもそう扱われているのを知っていて、何も思わなかった。それは同じことだって、今ならわかる」


 沈黙。


 大広間の外から、鳥の鳴き声がかすかに聞こえている。冬の王都。空気が乾いていて、音がよく通る。


「ごめんなさい、リゼット。──遅すぎるのはわかっているわ」


 フローレンス様が、頭を下げた。


 深く。社交界の会釈ではない。腰から折って、金色の巻き髪がさらりと肩から流れ落ちた。


 (──ああ)


 七年間、一度も見たことのない姿だった。


 この人はいつも笑っていた。にっこりと、華やかに。人の輪の中心で、誰からも好かれて。自分の足元で何が起きているかも知らずに。


 知らなかった。知ろうとしなかった。


 ──今は、知っている。


 知った上で、ここに立っている。頭を下げている。


 それは──成長、なのだと思う。遅い。遅すぎる。でも。


「フローレンス様」


「……はい」


「顔を上げてください」


 フローレンス様が顔を上げた。翠の瞳が濡れている。鼻の先が赤い。この人を泣かせたかったわけではない。


「私は──恨んではいません」


 嘘ではなかった。あの雪原でため息と一緒に吐き出した通りだ。恨む暇があったら結界に魔力を注いでいた。それが私の七年間だった。


「ただ、一つだけ」


「何でも聞くわ」


「癒しの加護を、大事にしてください。あなたの加護で救われた人は大勢います。結界は守れなくても──傷ついた人を癒す力は、誰にも否定できません」


 フローレンス様の目から、涙がぽろりとこぼれた。


「……それを、あなたが言ってくれるの」


「私が追い出された後も、癒しの儀式は続けていらっしゃったんでしょう」


 フローレンス様が頷いた。声が出ない様子で、唇を噛んでいる。


「それが──あなたの力です。結界ではないけれど、同じくらい大切な」


 自分で言いながら思った。七年前の十六歳の私なら、こんな言葉は出てこなかっただろう。あの頃は「私の仕事を見てほしい」「気づいてほしい」で精一杯だった。


 今は──自分の技術が何を守っているか知っている。セシル様の教本がある。結界を託してくれた人の願いがある。カミーユに伝えた技術がある。辺境で実戦を経た結界がある。


 足元がしっかりしていると、人に優しくできる。


 フローレンス様が袖で目元を拭って、少しだけ──笑った。あの華やかな笑みではない。不器用で、ぎこちなくて、鼻が赤い。


 でもたぶん、これが──素の笑顔だ。


「ありがとう、リゼット。──次に会う時は、胸を張れる自分でいるから」


「ええ。楽しみにしています」


 社交辞令ではなかった。本当に、そう思った。



 応接室を出ると、カミーユが廊下で待っていた。


「ヴァレンヌ殿。宰相府から通達が出ました」


 カミーユの表情が引き締まっている。


「神殿次長オーギュスト・ヴェルニエ──功績報告における虚偽記載および結界再構築の功績捏造により、神殿次長職を解任。神殿長候補からも除外。ヴェルニエ侯爵家への爵位処分はなし」


 解任。


 昨日の署名照合から、一日。宰相閣下の動きは速い。「精査する」と言った翌日にはもう結論を出している。


 (……あの方は、最初からわかっていたのかもしれない)


 署名照合の結果を見るまでもなく、オーギュストの報告が虚偽であることを。宰相閣下はあの日、辺境で私の引き継ぎ書類を読んだ。七年分の維持手順が全てそこに書かれていることを知っている。その書類を基に再構築が進んでいることも把握している。


 公式の場で照合結果が示されるのを──待っていたのだ。


「カミーユ殿」


「はい」


「王都の結界再構築は、このまま魔術師団で引き継げますか」


「はい。ヴァレンヌ殿に教わった基礎があります。教本の写しもあります。──大丈夫です」


 カミーユが頷いた。力強い目だった。


「なら──」


 息を吸った。


「帰ります」


「え?」


「辺境に帰ります。私の帰る場所は、あそこですから」


 カミーユが目を見開いた。それから──にっと笑った。


「知ってました」


「知ってたんですか」


「辺境にいた時のヴァレンヌ殿の顔を見ていれば、わかります。あの場所と──あの方の隣が、あなたの居場所でしょう」


 (……そんなにわかりやすかったですか、私)


 頬が熱くなった。否定はしない。できない。


「カミーユ殿。王都のことは、任せます」


「はい。──任されます」


 任せる。


 その言葉を使うのが、少しだけ怖かった。あの日フローレンス様が「リゼットに任せるわ」と言った時と、同じ響きがするから。


 でも違う。カミーユは知っている。結界術に触れた。脈動を感じた。技術の中身を理解した上で、引き受けようとしている。


 知った上で任される。それは──丸投げとは、違う。



 馬車が三日走って、景色が灰色から白に変わった。


 空気が冷たくなる。針葉樹が増える。雪が道の両脇に積もっている。


 辺境だ。


 帰ってきた。


 馬車が辺境伯の館に近づいた時、門の前に人影が見えた。


 大きな背中。腕を組んで、石柱に背を預けている。


 ギルベルトだ。


 馬車が止まった。扉を開けて降りると、冬の辺境の冷気が頬を刺した。吐く息が白い。雪がちらちらと舞っている。


 ギルベルトが、こちらを見ていた。


 灰色の瞳。表情は──読めない。いつも通り読めない。無愛想で、素っ気なくて。


 けれど門の前に立っている。馬車が到着する時間を逆算して、ここで待っていたのだ。


「……遅い」


 一言。


 低い声。掠れてはいない。けれど──重い。三日分の「いつ帰る」が、全部その一言に圧縮されている。


 笑いが込み上げた。泣きそうなのか笑いたいのかわからない。両方だ。


「ただいま戻りました」


 声が震えた。隠せなかった。隠す気もなかった。


 ギルベルトの口角が──上がった。


 あの微かな変化ではない。はっきりと。目尻に皺が寄って、灰色の瞳が細くなって。


 (──ああ、この顔だ)


 この顔が見たくて、帰ってきた。


 それだけで──三日間の馬車の旅も、大広間で震えた膝も、フローレンス様の涙も、全部報われた気がした。


「マルクから聞いたんですけど」


 ふと思い出して、言った。


「ギルベルト、毎晩通信石を起動していたそうですね」


 ギルベルトの動きが止まった。


「マルクが」


「ええ。『閣下は通信石を肌身離さずお持ちでした。毎晩同じ時間に起動されていましたよ』と」


 ギルベルトが、顔を背けた。


 耳が──赤い。首筋まで。冬の辺境の寒さのせいではない。断じて。


「……業務連絡だ」


「『いつ帰る』しか言わない業務連絡ですか」


「…………」


 沈黙。


 門の前で、雪がちらちらと舞っている。


 笑ってしまった。声に出して。さっきの「泣きそうか笑いたいかわからない」が、笑うほうに倒れた。


 ギルベルトが──耳を赤くしたまま、懐に手を入れた。


 取り出したのは、封書だった。


 蝋印がある。宰相府の紋章──ではない。もっと重い。金の刻印が入っている。


 王家の紋章。


「……話がある」


 ギルベルトの声が、低くなった。さっきの照れとは違う。真剣な声。あの越冬侵攻の夜に指示を飛ばした時と同じ密度がある。


 蝋印つきの書状を片手に、灰色の瞳がまっすぐにこちらを向いた。


「中に入れ」


 短い。


 けれどその一言の奥に──何かが、ある。


 何かが動こうとしている。


 ギルベルトの手の中で、金の蝋印がちらりと光った。

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