表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】「お前の代わりはいくらでもいる」と追放された聖女補佐官が、実は国の結界を一人で維持していたと判明するまであと七日  作者: 秋月 もみじ
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/20

第2話 書庫の埃と、風上の人


 埃の匂いがした。


 古い紙と、乾いた木と、長いあいだ人の手が触れなかった場所だけが持つ、ひんやりした空気の匂い。


 辺境伯家の書庫は、館の東棟の奥にある。窓が小さくて薄暗い。棚は天井まで届いていて、梯子を使わないと上段には手が届かない。蜘蛛の巣こそないが、背表紙の文字が埃で霞んでいるものも多い。


 結界の維持効率を上げる方法を探していた。


 辺境の結界は安定している。けれど冬が深まるにつれて魔力の消耗が増えてきた。王都にいた頃は、消耗が増える季節には術式の配分を微調整していた。その手順はセシル様に教わったものだが──細かい数値は、記憶だけでは心もとない。


 何か参考になる文献があればと思って、朝の儀式を終えてからここに来た。


 棚を一つずつ見ていく。税務記録。領地の地図。歴代辺境伯の日誌。軍事記録。魔物の分布図。


 ──術式に関する文献が、ほとんどない。


 (先代の術式師の方は、書き物を残さなかったのかな)


 赴任初日にマルクが言っていた。先代の術式師は「空の下のほうが結界が喜ぶ」と仰っていた、と。セシル様と同じようなことを言う方だったらしい。


 棚の最下段、壁に近い隅に、古い木箱があった。


 蓋に薄く文字が刻まれている。埃を指で拭うと──読めた。


 『C. ルミエール 寄贈』


 ルミエール。


 セシル・ルミエール。


 心臓が、一拍跳ねた。


 蓋を開けた。中には紙束が入っている。綴じ紐でまとめられた、手書きの──。


 表紙に、見覚えのある筆跡があった。


 細くて、少し右に流れる癖のある字。薄くなりかけたインクで、丁寧に書かれている。


 『結界術の基礎と継承──後進のための覚書 セシル・ルミエール』


 教本だ。


 セシル様の、手書きの教本。


 ページをめくる手が、かすかに震えた。


 最初の数ページは結界術式の基礎理論だった。魔力署名の原理。術式陣の構造。維持儀式の手順。──私がセシル様から直接教わったことが、ここに全部書いてある。


 けれど、その先があった。


 私が教わらなかった──教わる前にセシル様が亡くなってしまった部分が。


 季節ごとの魔力配分の最適値。越冬期の結界強化手順。複数の術式陣を連結する理論。


 それから──序文。


 『結界術は、神殿の技術ではない。


 私が個人で研究し、師から受け継ぎ、生涯をかけて磨いたものである。


 神殿はこの技術の管理を任されているに過ぎない。所有しているのではない。


 この区別を、どうか覚えておいてほしい。』


 ──セシル様。


 指先が、文字の上で止まった。


 神殿の技術ではない。セシル様が個人で研究し、継承した技術。


 あの夕暮れの廊下で、ドラクロワ閣下は言った。「聖女様の加護が結界を守っておられる」と。結界術は神殿のものだと。


 違う。


 最初から、違った。


 結界術はセシル様のものだった。セシル様がその師から受け継ぎ、私に手渡してくれたものだった。神殿は場所を提供していただけで──技術そのものは、一度もあの人たちのものだったことはない。


 (あの書状──オーギュスト・ヴェルニエの「技術指導要請」。あれは、神殿の技術だから神殿に戻せ、という論理で来ている)


 その前提が、崩れる。


 この教本が証明している。結界術の帰属は神殿ではない。セシル様という個人の、研究の成果だ。そしてセシル様は──この教本を「後進のため」に残した。


 それにしても、なぜ辺境に。


 木箱の蓋をもう一度見る。『C. ルミエール 寄贈』。寄贈。セシル様が自分の意志で、ここに送った。


 教本の最後のページに、短い手紙が挟まれていた。宛名は──『アッシュフォード辺境伯領 術式技官殿』。


 『北方の結界を守る方へ。


 私の身体はもう長くありません。王都の結界は弟子に託しました。


 けれど結界術は、一人の弟子だけに閉じ込めてはいけない技術です。


 この覚書が、いつか誰かの役に立つことを祈ります。


 結界術を正しく伝えることが、私の最後の願いです。


      セシル・ルミエール』


 弟子。


 (……私のことだ)


 「王都の結界は弟子に託しました」──あの時、セシル様は私に結界を託してくださった。それと同時に、万が一に備えて、別の場所にも技術を残した。


 一人に閉じ込めてはいけない。


 その通りだった。私一人に閉じ込めた結果、追放された瞬間に王都の結界は守り手を失った。


 セシル様は、それを予見していたのだろうか。


 教本を胸に抱えたまま、しばらく動けなかった。


 埃っぽい書庫の空気が、鼻の奥をつんと刺す。窓から差し込む細い光の中で、紙の繊維がきらきら舞っている。


 (──ありがとうございます、セシル様)


 声には出さなかった。出したら泣きそうだったから。



 教本を抱えて書庫を出ると、廊下にマルクがいた。


「ヴァレンヌ殿。朝の儀式の報告書、閣下がお待ちです──と言っても、もう書庫にいらっしゃると聞いて私が預かりに来たんですが」


「すみません、つい長居してしまって」


「いえ。それより──何か見つかりましたか?」


 教本を見せると、マルクの目が丸くなった。


「セシル・ルミエール……先代の王都結界術師の? なぜこれが閣下の書庫に」


「先代の辺境の術式師の方に、セシル様が寄贈されたようです。直接の師弟関係があったのかもしれません」


「先代の術式師は確かに、王都出身の方でした。……なるほど。繋がりますね」


 マルクが顎に手を当てて考え込んでいる。


「ヴァレンヌ殿。これは──神殿の技術帰属の主張を覆す根拠になりませんか」


「はい。セシル様ご自身が『神殿の技術ではない』と明記しています」


 マルクの柔和な顔に、珍しく鋭い光が差した。


「あの要請書の前提が崩れる、ということですね」


「ええ。結界術が神殿の独占技術でないなら、『神殿の技術を返せ』という論理は成り立ちません」


 マルクが頷いた。それから、ふと思い出したように──さりげない口調で言った。


「それはそうと、ヴァレンヌ殿。朝の儀式のことなんですが」


「はい?」


「閣下は毎朝、儀式の前からあそこに来られていますよ」


 足が止まった。


「……儀式の前から?」


「ヴァレンヌ殿が術式陣に着く前に、もういらっしゃるんです。北風が強い日は特に──術式陣の風上側に立っておられます」


 風上。


 (……風上に、立つ?)


 朝の儀式の時、術式陣は北からの風をまともに受ける。冬の辺境の北風は身を切るほど冷たい。素手で術式に触れる私にとって、あの風が一番堪える。


 でも──最近、前ほど風が辛くなかった。


 術式陣に集中している間、風が弱まっている気がしていた。結界が安定してきたからかと思っていたけれど。


「ヴァレンヌ殿が気づく前から、ずっとですよ」


 マルクが穏やかに──けれど確実に、止めを刺すように言った。


 結界が風を防いでいたんじゃない。


 あの人が、立っていたのだ。私の風上に。私が儀式に集中できるように。寒風を背中で受けながら。毎朝、私より先に来て。私が気づかないように。


 (毎朝──って、いつから)


 朝の儀式にギルベルト閣下が来るようになったのは、いつからだったか。赴任してすぐの頃は来ていなかった。結界が完成した頃──いや、もっと前かもしれない。


 わからない。気づかなかった。


 この人はいつもそうだ。名前のない差し入れ。即日の報告書の返答。五回の見舞い。手袋。茶葉。全部、私が気づかないところで、黙って。


「マルク」


「はい」


「閣下は今朝も──」


「ええ。ヴァレンヌ殿が来る二十分前には」


 二十分。


 冬の辺境の早朝に、二十分。北風の中で。


 (……あの人は、凍えることを何だと思っているの)


 怒りに近い感情と、胸を締めつける温かさが同時に込み上げてきて、どちらの顔をすればいいのかわからなくなった。


「……あの、マルク」


「はい」


「明日から、私がもう少し早く行きます」


 マルクが、にっこり笑った。何もかも見通しているような、あの柔和な笑みで。


「お伝えしておきましょうか?」


「いえ──言わないでください」


 言ったら、あの人はもっと早く来る。絶対に来る。そういう人だ。



 翌朝。


 いつもより三十分早く官舎を出て、術式陣に向かった。


 雪を踏む音だけが、白い朝に響く。空はまだ薄暗い。東の空の端だけが、うっすりと青み始めている。


 術式陣が見えてきた。


 ──人影が、あった。


 大きな背中。外套の襟を立てて、腕を組んで、術式陣の北側に立っている。風が外套の裾を煽っている。


 三十分早く来たのに、もういる。


 (……なんで)


 呆れたいのに、目の奥が熱くなる。


 気づかれないように、そっと近づいた。ギルベルト閣下の背中に遮られて、風がほとんど届かない。


 温かい。


 あの人が壁になっているだけで、こんなにも風が違う。毎朝、これをしてくれていたのか。


 手袋を外して、術式陣に手を置いた。


 結界の脈動が、掌に返ってくる。安定した、穏やかなリズム。セシル様の教本に書かれていた越冬期の数値を思い出しながら、魔力の配分を微調整する。


 セシル様の最後の願い。結界術を正しく伝えること。


 一人に閉じ込めてはいけない。


 (──伝えなければ、と思う。セシル様の技術を。私だけで抱えていてはいけない)


 それは、いつかどこかで向き合わなければならない課題だ。


 でも今は──今朝は、まず。


 儀式を終えて立ち上がると、ギルベルト閣下がこちらを見ていた。いつの間にか振り向いている。灰色の瞳が、薄明の中でほんのりと青く見える。


「……早いな」


「閣下こそ」


 閣下の眉が、また──ほんの一瞬だけ、ぴくりと動いた。


 昨日と同じ動き。私が「閣下」と呼ぶたびに走る、あの微かな変化。


 (……もしかして、「閣下」と呼ばれるのが──嫌、なのだろうか)


 でも他に何と呼べばいいのか、わからない。まだ。


 三週間前に握り返した手のことを思い出すと耳が熱くなるのに、名前を呼ぶことのほうがずっと怖い。おかしな話だ。


「閣下。一つ、ご報告があります」


「なんだ」


「書庫で、セシル様の教本を見つけました」


 ギルベルト閣下の目が、わずかに見開かれた。


 教本を差し出すと、閣下は受け取って表紙を見つめた。それから──ゆっくりと、頷いた。


「先代が大事にしていたものだ。……ようやく、読める人間が来た」


 短い。けれど、その一言の中に──先代の術式師への敬意と、私への信頼が、両方入っている気がした。


 教本を受け取り直して、胸に抱えた。


 セシル様の最後の願い。


 結界術を、正しく伝えること。


 いつか──その願いを果たす日が来る。来なければならない。


 でも今は、この場所で。この結界を。この人の隣で。


 守ることから始める。


 東の空が白み始めていた。北風が、あの人の背中に当たって、私の頬には届かない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ