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【連載版】「お前の代わりはいくらでもいる」と追放された聖女補佐官が、実は国の結界を一人で維持していたと判明するまであと七日  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第3話 背中合わせの夜


 甲高い音で、目が覚めた。


 結界の警報──術式陣に異常な負荷がかかった時だけ鳴る、あの硬い振動音。枕元の通信石が白く明滅している。


 寝台から飛び起きた。まだ暗い。窓の外は真っ黒で、星も見えない。厚い雲が空を覆っている。


 (越冬侵攻──)


 マルクに聞いていた。冬至の前後に大型の魔獣が南下してくる。毎年のことだと。結界があれば退けられるが、結界が弱ければ突破される、と。


 防寒着を掴んで官舎を出ると、廊下でマルクとすれ違った。


「来ました。氷狼の群れ。──例年の、三倍は」


 三倍。


 マルクの顔が、暗い廊下の灯りの下で強張っている。この穏やかな副官が、こんな顔をするのは初めて見た。


 走った。


 雪を踏み、凍った石畳を踏み、息が白い塊になって頭上を流れていく。


 術式陣が見えた。


 結界の光が──脈打っている。安定したいつものリズムではない。速い。圧を受けて、押し返そうとしている。生き物が全身で踏ん張っているような、必死の明滅。


 その向こうに。


 結界の光を透かして、影が見えた。


 たくさんの影。地を這うような低い姿勢。銀色の体毛が結界の燐光を反射して、ぎらぎらと光っている。


 氷狼。


 一匹が人の背丈ほどもある。それが──数えきれない。十、二十、まだ後ろに続いている。雪原の闇の中から、次から次へと。


 (……セシル様の教本に書いてあった)


 越冬期の結界強化手順。魔力の配分を外縁部に集中させ、防壁の密度を上げる。ただし内部への供給が薄くなるから、長時間は持たない。


 持たせなければならない。


 手袋を外した。素手で術式陣に触れる。冷たい。真冬の夜明け前の石は、指の感覚を数秒で奪っていく。


 構わない。


 両手を押しつけて、魔力を注いだ。セシル様の教本の通りに──外縁部へ、外縁部へ。結界が応えた。脈動が少し安定する。けれどまだ足りない。氷狼たちが結界に体当たりするたびに、衝撃が掌を通して腕の奥まで響いてくる。


 歯を食いしばった。


 (持って。お願い、持って──)


 背後で、蹄の音が響いた。


 振り返る余裕はない。けれど音でわかった。騎士団だ。馬と、甲冑と、剣の鞘が鳴る音。


 そして──その先頭に、あの人がいることも。


「防壁が保っている間に前衛を展開しろ。結界の外に出る。──ヴァレンヌは内から魔力を絶やすな」


 ギルベルト閣下の声が、夜の空気を裂いた。


 短い指示。無駄が一語もない。騎士たちが散開する足音が聞こえて、それから──結界の光の向こうに、大きな影が一つ、飛び出した。


 閣下が結界の外に出た。


 剣を抜いている。あの灰色の瞳に、結界の光が映り込んで──氷のように澄んだ光を放っている。


 外に出るということは、結界の護りの外に立つということだ。


 (閣下が、外で戦う。私は、内で結界を保つ)


 背中合わせだ。


 壁を一枚隔てて、同じ敵に向かっている。私は魔力で壁を維持する。閣下は剣で壁の外の脅威を断つ。どちらが欠けても成り立たない。


 氷狼が結界に突進した。衝撃が走る。掌が痺れる。魔力の消耗が、じわじわと身体の芯に食い込んでくる。


 (──あの夕暮れの廊下を思い出している場合じゃない)


 でも思い出す。


 あの日、冷たい石の床に手をついて、誰にも見られずに結界を守っていた。毎朝四時。毎夕六時。一人で。


 今は一人じゃない。


 結界の向こうで、閣下の剣が氷狼を弾いた。銀色の体毛が散って、雪に混じる。騎士たちの声が飛び交っている。


 魔力を注ぐ。注ぎ続ける。セシル様の教本の数値を頭の中で反芻しながら、外縁部への配分を維持する。指先の感覚はとうに消えている。腕も重い。視界の端がちらつく。


 (まだ。まだ大丈夫。まだ──)


 氷狼の遠吠えが、夜空に響いた。


 一匹が結界に全体重を叩きつけた。衝撃が──今までで一番大きい。術式陣の光が一瞬揺らいで、掌に亀裂のような痛みが走った。


 膝が、折れかけた。


 (駄目──ここで途切れたら──)


 歯を食いしばる。指を石に押しつける。魔力を、絞り出す。


 結界が応えた。


 揺らいだ光が──持ち直した。弱々しく、けれど確かに。押し返すように輝きが戻って、結界の外縁部が再び密度を取り戻す。


 氷狼が弾かれた。


 一匹、二匹、三匹──結界に阻まれて後退していく。その隙に騎士たちの剣が入り、群れが散り始めた。


 遠吠えが、遠ざかっていく。


 長かった。


 実際には──どのくらいだったのだろう。一刻か。もっと短かったかもしれない。体感では、夜が三回来たくらい長かった。


 最後の氷狼が闇の中に消えたのを、結界越しに見届けた。


 魔力が空っぽだった。王都にいた時の魔力切れとは比べものにならない。身体の底を雑巾みたいに絞られた感覚。視界がぐらりと傾いて、術式陣に手をついたまま膝が雪に落ちた。


 冷たい。雪が膝を濡らしている。


 息を吐くと、白い靄がふわりと広がった。


 ──退けた。


 私の結界が、初めての実戦で、大型魔獣の群れを退けた。



 騎士たちの歓声が、遠くから聞こえている。


 立ち上がろうとして──立ち上がれなかった。膝に力が入らない。


 足音が近づいてきた。結界の外側から。雪を踏む、大きな足音。


 ギルベルト閣下が、結界の境界を越えて戻ってきた。


 泥と雪と、かすかに血の匂い。返り血だ。閣下自身の怪我ではない──と思いたい。甲冑の表面に氷狼の爪痕が走っているのが見えたけれど、動きに支障はなさそうだった。


 閣下が、私の前にしゃがみ込んだ。


 灰色の瞳が、至近距離にある。息が白い。頬に泥が跳ねている。髪が乱れて額に張りついている。


 戦場から帰ってきたばかりの、そのままの顔。


 その手が──私の頬に触れた。


 泥だらけだった。雪と泥と、剣を握りしめていた汗と。冷たくて、汚れていて。


 けれど、とても。


 とても、優しかった。


「……無事か」


 低い声。掠れている。閣下も息が上がっている。あれだけ剣を振るったのだから当然だ。


 答えようとして、口を開いた。「はい」と言うつもりだった。


「──リゼット」


 止まった。


 世界が、止まった。


 リゼット。


 「ヴァレンヌ」ではない。「技官長」でもない。


 名前だ。


 この人が、私の名前を呼んだ。


 (──ああ)


 ずっと、「閣下」と呼ぶたびに眉が動いていた理由がわかった。あれは不快だったんじゃない。名前で呼んでほしかったんだ。呼んでほしくて、でも自分からは言えなくて。


 この人はいつもそうだ。言葉が足りない。行動ばかりが先に出る。風除けも、茶葉も、手袋も。


 けれど今──名前を呼んだ。


 戦闘の直後で、泥だらけで、息が上がっていて、たぶん考える余裕なんかなくて。だから出た。本当に確かめたかったことだけが、剥き出しのまま。


 頬に触れている手が、微かに震えている。


 冷えているからか。それとも。


「……はい」


 声が掠れた。魔力切れのせいで、ろくに声が出ない。


「無事です」


 閣下の指が、頬から離れた。名残惜しそうに──いや、これは私の願望かもしれない。泥の跡が頬に残っている感触だけが、冷たい朝の空気の中でじんわりと温かい。


 ギルベルト閣下が立ち上がった。私に手を差し出す。


 その手を取って、立った。膝がまだ笑っているけれど、倒れるほどではない。


 東の空が、白み始めていた。雲の切れ間から薄い光が差して、雪原が青白く浮かび上がる。結界の燐光が、朝の光に溶けていく。


 退けた。守った。この場所を。


 ──この人と。



 館に戻ると、マルクが被害報告をまとめていた。


「騎士三名が軽傷。いずれも擦過傷で、命に別状はありません。結界の損傷も軽微──ヴァレンヌ殿の維持が効いています」


「……よかった」


 椅子に座り込むと、どっと疲労が押し寄せてきた。マルクが温かい茶を差し出してくれる。蜂蜜入りのジンジャーティー。いつもの味だ。


 ギルベルト閣下は甲冑を脱いで、執務机の前に立っている。さっきまで頬に触れていた手で、報告書をめくっている。何事もなかったような顔をしているけれど──耳の先だけが、赤い。


 (……戦闘の興奮が残っている、のだろうか)


 そういうことにしておく。


「閣下。一つ、気になることがあります」


「なんだ」


「今回の越冬侵攻──例年の三倍とマルクが言っていました。氷狼がこれほど大規模に南下するのは、通常ありえますか」


 ギルベルト閣下の手が止まった。


 マルクが答えた。


「ありえません。辺境で二十年勤務していますが、この規模は初めてです」


「北方から南下する魔獣の量が増えている。……原因に心当たりがある」


 閣下が低い声で言った。


 私も──ある。


「王都の結界です」


 声に出すと、自分の推測が輪郭を持った。


「王都の結界が崩壊したまま再構築中です。あの結界は北方の魔獣の南下を広域で抑制する効果がありました。それが機能していないから──北方全域で魔獣の活動が活発化している」


 マルクが息を呑んだ。


「つまり、辺境の越冬侵攻が激化したのは──」


「王都結界の崩壊の、余波です」


 ドラクロワ閣下が私を追放した。引き継ぎ書類を受け取らなかった。結界が崩壊した。その影響が──巡り巡って、辺境にまで届いている。


 あの廊下で「お前の代わりなどいくらでもいる」と言った一言の波紋が、二ヶ月経った今も、国中に広がり続けている。


 (……代わりがいなかったのは、結界だけじゃなかった)


 結界が守っていたものの大きさを、あの人たちは知らない。知ろうとしなかった。知った時にはもう遅かった。


 ギルベルト閣下が、窓の外を見た。


 夜明けの光が雪原に広がっている。結界の燐光はもう朝の光に溶けてほとんど見えない。けれど──ある。私の魔力が紡いだ壁が、目に見えなくても、この地を守っている。


「次の越冬侵攻までに、結界の外縁部を強化します。セシル様の教本に、術式陣の連結理論がありました。──もう一基、補助の術式陣を増設できれば」


「必要なものを出せ」


 短い。けれど迷いがない。


「石材と、術式用の銀。あと──」


「全部出す」


 全部、と来た。


 (……予算の確認とかしなくていいんですか)


 ツッコミたい気持ちを飲み込んで、頷いた。


 マルクが控えめに咳払いした。


「閣下。一応、予算の申請書類は必要ですので」


「書け」


「はい。……ヴァレンヌ殿、後ほどお見積もりをお願いします」


 やっぱりマルクがいないとこの領地は回らない。



 夕方。


 官舎に戻って寝台に腰を下ろした。


 頬に触れた泥は、とっくに拭い取った。でも──触れられた感触だけが、まだ残っている。


 冷たくて、汚れていて、震えていた手。


 リゼット、と呼んだ掠れた声。


 (あの人は──普段は、絶対に呼ばない)


 わかっている。あれは戦闘の直後で、余裕がなくて、本音が剥き出しになっていただけだ。明日になれば、また「ヴァレンヌ」に戻る。


 でも。


 一度聞いてしまった。


 あの低い声で自分の名前を呼ばれた感触を、もう知ってしまった。


 忘れられるわけがない。


 窓の外で、結界の光が静かに揺れている。今朝あの光を守った。あの人と一緒に。


 頬の泥の跡を、指先でそっとなぞった。もう何も残っていない。残っていないのに、触れた場所だけが──まだ温かい気がした。

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