第8話 署名
王城の大広間は、記憶より広かった。
いや──広くなったのではなく、あの頃は入ったことがなかっただけだ。結界術師の補佐官が足を踏み入れる場所ではなかった。毎朝四時に地下の術式陣に向かい、毎夕六時にまた地下へ降りる。私の王都は、冷たい石の廊下と術式陣の間を往復する世界だった。
大広間の天井は高い。冬の陽光がステンドグラスを通して床に色を落としている。長い楕円形の卓。椅子が並んでいる。各地の領主が座る席。宰相の席。国王代理の席。
ここでの発言は、法的効力を持つ。公式記録が残る。
(──ここに立つことになるなんて)
あの夕暮れの廊下を、さっき通ってきた。
カミーユと並んで歩きながら、足が一瞬だけ重くなった。追放を告げられた場所。「お前の代わりなどいくらでもいる」と言われた場所。石壁の色も、天井の高さも、窓から差す光の角度も──あの日のままだ。
けれど、私は違う。
こめかみに、銀の髪飾りが冷たく触れている。
「ヴァレンヌ殿。大丈夫ですか」
カミーユが小声で聞いた。
「ええ。……大丈夫です」
嘘ではない。緊張はしている。けれど恐怖ではない。
ここに来たのは、追い出された人間が戻ってきたのではない。辺境伯領の術式技官長が、技術の正統性を証明するために──正規の手続きで出席している。
ギルベルトの委任状が懐にある。辺境伯の紋章入り。私を領主会議の技術証人として委任する書面。
席についた。末席に近い場所だが、発言権はある。
◇
領主たちが揃い、宰相ルシアン・ド・モンティニー公爵閣下が開会を宣言した。
淡々とした声。冬至の定例議題が読み上げられ、各地の領主が順に報告を行う。東方の穀物収量。南方の港の修繕。西方の街道整備。
それから──。
「続いて、結界管理体制の見直しについて。報告者、神殿次長オーギュスト・ヴェルニエ殿」
席の向こう側で、一人の男が立ち上がった。
三十五歳くらい。すらりとした長身。整った顔立ちに、柔和な微笑み。神官服ではなく、ヴェルニエ侯爵家の紋章が入った正装を着ている。
初めて見る顔だった。書状の筆跡と名前だけは知っている。あの丁寧な文面の、裏側にいた人。
「各位にご報告申し上げます」
声が、大広間に響いた。よく通る声だ。朗々として、聞き取りやすい。弁舌に長けているとカミーユが言っていたが──確かに、この声は人を引き込む力がある。
「前神殿長ドラクロワの更迭後、結界管理体制の正常化を最優先課題として取り組んでまいりました。本日は、その成果をご報告いたします」
成果。
「王都結界の再構築は、私が主導する改革体制の下、神殿と王宮魔術師団の連携により順調に進捗しております。現在、再構築は七割方完了。来春までの完全復旧を目指しております」
七割。
あの引き継ぎ書類を基に魔術師団が作業を進めた七割だ。
「この成果は、ドラクロワ体制の不正を正し、改革派が主導する新たな管理体制を確立した結果であります。結界再構築の技術的基盤は、私の指導の下──」
指導。
(──あなたは結界術式に一度も触れたことがないのに、何の指導をしたというのですか)
丸括弧の中でだけ、言い返した。声には出さない。
オーギュストの発表は流暢だった。数字を並べ、工程を説明し、改革の成果を理路整然と積み上げていく。聞いているだけなら──見事な報告だった。
一つだけ、名前がどこにも出てこないことを除けば。
領主たちが頷いている。知らないのだ。あの引き継ぎ書類が誰の手で書かれたものか。再構築の技術的基盤が、どこから来たものか。
オーギュストの発表が終わった。
大広間に、拍手が起きた。まばらだが、確かに。
「質疑に入る。──発言のある者は」
宰相閣下の声。
沈黙。
誰も手を挙げない。オーギュストの発表は隙がなく、数字も整っていた。質問の余地がないほど──表面上は。
私は、手を挙げた。
「アッシュフォード辺境伯領術式技官長、ヴァレンヌ・リゼット。発言の許可をいただけますか」
大広間の視線が、一斉にこちらに向いた。
オーギュストの目が──初めて、私を捉えた。あの柔和な微笑みが、一瞬だけ固まった。ほんの一拍。すぐに笑顔が戻る。けれど目の奥が──計算している。この場に私がいることを想定していなかったのだ。
「許可する」
宰相閣下が短く頷いた。
立ち上がった。
膝が笑いそうだった。大広間に並ぶ領主たちの視線が重い。あの夕暮れの廊下で書類を差し出した時の震えが、一瞬だけ蘇りかけた。
──こめかみの銀の髪飾りに、指先で触れた。
冷たい。硬い。確かな手触り。
(帰る場所がある。待っている人がいる。──だから、ここで立てる)
「ヴェルニエ次長閣下のご報告に、一点、技術的な確認をお願いしたく存じます」
声が出た。震えていない。
オーギュストが微笑んだまま頷いた。
「もちろん。何なりと」
余裕がある。この人は弁舌の場では負けない自信があるのだろう。技術的な質問が来ても、政治的な言い回しで切り返す算段が──たぶんもう、頭の中で組み上がっている。
けれど。
「結界術式には、術者固有の魔力署名が刻まれます。これは改竄ができません」
「ええ。承知しております」
「再構築中の結界に現在刻まれている署名は、王宮魔術師団が私の引き継ぎ書類を解読して注入したものです。したがって──術式の構造は、私の書類に記載された配列と完全に一致するはずです」
オーギュストの微笑みが、わずかに──本当にわずかに、薄くなった。
「照合を行います」
懐から、魔力測定具を取り出した。小さな水晶の板。結界術師が術式の署名を読み取るための道具だ。
「宰相閣下。再構築中の結界術式の署名記録を、この場でご開示いただくことは可能でしょうか」
宰相閣下が──待っていたかのように、書記官に目配せした。
書記官が立ち上がり、封をされた書類の束を持ってきた。
再構築中の結界から採取された術式署名の記録。宰相府が管理している公式の記録だ。
「照合の手順を申し上げます。この記録に含まれる署名の配列が、私がかつて作成した引き継ぎ書類──現在は宰相府に保管されているもの──の記述と一致するかを確認します」
書記官がもう一つの書類を運んできた。宰相府に保管されていた引き継ぎ書類。あの日、金庫から出して宰相閣下にお渡しした三十ページだ。
二つの書類を、並べた。
水晶の板を通して、署名の配列を読む。
一つ目。一致。
二つ目。一致。
三つ目。一致。
全て──私の書類に記載された配列と、再構築中の結界に刻まれた署名が、完全に一致している。
「結果をご報告いたします」
声が、大広間に響いた。
「再構築中の王都結界に刻まれた術式署名の配列は、全て──私、ヴァレンヌ・リゼットが作成した引き継ぎ書類の記述に基づくものです」
沈黙。
「すなわち──再構築の技術的基盤は、ヴェルニエ次長閣下の指導によるものではなく、この書類に記された技術が源です」
大広間の空気が、変わった。
領主たちの視線がオーギュストに向かう。さっきまで拍手していた手が、卓の上で止まっている。
オーギュストの微笑みが──消えていた。
消えた、というのは正確ではない。形は残っている。唇の端は上がったまま。けれど目が笑っていない。計算が──狂ったのだ。
「ヴァレンヌ殿。技術的な照合は有意義ですが、管理体制の構築と技術の源泉は別の問題です。私は体制を──」
「次長閣下。一つ確認させてください」
遮った。
遮る無礼を承知で。
「ご報告の中で、『私の指導の下で技術的基盤を確立した』と仰いました。具体的にどのような技術指導を行われましたか」
オーギュストの口が──開いて、閉じた。
結界術の実技を全く理解していない人間に、この質問は答えようがない。政治的な言い回しで切り返そうにも、「具体的にどのような技術指導を」と問われれば、技術の中身を語る必要がある。
語れない。一度も術式に触れたことがないのだから。
「管理体制の構築は、技術の運用を最適化するための──」
「術式に触れたことはおありですか」
重ねた。
大広間が、しんと静まった。
カミーユが──末席の隣で、小さく頷いた。魔術師団の制服を着た若い女性が頷いたことを、何人かの領主が見ている。
オーギュストの額に、微かに汗が浮いた。
「……技術的な実務は、魔術師団に委任しております」
「ええ。その魔術師団が解読したのが、私の引き継ぎ書類です」
これ以上は言わなかった。
言う必要がない。署名が全て一致している。技術指導の具体性を問われて答えられない。この二つの事実が、大広間の全員の前に──今、ある。
宰相閣下が、静かに口を開いた。
「本件は宰相府にて改めて精査する。ヴェルニエ次長の報告内容と、署名照合の結果との齟齬について、正式な調査を行う」
正式な調査。
あの布告書の時と同じだ。宰相閣下は感情を見せない。「遺憾」とも「問題だ」とも言わない。ただ「調査する」と──それだけで、事態は動く。
オーギュストが席に座った。微笑みはもう完全に消えている。代わりに──薄い、硬い表情。崩れてはいない。この人は簡単には崩れないだろう。政治家だから。
けれど、記録に残った。
この大広間での発言は、全て公式記録に残る。署名が一致した事実。技術指導の具体性を答えられなかった事実。宰相が調査を宣言した事実。
もう消せない。
席に戻った。膝が震えていた。卓の下で、こっそり両手を組んで、震えを押さえた。
カミーユが隣で、ぽつりと囁いた。
「──すごかった」
(すごくない。足がガタガタ言ってる。見ないで)
返事はできなかった。話したら泣きそうだったから。
◇
宿舎の部屋に戻ったのは、日が完全に落ちてからだった。
領主会議の後、何人かの領主が声をかけてきた。「辺境の結界、見事だと聞いている」「越冬侵攻を退けたそうですな」。社交辞令かもしれない。でも──七年間、一度もかけられなかった種類の言葉だった。
寝台に腰を下ろして、息を吐いた。
長い一日だった。
枕元の通信石が──光った。
決まった時間の起動。辺境からの通信。
石に触れると、ギルベルトの声が流れてきた。
「──いつ帰る」
それだけだった。
会議の結果を聞かない。オーギュストのことも聞かない。宰相の調査のことも聞かない。
いつ帰る。
(……業務連絡にしては、内容が一つしかないんですけど)
笑った。声に出して、笑ってしまった。疲れと安堵と、それから──この声を聞けたことへの、どうしようもない嬉しさが全部混ざって、変な笑いが出た。
「もう少しかかります。……でも、必ず帰ります」
「……ああ」
短い。いつも通り短い。
通信が切れた。
通信石を握ったまま、しばらく動けなかった。声を聞いただけなのに、辺境の冷たい空気と、暖炉の匂いと、あの人が風上に立っている朝の感触が──全部、戻ってきた。
帰りたい。
すごく、帰りたい。
でも、あと少し。
こんこん、と扉を叩く音がした。宿舎の従者だった。
「ヴァレンヌ殿に伝言でございます」
「どなたからですか」
「聖女フローレンス・ミラベール様から。──『お会いしたい』と」
フローレンス様。
あの金色の巻き髪。翠の瞳。「ねえリゼット、今までありがとう」と微笑んだ、あの顔。
権限を縮小されて、癒しの儀式に専念していると聞いた。社交界の華やかさを失い、初めて自分の加護の本当の価値と向き合い始めている、と。
銀の髪飾りに触れた。
帰る場所がある。待っている人がいる。
だから──会える。
「……お受けします。明日、お時間をいただけますか」
従者が一礼して去った後、通信石をもう一度見た。
もう光っていない。辺境との回線は閉じている。
けれど──あの低い声が、まだ耳の奥に残っていた。
いつ帰る。
(……もう少しだけ、待っていて)




