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【連載版】「お前の代わりはいくらでもいる」と追放された聖女補佐官が、実は国の結界を一人で維持していたと判明するまであと七日  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第5話 名前の重さ


『辺境伯領術式技官長ヴァレンヌ・リゼットの、王都神殿への一時帰還を正式に要請する。本要請は宰相府決裁済みである』


 文面を読み上げたマルクの声が、執務室に落ちた。


 今度は──宰相府の決裁印がある。


 前回の手続き不備を突かれたことを学習したのだ。オーギュスト・ヴェルニエは。あの要請を退けてから十日と経っていない。その間に宰相府への根回しを済ませ、正規の手順で──もう一度、同じ要請を出してきた。


 (……早い)


 政治的手腕は本物だとカミーユが言っていた。弁舌に長け、公的な場での論戦に強い。宰相府にも太いパイプを持っている、と。


 前回は手続きの不備で退けられた。だから今回は不備を潰した。それだけのこと。合理的で、冷静で、隙のない対応。


 逆に言えば──もう「手続きが間違っている」では退けられない。


 書状を机の上に置いた。指先が冷たい。朝の儀式を終えたばかりで、まだ身体が温まりきっていない。


「ギルベルト閣下」


 声に出して、隣を見た。


 ギルベルト閣下は執務机の向こう側に座っている。灰色の瞳が書状を一度だけ見て、すぐに視線を上げた。


「マルク。結界管理規則の第十二条を」


「はい。──『辺境伯領の術式技官長の人事異動・一時帰還については、宰相府の決裁に加え、当該辺境伯の書面による同意を要する。辺境伯の同意なき異動は無効とする』」


 同意権。


 宰相府が決裁しても、辺境伯が同意しなければ技官長を動かせない。辺境は王国の防衛の要であり、結界の管理者を勝手に引き抜かれては領地の安全が保てない──だから辺境伯に拒否権がある。


 セシル様が教えてくれた規則の、さらに奥にある条文だ。あの頃は「自分に関係ある話だとは思わなかった」。今は──関係がある。


 ギルベルト閣下が、ペンを取った。


 書状の余白に、一行だけ書いた。短い。いつも通り短い。


 『同意しない。──アッシュフォード辺境伯 ギルベルト』


 署名。辺境伯の署名入りの不同意書。


 ペンを置いて、マルクに渡した。


「これを宰相府に返送しろ。正式な手続きは正式に退ける」


「承知しました」


 マルクが書状を受け取って一礼し、退室した。


 執務室に、二人だけが残った。


 暖炉の火がぱちりと鳴った。


 ギルベルト閣下は、もう書類に視線を戻している。何事もなかったかのように、朱を入れる作業に戻っている。


 ──何事もなくは、ない。


 (閣下は今、宰相府の正式決裁を退けた)


 手続き上は合法だ。辺境伯には同意権がある。けれど──宰相府の決裁を蹴ることは、宰相府との関係に緊張を生む。オーギュストが「辺境伯が国防に必要な技術移転を妨害している」と論を立てれば、政治的な攻撃材料になりうる。


 この人は、そのリスクを承知で退けた。


 私のために。


「閣下」


「なんだ」


「……ご迷惑を、おかけしています」


 言った瞬間、自分で──少し違う、と思った。迷惑という言葉は正しくない。でも他にどう言えばいいのかわからなかった。


 ギルベルト閣下の手が止まった。


「迷惑ではない」


 短い。


「辺境の結界を守る技官長を、手続き一つで王都に渡すのは領主として容認できない。──政治の話だ」


 政治の話。


 そう、政治の話だ。辺境伯として当然の判断。個人的な感情とは関係なく、領地の安全保障のために。


 わかっている。わかっている、のだけれど。


「閣下」


「なんだ」


「それだけ、ですか」


 口が勝手に動いた。


 自分で言って、しまったと思った。何を聞いているのだ、私は。この人に何を求めているのだ。政治の話だと言ってくれたのに、それだけかと問い返すのは──。


 ギルベルト閣下が、朱を入れる手を完全に止めた。


 灰色の瞳が、書類から上がって、まっすぐにこちらを見た。


 沈黙。


 長い沈黙。


 暖炉の火がぱちり、ぱちりと鳴る。窓の外で風が唸っている。


「……それだけでは、ない」


 低い声。


 それだけ。


 それだけで──胸の奥が、熱くなった。


 この人は、これだ。言葉が少ない。「それだけではない」の先を言わない。言えないのか、言わないのか。たぶん両方だ。


 でも──「それだけではない」と口にしたこと自体が、この人にとっては精一杯の言葉なのだと思う。


 息を吸った。


 吐いた。


 あの越冬侵攻の夜、この人は私の名前を呼んだ。「リゼット」と。泥だらけの手で頬に触れて、掠れた声で。


 あれから──また「ヴァレンヌ」に戻っている。


 私はずっと「閣下」のままだ。


 三週間以上前のあの夕暮れに、手を握り返した。「お受けいたします」と答えた。なのに呼び方だけが、あの夜の前のまま凍りついている。


 (……もう、いい加減にしよう)


 私がいつまでも「閣下」と呼んでいるから、この人も距離を詰められないのだ。外套をかけて、茶を淹れて、風除けに立って──全部、言葉の代わりの行動だ。名前を呼んでほしいと眉を動かしながら、自分からは言えないままでいる。


 この人がいつも先に動いてくれた。


 今度は、私の番だ。


「閣下」


「……なんだ」


「一つ、お願いがあります」


 ギルベルト閣下の目が、わずかに細まった。警戒ではない。何が来るのかわからない、という顔だ。


 深呼吸した。


 心臓がうるさい。掌が汗ばんでいる。大型魔獣の群れに結界を叩かれた時よりよっぽど緊張している。おかしな話だ。


「──ギルベルト、と。お呼びしてもいいですか」


 執務室の空気が、止まった。


 ギルベルト閣下──ギルベルトの、耳が。


 赤くなった。


 耳だけではない。首筋まで。外套の襟に隠れているけれど、首の横を這い上がる赤みが見える。


 顔は動かない。表情は崩れない。灰色の瞳はまっすぐこちらを見たまま、一ミリも逸れない。


 なのに耳だけが、嘘がつけない。


「……好きに呼べ」


 声が、かすかに上擦った。


 この人の声が上擦るのを聞いたのは──初めてだ。


「では。……ギルベルト」


 呼んだ。


 名前を呼ぶと、空気の手触りが変わった。「閣下」と呼んでいた時には間にあった透明な壁が、一枚なくなったみたいに。


 ギルベルトが、顔を背けた。


 書類に視線を戻している。朱を入れるふりをしている。ペン先が紙の上を滑る音がするけれど──何も書いていない。空振りだ。


 (……可愛い)


 この国の北方を守る辺境伯が、名前を呼ばれただけでペンを空振りしている。


 笑いそうになるのを必死で堪えた。笑ったら怒るだろう。怒らないまでも、もっと不器用になる。


「ギルベルト。先ほどの不同意書ですが、宰相閣下へ補足の書状を添えたほうがいいかもしれません。辺境の越冬侵攻の激化と、技官長が不在になるリスクを具体的に──」


「……ああ」


 返事が短い。いつも通り短いけれど、声の温度が違う。


 ほんの少しだけ──柔らかい。



 官舎に戻って、机の上を見た。


 エドモンの手紙が、置いたままになっている。


 数日前に届いて、まだ開けていない。宰相府の書状は即日で開封したのに、この手紙だけは──手が伸びない。


 封筒を手に取った。少し右に傾く筆跡が、宛名に並んでいる。


 『リゼット・クレール・ヴァレンヌ殿』


 丁寧な字だ。エドモンの字はいつも丁寧だった。マルクが以前伝えてくれた話によれば、何度も書こうとして書けなかった手紙だという。


 (……読もう、と思えばいつでも読める)


 でも今日は、もう十分だった。


 名前を呼んだ。呼んでもらった。それだけで胸がいっぱいで、他の誰かの言葉を入れる余地がない。


 手紙を引き出しに入れた。明日でもいい。明後日でもいい。


 窓の外で、雪が降り始めていた。


 「ギルベルト」と声に出してみた。小さく。誰にも聞こえないくらいの声で。


 呼ぶたびに、胸の奥がじんと温かくなる。


 名前って、こんなに重いものだったのか。


 七年間、名前すら呼ばれなかった場所にいた。「暗くて地味な補佐官」。すれ違っても挨拶を返されない。存在ごと透明にされていた。


 今は──名前を呼ぶ人がいて、名前を呼べる人がいる。


 たったそれだけのことが、どうしようもなく温かい。


 引き出しの中で、エドモンの手紙が静かに眠っている。

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