第6話 手紙と、隣の椅子
開けよう、と思った。
引き出しの中でもう何日も眠っているエドモンの手紙。宰相府の書状は届いたその日に開けたのに、この封筒だけはずっと──触れるたびに指が止まる。
怖いのではない。怒りが湧くのでもない。
ただ、面倒だった。
(……面倒って。ひどい言い方だ、自分でも)
でも本音だ。
手紙を一通読むだけのことに、感情の準備が必要になる相手。それがもう──面倒なのだ。あの廊下で目を逸らしていた横顔のことも、辺境まで来て「戻ってきてくれ」と言いながら書類を奪う密命を帯びていたことも、全部──遠い。
朝の儀式を終えて、官舎に戻って、茶を淹れた。蜂蜜入りのジンジャーティー。いつもの味。
封を、切った。
手紙は短かった。
エドモンの丁寧な字が、小さな羊皮紙に並んでいる。
『リゼットへ
何を書けばいいのか、何度も考えた。何度も書いては破いた。
僕は君に謝るべきだと思っている。けれど、何に対して謝ればいいのかが、正直なところまだわかっていない。
あの廊下で何も言えなかったこと。婚約を宙ぶらりんにしたこと。書類のこと。全部、僕が悪かったと思う。思うのに、どこからが僕の罪で、どこからが仕方のなかったことなのか、線が引けない。
情けない手紙だと思う。謝罪にすらなっていないかもしれない。
ただ、君が元気でいるなら、それだけでいいと思った。
エドモン』
読み終えた。
しばらく、手紙を手に持ったまま動かなかった。
(……そうか)
「何に対して謝ればいいのかわかっていない」。
正直だ。正直で、不器用で、自分の輪郭がまだ見えていない人の手紙だ。
怒りは湧かなかった。悲しみも。
ただ一つだけ思ったのは──この手紙を読んでも、胸が一ミリも動かないということだった。
半年前なら泣いていた。一年前なら怒っていた。二年前なら──この不器用さを可愛いと思ったかもしれない。
今は、何もない。
紙を一枚めくるのと同じ。あの婚約破棄の事務書類を読んだ時と、同じ手触り。
手紙を折り直して、引き出しに戻した。
丁寧に。乱暴にする理由もない。
引き出しを閉じた。
──それで、おしまい。
◇
術式陣に着くと、カミーユが先に来ていた。
制服の袖をまくって、素手で術式陣に触れている。目を閉じて、唇を微かに動かしている。魔力の流れを読もうとしているのだ。
「カミーユ殿。朝から熱心ですね」
「あ、ヴァレンヌ殿。すみません、先に触らせてもらって」
「いいですよ。──どうですか」
「昨日より、脈動がよく感じ取れます。外縁部と中心部で魔力の密度が違うのも、なんとなく」
「なんとなく、で十分です。最初はそこからです」
セシル様もそう言っていた。結界の脈動を「なんとなく」感じ取れるようになったら、あとは毎日触れ続ければいい。身体が覚える。
カミーユに越冬期の魔力配分を教えた。セシル様の教本の数値を基に、外縁部への集中のさせ方を──実際に私が魔力を注いで見せて、同じことを小規模でやらせる。
カミーユの手から、微かな光が漏れた。
術式陣が応えている。私の魔力署名ほど強い反応ではないけれど──確かに、カミーユの魔力を結界が受け入れている。
「光った──!」
カミーユの声が弾けた。
「ヴァレンヌ殿、今──」
「ええ。結界が応答しました。カミーユ殿の魔力を認識しています」
カミーユの目が濡れていた。泣いているのではない。目を見開きすぎて、冬の風に晒されて、涙が滲んでいるだけだ。
「結界術は──本当に、聖女の加護とは別系統なんですね。魔術師の魔力でも応答する」
「ええ。結界術は術者の魔力署名で動く技術です。聖女の加護も、神殿の権威も、関係ありません」
言葉にすると、改めて──重い。
七年間、神殿に所属して結界を守ってきた。けれど結界術は神殿のものではなかった。セシル様の教本がそう書いている。そして今、カミーユという神殿外部の魔術師が結界に触れて応答を得た。
実証された。
結界術は、個人の技術だ。神殿の独占物ではない。
誰でも──正しく学べば、触れることができる。
「カミーユ殿。王都の魔術師団の方々にも、同じことが伝わりますか」
「伝わります。──いえ、伝えます。次長が何と言おうと、これは事実ですから」
カミーユの横顔に、決意が滲んでいた。この人は──正直で、まっすぐで、技術者として誠実だ。
「それと、ヴァレンヌ殿。一つ、お伝えしなければならないことが」
「はい」
「冬至の領主会議の件です。次長が──結界再構築の功績を正式に発表する予定だと、魔術師団の中で話が出ています」
領主会議。
公式の場。各地の領主と宰相と国王代理が参加して、発言に法的効力が生じる場。
「発表の内容は」
「『改革派神殿次長の主導により、結界再構築が軌道に乗った』という趣旨だと聞いています。ヴァレンヌ殿の名前は──」
「出ない」
「……はい」
カミーユが唇を噛んだ。
領主会議で公式に発表されれば、それが記録に残る。オーギュスト・ヴェルニエの功績として、国の記録に刻まれる。
(……あの書類に私の名前を書いたのは私だ。術式に魔力署名を刻んだのも私だ。それを──また、なかったことにしようとしている)
怒りは、もう静かだった。
あの夕暮れの廊下の時のような、胸を掻きむしるような怒りではない。冷たくて、硬くて、乾いた感覚。何度目かの同じ手口に対する、もう驚けない苛立ち。
けれど──対処はできる。
署名は嘘をつかない。術式に刻まれた魔力署名は改竄できない。どれだけ報告書を飾っても、結界に手を触れれば──誰の技術なのかは、わかる。
カミーユが証人だ。魔術師団の中にも疑問を抱いている人間がいる。
「ありがとうございます、カミーユ殿。教えてくださって」
「ヴァレンヌ殿。何かできることがあれば──」
「今は、技術を覚えてください。それが一番の力になります」
カミーユが頷いた。強い目をしている。
この人が結界術を身につければ、神殿の独占という嘘が──もう一つ、崩れる。
◇
夜。
書庫で、領主会議に向けた資料を調べていた。
過去の会議録。結界管理に関する審議の前例。術式署名の法的効力に関する文献。
ギルベルトも来ていた。
隣の机で、自分の書類を広げている。辺境伯として領主会議に提出する報告書の下書きらしい。たまにペンの音がする。それ以外は静かだ。
二人で書庫にいる夜が、いつからか当たり前になっている。
別に約束したわけではない。私が書庫に行くと、しばらくしてギルベルトが来る。「調べ物がある」とだけ言って、隣の机に座る。それだけだ。
書庫のランプの灯りが、二つの机を柔らかく照らしている。埃っぽい空気の中に、紙とインクの匂い。時々、ギルベルトの方から革の匂いがかすかに混じる。
文献を読んでいた。過去の領主会議で、術式署名が証拠として採用された事例がある。百二十年前の──古い。けれど前例がある。
(百二十年前の事例を持ち出すのは弱いかもしれない。でも、法的効力が認められた前例があるという事実は──)
そこで、意識が途切れた。
◇
肩に、重みがあった。
温かい。革の匂い。かすかに金属の──。
目を開けた。
文献の上に突っ伏していた。頬に紙の跡がついているのが自分でもわかる。
肩に──ギルベルトの外套がかかっている。
いつの間に。
顔を横に向けた。
ギルベルトが、隣の椅子に座っていた。
腕を組んで、目を閉じている。呼吸が穏やかだ。眠っている──のかもしれない。起きている──のかもしれない。この人は起きていても眠っていても、同じくらい静かだから判別がつかない。
手元に本が開いてある。
(……あの本、さっきと同じページだ)
私が調べ物を始めた時に開いていた最初のページのまま、一枚もめくれていない。
調べ物をする気はなかった。最初から。
この人は──ただ、隣にいるために来た。
私が居眠りしても起こさずに、外套をかけて、本を開くふりをして。
(……ギルベルト)
名前を呼んだら起きるだろうか。起きてしまうだろうか。
呼ばなかった。
代わりに、もう少しだけこの時間を──隣に人がいる温かさを、このまま感じていたかった。
書庫のランプが、二つの影を壁に映している。並んだ影。少し大きいのと、少し小さいの。
外套を引き寄せた。この人の体温が、まだ残っている。
ギルベルトの肩が、微かに動いた。
起きている。
起きているのに、目を開けない。
(……ずるい人)
笑いが、静かにこみ上げた。声には出さない。出したら、この温かい沈黙が壊れてしまう。
ランプの灯りが揺れている。外套の重みが、肩に心地いい。
領主会議まで、あと少し。
オーギュスト・ヴェルニエが何を企んでいようと──私には、セシル様の教本がある。術式に刻まれた署名がある。カミーユという証人がいる。
そして、隣に──目を閉じたふりをしている、ずるい人がいる。




