第4話 全く違う
「失礼ですが、本当に結界術師の方ですか?」
玄関の前に立っていた女性は、開口一番そう言った。
栗色の短い髪。黒い魔術師団の制服。背筋がぴんと伸びていて、目がまっすぐこちらを見ている。年は私と同じか、少し下くらい。頬が旅の冷気で赤くなっている。
「王宮魔術師団所属、カミーユ・デュヴァルです。宰相府の命で、辺境伯領の結界管理を視察・学習するために参りました」
宰相府の命。
オーギュスト・ヴェルニエの指示ではなく、宰相府の正規派遣だ。
「ヴァレンヌ・リゼットです。結界の管理を──」
「存じ上げています。王都結界を七年間維持された方ですよね。宰相閣下の布告書で名前を拝見しました」
カミーユの目が、好奇心で光っている。敵意はない。むしろ──期待、に近い。
「ただ、その、失礼を承知で申し上げますが」
「はい」
「お若いんですね。もっとこう──セシル・ルミエール様のような、白髪の厳めしい方を想像していたので」
(……セシル様は厳めしくはなかったけど)
細くて、しわだらけで、でも笑うと目が三日月みたいになる方だった。
「結界術師の見た目に決まりはありませんから」
「ですよね。すみません」
カミーユがぺこりと頭を下げた。裏表のない動作だった。
隣でマルクが控えめに咳払いした。
「カミーユ殿、長旅でお疲れでしょう。まず官舎にご案内しますので──」
「あの、先に結界を見せていただくことは可能ですか」
マルクの案内を遮って、カミーユがまっすぐこちらを見た。
「旅の疲れより好奇心のほうが勝っていまして。──結界術の実物を見るのは初めてなんです」
初めて。
王宮魔術師団の団員が、結界術の実物を見たことがない。
それは──つまり、王都の結界再構築は、実物を知らない人間が書類だけを頼りに進めているということだ。
(……大丈夫なの、それ)
大丈夫ではないだろう。だから宰相府がわざわざ辺境に人を送ってきた。
「わかりました。ご案内します」
◇
術式陣に着くと、カミーユの足が止まった。
「……光って、いますね」
「はい。結界が安定している状態です。魔力の脈動が一定のリズムを刻んでいれば正常──」
「触っても?」
「どうぞ」
カミーユが手袋を外して、おそるおそる術式陣に手を置いた。
数秒。
目が見開かれた。
「──脈が、ある」
「ええ。結界は生きていますから」
セシル様の言葉を、そのまま口にしていた。
カミーユの指先が術式陣の表面をなぞっている。魔術師団で訓練を受けた人間なら、魔力の流れくらいは感じ取れるだろう。
「これが……結界維持の術式。王都で書類を見た時は、数式と図面の羅列でしかなかったのに。実際に触れると全然違う」
「書類だけでは伝わらない部分があります。だからセシル様は、弟子に直接手から手へ教えてくださった」
「ヴァレンヌ殿。一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「王都で──次長閣下が、結界再構築の進捗報告をされているんです」
次長閣下。オーギュスト・ヴェルニエ。
「進捗報告というのは」
「神殿評議会と、宰相府への定期報告です。次長は、結界再構築を『自分の改革の成果』として報告されています。ヴァレンヌ殿が残された引き継ぎ書類を基に魔術師団が作業を進めているのですが、報告書の中では──」
カミーユが、言葉を選ぶように一瞬黙った。
「ヴァレンヌ殿のお名前は、一度も出てきません」
音が、消えた。
雪原を渡る風の音も、結界の脈動も、カミーユの声も──一瞬、全部遠くなった。
名前が出てこない。
私の書類を使って再構築を進めながら、功績を自分のものとして報告している。
(──また、か)
七年間、結界を維持し続けた功績を「聖女の加護」として扱われた。引き継ぎ書類を「不要だ」と突き返された。
今度は、書類の中身だけを使って──名前を消した。
怒り、ではなかった。もっと冷たくて、乾いたものが胸を横切った。
呆れに近い。
(……この人たちは、何度同じことをすれば気が済むんだろう)
「カミーユ殿。もう少し詳しく聞かせていただけますか」
声は平坦に出た。怒りを見せるつもりはない。見せたところで何も変わらない。
必要なのは感情ではなく、事実だ。
「次長閣下の報告書では、再構築の技術的基盤はどのように説明されていますか」
「『改革派が主導した新しい結界管理体制の下、神殿と魔術師団の連携により再構築に着手した』という文面です。技術的な中身については──私たち魔術師団がヴァレンヌ殿の引き継ぎ書類を解読して作業しているのに、報告書では『次長の指導の下で進捗した』と」
カミーユの声に、苛立ちが滲んでいた。この人は正直だ。自分の仕事を正確に評価されないことへの怒りが、隠しきれずに唇の端に出ている。
「次長閣下は──結界術の実技に触れたことがありますか」
「ありません。一度も」
やはりそうだ。
政治と弁舌で押し切る人間。技術の中身を理解していないから、「自分の指導成果」と言い換えても矛盾に気づかない。
けれど、技術者は気づく。
カミーユが気づいた。魔術師団の中にも、同じように首を傾げている人間がいるかもしれない。
「カミーユ殿」
「はい」
「結界術を、お教えします。書類の解読だけでなく、術式陣の実技も含めて」
カミーユの目が──光った。好奇心ではない。もっと真剣な、技術者としての飢えだ。
「……本当に、よろしいのですか」
「セシル様は教本に書いていました。結界術を一人に閉じ込めてはいけない、と。私が独り占めしていい技術ではありません」
「ヴァレンヌ殿」
カミーユが背筋を正した。
「必ず身につけます。それと──次長のことは、魔術師団内でも疑問の声が出始めています。報告書の内容と、実際の作業の乖離が大きすぎるので」
第三者の目。
あの時もそうだった。宰相閣下が辺境に来て、七年分の術式署名を調べた。署名が全て私のものだったことを──私以外の誰かが確認してくれた。
技術は嘘をつかない。術式に刻まれた署名も、結界の脈動も、触れればわかる人にはわかる。
オーギュスト・ヴェルニエがどれだけ巧みに報告書を飾っても──この術式陣に手を置けば、誰の技術なのかは一目瞭然だ。
「明日の朝の儀式から始めましょう。早朝ですが、大丈夫ですか」
「もちろんです」
カミーユが、にっと笑った。気持ちのいい笑顔だった。
◇
夜。
執務室で補助術式陣の設計図を描いていた。
越冬侵攻に備えて増設する二基目の術式陣。セシル様の教本に書かれていた連結理論を基に、配置と魔力の流路を計算する。数値の羅列と、図面の線と、格闘していたら──。
気づいた時には、机に突っ伏していた。
意識が戻ったのは、肩に何か温かいものが触れた感触で──いや、違う。温かいものは、もうかかっていた。
椅子の背にかけてあった外套。ギルベルト閣下のものだ。夕方、閣下が執務を終えて席を立った時に、椅子にかけていったのを覚えている。
設計図に没頭しているうちに寒くなって、無意識にそれを引き寄せて肩にかけたらしい。革と、かすかな金属の匂い。いつの間にか、この匂いが安心の匂いになっている。
では今、肩に触れた温もりは何かというと。
毛布だった。
あの上等な毛布──ではない。別の毛布。もう一枚。外套の上から、さらにかけられている。
誰が。
顔を上げた。執務室には誰もいない。暖炉の火が低く燃えている。机の上のランプはまだ灯っていて、設計図の上にペンが転がっている。
椅子の脇に、茶碗が置いてあった。湯気はもう立っていない。冷めている。
蜂蜜入りの──ジンジャーティー。
(……いつ、来たの)
私が寝ている間に。外套を羽織って居眠りしている私を見て、毛布を追加して、茶を淹れて──起こさずに、出ていった。
茶碗の横に、小さな紙片がある。
殴り書きの文字。あの無骨な字。
『設計図は明日でいい。寝ろ。』
二文。短い。いつも通り短い。
(……「寝ろ」って、書き置きで命令するの、この人は)
笑いが、こみ上げた。鼻の奥がつんとする笑いだ。毛布を引き寄せて、外套ごと身体に巻きつける。温かい。
あの人の匂いがする。
あの人は名前を呼んでくれた。
あの夜から──また「ヴァレンヌ」に戻っている。予想通りだ。二人きりの時にだけ、もしかしたらまた呼んでくれるかもしれない。そうでないかもしれない。
でも。
毛布をかけてくれた。茶を淹れてくれた。「寝ろ」と書いてくれた。
言葉の少ないこの人の──これが言葉だ。
紙片を胸ポケットに入れた。設計図は明日にする。閣下の命令だから仕方ない。
外套と毛布にくるまったまま、もう一度目を閉じた。
◇
翌朝。
朝の儀式を終えてカミーユに結界の基礎を教えていると、マルクが走ってきた。
この人が走る時は──もう学習した。ろくな知らせではないか、とても重要な知らせかのどちらかだ。
「ヴァレンヌ殿。お手紙です」
「王都から?」
「はい。二通。一通は──エドモン・ルヴェール殿からです」
エドモン。
婚約破棄の書類を送ってきた、あの人から。
今さら何の手紙だ、と思ったけれど──手紙を拒む理由もない。
「もう一通は」
「宰相府からです。先日の越冬侵攻の件に関連して──領主会議の議題に、結界管理体制の見直しが正式に加わったそうです」
領主会議。
冬至に王都で開かれる、年二回の国政会議。各地の領主が集まる公式の場。
「結界管理体制の見直し、ということは──」
「オーギュスト次長の『改革の成果』とやらも、議題に含まれるのでしょうね」
マルクの声に、薄い刃が混じっていた。
結界管理の見直し。公式の場で、誰が何をしたのかが──審議される。
エドモンの手紙を手に持ったまま、もう一方の手で宰相府の書状を受け取った。
二つの封筒。一つは過去。一つは、これから。
結界の光が、朝日の中で透き通るように揺れていた。




