第5話 名前の重さ
『辺境伯領術式技官長ヴァレンヌ・リゼットの、王都神殿への一時帰還を正式に要請する。本要請は宰相府決裁済みである』
文面を読み上げたマルクの声が、執務室に落ちた。
今度は──宰相府の決裁印がある。
前回の手続き不備を突かれたことを学習したのだ。オーギュスト・ヴェルニエは。あの要請を退けてから十日と経っていない。その間に宰相府への根回しを済ませ、正規の手順で──もう一度、同じ要請を出してきた。
(……早い)
政治的手腕は本物だとカミーユが言っていた。弁舌に長け、公的な場での論戦に強い。宰相府にも太いパイプを持っている、と。
前回は手続きの不備で退けられた。だから今回は不備を潰した。それだけのこと。合理的で、冷静で、隙のない対応。
逆に言えば──もう「手続きが間違っている」では退けられない。
書状を机の上に置いた。指先が冷たい。朝の儀式を終えたばかりで、まだ身体が温まりきっていない。
「ギルベルト閣下」
声に出して、隣を見た。
ギルベルト閣下は執務机の向こう側に座っている。灰色の瞳が書状を一度だけ見て、すぐに視線を上げた。
「マルク。結界管理規則の第十二条を」
「はい。──『辺境伯領の術式技官長の人事異動・一時帰還については、宰相府の決裁に加え、当該辺境伯の書面による同意を要する。辺境伯の同意なき異動は無効とする』」
同意権。
宰相府が決裁しても、辺境伯が同意しなければ技官長を動かせない。辺境は王国の防衛の要であり、結界の管理者を勝手に引き抜かれては領地の安全が保てない──だから辺境伯に拒否権がある。
セシル様が教えてくれた規則の、さらに奥にある条文だ。あの頃は「自分に関係ある話だとは思わなかった」。今は──関係がある。
ギルベルト閣下が、ペンを取った。
書状の余白に、一行だけ書いた。短い。いつも通り短い。
『同意しない。──アッシュフォード辺境伯 ギルベルト』
署名。辺境伯の署名入りの不同意書。
ペンを置いて、マルクに渡した。
「これを宰相府に返送しろ。正式な手続きは正式に退ける」
「承知しました」
マルクが書状を受け取って一礼し、退室した。
執務室に、二人だけが残った。
暖炉の火がぱちりと鳴った。
ギルベルト閣下は、もう書類に視線を戻している。何事もなかったかのように、朱を入れる作業に戻っている。
──何事もなくは、ない。
(閣下は今、宰相府の正式決裁を退けた)
手続き上は合法だ。辺境伯には同意権がある。けれど──宰相府の決裁を蹴ることは、宰相府との関係に緊張を生む。オーギュストが「辺境伯が国防に必要な技術移転を妨害している」と論を立てれば、政治的な攻撃材料になりうる。
この人は、そのリスクを承知で退けた。
私のために。
「閣下」
「なんだ」
「……ご迷惑を、おかけしています」
言った瞬間、自分で──少し違う、と思った。迷惑という言葉は正しくない。でも他にどう言えばいいのかわからなかった。
ギルベルト閣下の手が止まった。
「迷惑ではない」
短い。
「辺境の結界を守る技官長を、手続き一つで王都に渡すのは領主として容認できない。──政治の話だ」
政治の話。
そう、政治の話だ。辺境伯として当然の判断。個人的な感情とは関係なく、領地の安全保障のために。
わかっている。わかっている、のだけれど。
「閣下」
「なんだ」
「それだけ、ですか」
口が勝手に動いた。
自分で言って、しまったと思った。何を聞いているのだ、私は。この人に何を求めているのだ。政治の話だと言ってくれたのに、それだけかと問い返すのは──。
ギルベルト閣下が、朱を入れる手を完全に止めた。
灰色の瞳が、書類から上がって、まっすぐにこちらを見た。
沈黙。
長い沈黙。
暖炉の火がぱちり、ぱちりと鳴る。窓の外で風が唸っている。
「……それだけでは、ない」
低い声。
それだけ。
それだけで──胸の奥が、熱くなった。
この人は、これだ。言葉が少ない。「それだけではない」の先を言わない。言えないのか、言わないのか。たぶん両方だ。
でも──「それだけではない」と口にしたこと自体が、この人にとっては精一杯の言葉なのだと思う。
息を吸った。
吐いた。
あの越冬侵攻の夜、この人は私の名前を呼んだ。「リゼット」と。泥だらけの手で頬に触れて、掠れた声で。
あれから──また「ヴァレンヌ」に戻っている。
私はずっと「閣下」のままだ。
三週間以上前のあの夕暮れに、手を握り返した。「お受けいたします」と答えた。なのに呼び方だけが、あの夜の前のまま凍りついている。
(……もう、いい加減にしよう)
私がいつまでも「閣下」と呼んでいるから、この人も距離を詰められないのだ。外套をかけて、茶を淹れて、風除けに立って──全部、言葉の代わりの行動だ。名前を呼んでほしいと眉を動かしながら、自分からは言えないままでいる。
この人がいつも先に動いてくれた。
今度は、私の番だ。
「閣下」
「……なんだ」
「一つ、お願いがあります」
ギルベルト閣下の目が、わずかに細まった。警戒ではない。何が来るのかわからない、という顔だ。
深呼吸した。
心臓がうるさい。掌が汗ばんでいる。大型魔獣の群れに結界を叩かれた時よりよっぽど緊張している。おかしな話だ。
「──ギルベルト、と。お呼びしてもいいですか」
執務室の空気が、止まった。
ギルベルト閣下──ギルベルトの、耳が。
赤くなった。
耳だけではない。首筋まで。外套の襟に隠れているけれど、首の横を這い上がる赤みが見える。
顔は動かない。表情は崩れない。灰色の瞳はまっすぐこちらを見たまま、一ミリも逸れない。
なのに耳だけが、嘘がつけない。
「……好きに呼べ」
声が、かすかに上擦った。
この人の声が上擦るのを聞いたのは──初めてだ。
「では。……ギルベルト」
呼んだ。
名前を呼ぶと、空気の手触りが変わった。「閣下」と呼んでいた時には間にあった透明な壁が、一枚なくなったみたいに。
ギルベルトが、顔を背けた。
書類に視線を戻している。朱を入れるふりをしている。ペン先が紙の上を滑る音がするけれど──何も書いていない。空振りだ。
(……可愛い)
この国の北方を守る辺境伯が、名前を呼ばれただけでペンを空振りしている。
笑いそうになるのを必死で堪えた。笑ったら怒るだろう。怒らないまでも、もっと不器用になる。
「ギルベルト。先ほどの不同意書ですが、宰相閣下へ補足の書状を添えたほうがいいかもしれません。辺境の越冬侵攻の激化と、技官長が不在になるリスクを具体的に──」
「……ああ」
返事が短い。いつも通り短いけれど、声の温度が違う。
ほんの少しだけ──柔らかい。
◇
官舎に戻って、机の上を見た。
エドモンの手紙が、置いたままになっている。
数日前に届いて、まだ開けていない。宰相府の書状は即日で開封したのに、この手紙だけは──手が伸びない。
封筒を手に取った。少し右に傾く筆跡が、宛名に並んでいる。
『リゼット・クレール・ヴァレンヌ殿』
丁寧な字だ。エドモンの字はいつも丁寧だった。マルクが以前伝えてくれた話によれば、何度も書こうとして書けなかった手紙だという。
(……読もう、と思えばいつでも読める)
でも今日は、もう十分だった。
名前を呼んだ。呼んでもらった。それだけで胸がいっぱいで、他の誰かの言葉を入れる余地がない。
手紙を引き出しに入れた。明日でもいい。明後日でもいい。
窓の外で、雪が降り始めていた。
「ギルベルト」と声に出してみた。小さく。誰にも聞こえないくらいの声で。
呼ぶたびに、胸の奥がじんと温かくなる。
名前って、こんなに重いものだったのか。
七年間、名前すら呼ばれなかった場所にいた。「暗くて地味な補佐官」。すれ違っても挨拶を返されない。存在ごと透明にされていた。
今は──名前を呼ぶ人がいて、名前を呼べる人がいる。
たったそれだけのことが、どうしようもなく温かい。
引き出しの中で、エドモンの手紙が静かに眠っている。




