第3話 背中合わせの夜
甲高い音で、目が覚めた。
結界の警報──術式陣に異常な負荷がかかった時だけ鳴る、あの硬い振動音。枕元の通信石が白く明滅している。
寝台から飛び起きた。まだ暗い。窓の外は真っ黒で、星も見えない。厚い雲が空を覆っている。
(越冬侵攻──)
マルクに聞いていた。冬至の前後に大型の魔獣が南下してくる。毎年のことだと。結界があれば退けられるが、結界が弱ければ突破される、と。
防寒着を掴んで官舎を出ると、廊下でマルクとすれ違った。
「来ました。氷狼の群れ。──例年の、三倍は」
三倍。
マルクの顔が、暗い廊下の灯りの下で強張っている。この穏やかな副官が、こんな顔をするのは初めて見た。
走った。
雪を踏み、凍った石畳を踏み、息が白い塊になって頭上を流れていく。
術式陣が見えた。
結界の光が──脈打っている。安定したいつものリズムではない。速い。圧を受けて、押し返そうとしている。生き物が全身で踏ん張っているような、必死の明滅。
その向こうに。
結界の光を透かして、影が見えた。
たくさんの影。地を這うような低い姿勢。銀色の体毛が結界の燐光を反射して、ぎらぎらと光っている。
氷狼。
一匹が人の背丈ほどもある。それが──数えきれない。十、二十、まだ後ろに続いている。雪原の闇の中から、次から次へと。
(……セシル様の教本に書いてあった)
越冬期の結界強化手順。魔力の配分を外縁部に集中させ、防壁の密度を上げる。ただし内部への供給が薄くなるから、長時間は持たない。
持たせなければならない。
手袋を外した。素手で術式陣に触れる。冷たい。真冬の夜明け前の石は、指の感覚を数秒で奪っていく。
構わない。
両手を押しつけて、魔力を注いだ。セシル様の教本の通りに──外縁部へ、外縁部へ。結界が応えた。脈動が少し安定する。けれどまだ足りない。氷狼たちが結界に体当たりするたびに、衝撃が掌を通して腕の奥まで響いてくる。
歯を食いしばった。
(持って。お願い、持って──)
背後で、蹄の音が響いた。
振り返る余裕はない。けれど音でわかった。騎士団だ。馬と、甲冑と、剣の鞘が鳴る音。
そして──その先頭に、あの人がいることも。
「防壁が保っている間に前衛を展開しろ。結界の外に出る。──ヴァレンヌは内から魔力を絶やすな」
ギルベルト閣下の声が、夜の空気を裂いた。
短い指示。無駄が一語もない。騎士たちが散開する足音が聞こえて、それから──結界の光の向こうに、大きな影が一つ、飛び出した。
閣下が結界の外に出た。
剣を抜いている。あの灰色の瞳に、結界の光が映り込んで──氷のように澄んだ光を放っている。
外に出るということは、結界の護りの外に立つということだ。
(閣下が、外で戦う。私は、内で結界を保つ)
背中合わせだ。
壁を一枚隔てて、同じ敵に向かっている。私は魔力で壁を維持する。閣下は剣で壁の外の脅威を断つ。どちらが欠けても成り立たない。
氷狼が結界に突進した。衝撃が走る。掌が痺れる。魔力の消耗が、じわじわと身体の芯に食い込んでくる。
(──あの夕暮れの廊下を思い出している場合じゃない)
でも思い出す。
あの日、冷たい石の床に手をついて、誰にも見られずに結界を守っていた。毎朝四時。毎夕六時。一人で。
今は一人じゃない。
結界の向こうで、閣下の剣が氷狼を弾いた。銀色の体毛が散って、雪に混じる。騎士たちの声が飛び交っている。
魔力を注ぐ。注ぎ続ける。セシル様の教本の数値を頭の中で反芻しながら、外縁部への配分を維持する。指先の感覚はとうに消えている。腕も重い。視界の端がちらつく。
(まだ。まだ大丈夫。まだ──)
氷狼の遠吠えが、夜空に響いた。
一匹が結界に全体重を叩きつけた。衝撃が──今までで一番大きい。術式陣の光が一瞬揺らいで、掌に亀裂のような痛みが走った。
膝が、折れかけた。
(駄目──ここで途切れたら──)
歯を食いしばる。指を石に押しつける。魔力を、絞り出す。
結界が応えた。
揺らいだ光が──持ち直した。弱々しく、けれど確かに。押し返すように輝きが戻って、結界の外縁部が再び密度を取り戻す。
氷狼が弾かれた。
一匹、二匹、三匹──結界に阻まれて後退していく。その隙に騎士たちの剣が入り、群れが散り始めた。
遠吠えが、遠ざかっていく。
長かった。
実際には──どのくらいだったのだろう。一刻か。もっと短かったかもしれない。体感では、夜が三回来たくらい長かった。
最後の氷狼が闇の中に消えたのを、結界越しに見届けた。
魔力が空っぽだった。王都にいた時の魔力切れとは比べものにならない。身体の底を雑巾みたいに絞られた感覚。視界がぐらりと傾いて、術式陣に手をついたまま膝が雪に落ちた。
冷たい。雪が膝を濡らしている。
息を吐くと、白い靄がふわりと広がった。
──退けた。
私の結界が、初めての実戦で、大型魔獣の群れを退けた。
◇
騎士たちの歓声が、遠くから聞こえている。
立ち上がろうとして──立ち上がれなかった。膝に力が入らない。
足音が近づいてきた。結界の外側から。雪を踏む、大きな足音。
ギルベルト閣下が、結界の境界を越えて戻ってきた。
泥と雪と、かすかに血の匂い。返り血だ。閣下自身の怪我ではない──と思いたい。甲冑の表面に氷狼の爪痕が走っているのが見えたけれど、動きに支障はなさそうだった。
閣下が、私の前にしゃがみ込んだ。
灰色の瞳が、至近距離にある。息が白い。頬に泥が跳ねている。髪が乱れて額に張りついている。
戦場から帰ってきたばかりの、そのままの顔。
その手が──私の頬に触れた。
泥だらけだった。雪と泥と、剣を握りしめていた汗と。冷たくて、汚れていて。
けれど、とても。
とても、優しかった。
「……無事か」
低い声。掠れている。閣下も息が上がっている。あれだけ剣を振るったのだから当然だ。
答えようとして、口を開いた。「はい」と言うつもりだった。
「──リゼット」
止まった。
世界が、止まった。
リゼット。
「ヴァレンヌ」ではない。「技官長」でもない。
名前だ。
この人が、私の名前を呼んだ。
(──ああ)
ずっと、「閣下」と呼ぶたびに眉が動いていた理由がわかった。あれは不快だったんじゃない。名前で呼んでほしかったんだ。呼んでほしくて、でも自分からは言えなくて。
この人はいつもそうだ。言葉が足りない。行動ばかりが先に出る。風除けも、茶葉も、手袋も。
けれど今──名前を呼んだ。
戦闘の直後で、泥だらけで、息が上がっていて、たぶん考える余裕なんかなくて。だから出た。本当に確かめたかったことだけが、剥き出しのまま。
頬に触れている手が、微かに震えている。
冷えているからか。それとも。
「……はい」
声が掠れた。魔力切れのせいで、ろくに声が出ない。
「無事です」
閣下の指が、頬から離れた。名残惜しそうに──いや、これは私の願望かもしれない。泥の跡が頬に残っている感触だけが、冷たい朝の空気の中でじんわりと温かい。
ギルベルト閣下が立ち上がった。私に手を差し出す。
その手を取って、立った。膝がまだ笑っているけれど、倒れるほどではない。
東の空が、白み始めていた。雲の切れ間から薄い光が差して、雪原が青白く浮かび上がる。結界の燐光が、朝の光に溶けていく。
退けた。守った。この場所を。
──この人と。
◇
館に戻ると、マルクが被害報告をまとめていた。
「騎士三名が軽傷。いずれも擦過傷で、命に別状はありません。結界の損傷も軽微──ヴァレンヌ殿の維持が効いています」
「……よかった」
椅子に座り込むと、どっと疲労が押し寄せてきた。マルクが温かい茶を差し出してくれる。蜂蜜入りのジンジャーティー。いつもの味だ。
ギルベルト閣下は甲冑を脱いで、執務机の前に立っている。さっきまで頬に触れていた手で、報告書をめくっている。何事もなかったような顔をしているけれど──耳の先だけが、赤い。
(……戦闘の興奮が残っている、のだろうか)
そういうことにしておく。
「閣下。一つ、気になることがあります」
「なんだ」
「今回の越冬侵攻──例年の三倍とマルクが言っていました。氷狼がこれほど大規模に南下するのは、通常ありえますか」
ギルベルト閣下の手が止まった。
マルクが答えた。
「ありえません。辺境で二十年勤務していますが、この規模は初めてです」
「北方から南下する魔獣の量が増えている。……原因に心当たりがある」
閣下が低い声で言った。
私も──ある。
「王都の結界です」
声に出すと、自分の推測が輪郭を持った。
「王都の結界が崩壊したまま再構築中です。あの結界は北方の魔獣の南下を広域で抑制する効果がありました。それが機能していないから──北方全域で魔獣の活動が活発化している」
マルクが息を呑んだ。
「つまり、辺境の越冬侵攻が激化したのは──」
「王都結界の崩壊の、余波です」
ドラクロワ閣下が私を追放した。引き継ぎ書類を受け取らなかった。結界が崩壊した。その影響が──巡り巡って、辺境にまで届いている。
あの廊下で「お前の代わりなどいくらでもいる」と言った一言の波紋が、二ヶ月経った今も、国中に広がり続けている。
(……代わりがいなかったのは、結界だけじゃなかった)
結界が守っていたものの大きさを、あの人たちは知らない。知ろうとしなかった。知った時にはもう遅かった。
ギルベルト閣下が、窓の外を見た。
夜明けの光が雪原に広がっている。結界の燐光はもう朝の光に溶けてほとんど見えない。けれど──ある。私の魔力が紡いだ壁が、目に見えなくても、この地を守っている。
「次の越冬侵攻までに、結界の外縁部を強化します。セシル様の教本に、術式陣の連結理論がありました。──もう一基、補助の術式陣を増設できれば」
「必要なものを出せ」
短い。けれど迷いがない。
「石材と、術式用の銀。あと──」
「全部出す」
全部、と来た。
(……予算の確認とかしなくていいんですか)
ツッコミたい気持ちを飲み込んで、頷いた。
マルクが控えめに咳払いした。
「閣下。一応、予算の申請書類は必要ですので」
「書け」
「はい。……ヴァレンヌ殿、後ほどお見積もりをお願いします」
やっぱりマルクがいないとこの領地は回らない。
◇
夕方。
官舎に戻って寝台に腰を下ろした。
頬に触れた泥は、とっくに拭い取った。でも──触れられた感触だけが、まだ残っている。
冷たくて、汚れていて、震えていた手。
リゼット、と呼んだ掠れた声。
(あの人は──普段は、絶対に呼ばない)
わかっている。あれは戦闘の直後で、余裕がなくて、本音が剥き出しになっていただけだ。明日になれば、また「ヴァレンヌ」に戻る。
でも。
一度聞いてしまった。
あの低い声で自分の名前を呼ばれた感触を、もう知ってしまった。
忘れられるわけがない。
窓の外で、結界の光が静かに揺れている。今朝あの光を守った。あの人と一緒に。
頬の泥の跡を、指先でそっとなぞった。もう何も残っていない。残っていないのに、触れた場所だけが──まだ温かい気がした。




