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【連載版】「お前の代わりはいくらでもいる」と追放された聖女補佐官が、実は国の結界を一人で維持していたと判明するまであと七日  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第7話 お守り


 帰る場所がある。


 だから、行ける。


 ──そう自分に言い聞かせないと、決心が揺らぎそうだった。


「領主会議に、私が出席します」


 執務室で、そう切り出した時。ギルベルトの手が、一瞬だけ止まった。


 ほんの一拍。ペンの先が紙の上で静止して、すぐに動き出す。


「……理由は」


「オーギュスト次長が、結界再構築の功績を自分のものとして発表する予定です。公式の場で記録に残れば、覆すのが難しくなります」


 マルクが補足した。


「カミーユ殿からの情報です。魔術師団内でも疑問の声は出ているようですが、領主会議で公式に発表されてしまえば──」


「わかっている」


 ギルベルトが、ペンを置いた。


 灰色の瞳がこちらを向いた。読めない目だ。賛成とも反対とも、怒りとも諦めとも取れない。


「術式署名の照合は、術者本人が立ち会わないとできません。再構築中の結界に刻まれた署名が私の書類に基づくものだと証明するには──私が、その場にいる必要があります」


「……ああ」


 ギルベルトが視線を窓の外に移した。


 雪が降っている。越冬侵攻の後、氷狼の群れは退いたが、冬至を過ぎるまで警戒は解けない。辺境の結界は安定しているとはいえ、カミーユの技術はまだ補助に留まる。


 辺境伯が領地を空けるわけにはいかない。


 この人は──来られない。


 わかっていた。わかっていて、口にした。


 沈黙が、数秒続いた。


「辺境を空けられない」


 ギルベルトの声は平坦だった。事実を述べているだけの、感情を排した声。


 けれどペンを持っていた右手が、机の上で拳を作っている。力が入っている。指の関節が白い。


「……すまない」


 その一言が出るまでに、間があった。


 ギルベルトが謝るのを聞いたのは──初めてかもしれない。この人は謝らない。謝る代わりに行動する人だ。茶葉を届け、風除けに立ち、毛布をかけ、不同意書に署名する。言葉ではなく手を動かす。


 その人が「すまない」と言った。


 行動では補えないことへの──詫びだ。


「謝らないでください」


 声が少し震えた。意味が違う方向に震えそうだったから、慌てて続けた。


「私が行くと決めたんです。ギルベルトが辺境を守る。私が王都で証明する。──背中合わせです。あの越冬侵攻の夜と同じ」


 ギルベルトの拳が、ほんの少しだけ──緩んだ。


「マルクを護衛につける」


「ありがとうございます」


「カミーユにも同行させろ。魔術師団の人間が証人として立ち会えば、署名照合の信頼性が上がる」


 カミーユの同行。考えていなかった。けれど正しい判断だ。この人は──感情に揺れていても、思考は止まらない。


「王都に着いたら、宰相に連絡を入れろ。ルシアン閣下には俺から先に書状を送っておく」


「はい」


「それと──」


 ギルベルトが、言葉を切った。


 何か言いかけて、飲み込んだ。口が動いて、止まって、視線が私から逸れた。


「……いや。後でいい」


 後で。


 何を言おうとしたのか、聞きたかった。けれどギルベルトの横顔があまりにも──堪えているように見えたから、聞けなかった。



 出発は翌朝になった。


 準備は半日で終わる。持っていくものは多くない。セシルの教本の写し。署名照合に必要な魔力測定具。領主会議への出席を示す辺境伯の委任状。カミーユの同行許可証。


 荷をまとめ終えて、官舎の窓から外を見た。


 雪が止んでいる。明日は晴れるかもしれない。馬車で三日。王都までの道は長い。


 追放された日、同じ道を逆方向に走った。あの時は行くあてもなく、木箱の底に引き継ぎ書類を入れて、窓の外の景色が緑から灰色に変わるのをただ見ていた。


 今度は──自分の足で、選んで行く。


 こんこん、と扉を叩く音がした。


 控えめだが、はっきりした音。重い。指の骨が硬い人の叩き方。


 扉を開けた。


 ギルベルトが立っていた。


 廊下のランプの灯りが、灰色の瞳を琥珀色に染めている。この時間にここに来るのは珍しい。いつもはマルクが伝言を持ってくるのに。


「……入っていいか」


「はい」


 ギルベルトが部屋に入ると、狭い官舎が一回り小さくなった気がした。この人は大きい。背が高くて、肩幅があって、存在そのものに密度がある。


 立ったまま、ギルベルトが懐に手を入れた。


 取り出したのは──小さな包みだった。


 布に包まれた、掌に収まるくらいの。


「……これを」


 渡された。受け取ると、布の中で硬いものが微かに鳴った。


 開けた。


 銀の細工物だった。


 髪飾り。指先ほどの大きさの、繊細な銀細工。波のような曲線が幾重にも重なって、中心に小さな石がはまっている。磨かれた銀が、ランプの灯りを受けてちらちらと光を返す。


 辺境の銀細工だ。マルクに聞いたことがある。北方の銀鉱山から採れる「霜銀」で作る細工物は、魔力を微弱に伝導する性質がある。結界術師にとっては──魔力の集中を助ける実用品でもある、と。


 けれどこの髪飾りの意匠は、実用一辺倒とは違う。


 波のように重なる銀の曲線が──何かに、似ている。うまく言葉にならないけれど、どこかで見た形。


 (辺境のお守りなのかな)


 北方には冬至に魔除けの銀細工を贈る風習があるのかもしれない。


「……お守りだ」


 ギルベルトの声が、低く落ちた。


 目を合わせていない。視線が私の手元──髪飾りに固定されている。耳の先が、また赤い。


「王都は──辺境と違う」


 言葉を選んでいるのがわかる。一語ずつ、慎重に。


「俺がいない場所に、貴女を送る」


 貴女。


 「ヴァレンヌ」でも「リゼット」でもなく、貴女。この人なりの──距離の詰め方なのか、詰められなさなのか。


「だから、それを」


 途切れた。


 続きが出てこないのが見てわかった。口が動いて、止まって、喉仏が上下して。


 (……ギルベルト)


 この人は、いつもこうだ。言葉が足りない。気持ちの大きさに言葉が追いつかない。だから茶葉を届けて、風除けに立って、毛布をかけて。


 今夜は──髪飾りを、持ってきた。


「ありがとうございます」


 両手で包むようにして、髪飾りを胸の前に持った。銀が掌に冷たい。けれどすぐに体温が移って、じんわりと温もりが生まれる。


「大事にします。……必ず、持って帰ります」


 持って帰る。この場所に。この人のところに。


 ギルベルトが、ようやくこちらを見た。


 灰色の瞳。ランプの灯りで琥珀に染まっている。あの越冬侵攻の夜、泥だらけの手で頬に触れてくれた時と同じ目。


「……帰ってこい」



 短い。いつも通り、どうしようもなく短い。


 でもその一言の中に、この人が飲み込んだ全部が詰まっている気がした。一緒に行けない悔しさ。送り出す不安。待つ覚悟。


 全部、一言に押し込めて。


「はい」


 頷いた。


 泣かない。泣いたら、この人がもっと辛くなる。


 髪飾りを握りしめた。銀の曲線が掌に食い込んで、小さな痛みが──確かな手触りになる。



 翌朝。


 馬車が動き出した。


 カミーユが隣に座っている。護衛の騎士がニ名。辺境伯領の紋章が入った馬車は、街道を南に走り出した。


 窓から振り返ると、館の前にギルベルトが立っていた。


 腕を組んで、石柱に背を預けて。あの日──赴任した日、執務室の窓辺に立っていた時と同じ姿勢。


 遠ざかっていく。大きな背中が、雪景色の中で少しずつ小さくなる。


 手を振らない。この人は手を振るような人ではない。ただ立って、見送っている。


 (……見ていてくれる)


 三年前、王都の術式陣で一人で立っていた私を見ていた人が。今度は──送り出してくれている。


 髪飾りを髪に留めた。銀の冷たさが、こめかみに触れる。


 「ヴァレンヌ殿。その髪飾り、きれいですね」


 カミーユが言った。


「辺境の銀細工です。……お守りだそうです」


「お守り。──あの、ヴァレンヌ殿。その意匠、何かに似ていませんか」


「え?」


「結界の光です。辺境の結界が夜に光る時の──あの波紋の形」


 髪飾りに、指で触れた。


 波のように重なる銀の曲線。結界の光が水面に反射した時の波紋に──似ている。


 (……偶然?)


 辺境の銀細工だ。結界の光をよく見る土地の職人が、見慣れた光の形をモチーフにすることは──あるかもしれない。一般的な意匠なのだろう。


「きれいなお守りですね」


「ええ。……きれいです」


 馬車が街道を南に走っていく。窓の外の景色が、白から灰色に変わり始める。


 三日後に、王都に着く。


 あの廊下を──今度は追い出された人間としてではなく、自分の足で歩く。


 銀の髪飾りが、こめかみで冷たく光っている。


 帰る場所がある。待っている人がいる。


 だから──行ける。

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