第2話 書庫の埃と、風上の人
埃の匂いがした。
古い紙と、乾いた木と、長いあいだ人の手が触れなかった場所だけが持つ、ひんやりした空気の匂い。
辺境伯家の書庫は、館の東棟の奥にある。窓が小さくて薄暗い。棚は天井まで届いていて、梯子を使わないと上段には手が届かない。蜘蛛の巣こそないが、背表紙の文字が埃で霞んでいるものも多い。
結界の維持効率を上げる方法を探していた。
辺境の結界は安定している。けれど冬が深まるにつれて魔力の消耗が増えてきた。王都にいた頃は、消耗が増える季節には術式の配分を微調整していた。その手順はセシル様に教わったものだが──細かい数値は、記憶だけでは心もとない。
何か参考になる文献があればと思って、朝の儀式を終えてからここに来た。
棚を一つずつ見ていく。税務記録。領地の地図。歴代辺境伯の日誌。軍事記録。魔物の分布図。
──術式に関する文献が、ほとんどない。
(先代の術式師の方は、書き物を残さなかったのかな)
赴任初日にマルクが言っていた。先代の術式師は「空の下のほうが結界が喜ぶ」と仰っていた、と。セシル様と同じようなことを言う方だったらしい。
棚の最下段、壁に近い隅に、古い木箱があった。
蓋に薄く文字が刻まれている。埃を指で拭うと──読めた。
『C. ルミエール 寄贈』
ルミエール。
セシル・ルミエール。
心臓が、一拍跳ねた。
蓋を開けた。中には紙束が入っている。綴じ紐でまとめられた、手書きの──。
表紙に、見覚えのある筆跡があった。
細くて、少し右に流れる癖のある字。薄くなりかけたインクで、丁寧に書かれている。
『結界術の基礎と継承──後進のための覚書 セシル・ルミエール』
教本だ。
セシル様の、手書きの教本。
ページをめくる手が、かすかに震えた。
最初の数ページは結界術式の基礎理論だった。魔力署名の原理。術式陣の構造。維持儀式の手順。──私がセシル様から直接教わったことが、ここに全部書いてある。
けれど、その先があった。
私が教わらなかった──教わる前にセシル様が亡くなってしまった部分が。
季節ごとの魔力配分の最適値。越冬期の結界強化手順。複数の術式陣を連結する理論。
それから──序文。
『結界術は、神殿の技術ではない。
私が個人で研究し、師から受け継ぎ、生涯をかけて磨いたものである。
神殿はこの技術の管理を任されているに過ぎない。所有しているのではない。
この区別を、どうか覚えておいてほしい。』
──セシル様。
指先が、文字の上で止まった。
神殿の技術ではない。セシル様が個人で研究し、継承した技術。
あの夕暮れの廊下で、ドラクロワ閣下は言った。「聖女様の加護が結界を守っておられる」と。結界術は神殿のものだと。
違う。
最初から、違った。
結界術はセシル様のものだった。セシル様がその師から受け継ぎ、私に手渡してくれたものだった。神殿は場所を提供していただけで──技術そのものは、一度もあの人たちのものだったことはない。
(あの書状──オーギュスト・ヴェルニエの「技術指導要請」。あれは、神殿の技術だから神殿に戻せ、という論理で来ている)
その前提が、崩れる。
この教本が証明している。結界術の帰属は神殿ではない。セシル様という個人の、研究の成果だ。そしてセシル様は──この教本を「後進のため」に残した。
それにしても、なぜ辺境に。
木箱の蓋をもう一度見る。『C. ルミエール 寄贈』。寄贈。セシル様が自分の意志で、ここに送った。
教本の最後のページに、短い手紙が挟まれていた。宛名は──『アッシュフォード辺境伯領 術式技官殿』。
『北方の結界を守る方へ。
私の身体はもう長くありません。王都の結界は弟子に託しました。
けれど結界術は、一人の弟子だけに閉じ込めてはいけない技術です。
この覚書が、いつか誰かの役に立つことを祈ります。
結界術を正しく伝えることが、私の最後の願いです。
セシル・ルミエール』
弟子。
(……私のことだ)
「王都の結界は弟子に託しました」──あの時、セシル様は私に結界を託してくださった。それと同時に、万が一に備えて、別の場所にも技術を残した。
一人に閉じ込めてはいけない。
その通りだった。私一人に閉じ込めた結果、追放された瞬間に王都の結界は守り手を失った。
セシル様は、それを予見していたのだろうか。
教本を胸に抱えたまま、しばらく動けなかった。
埃っぽい書庫の空気が、鼻の奥をつんと刺す。窓から差し込む細い光の中で、紙の繊維がきらきら舞っている。
(──ありがとうございます、セシル様)
声には出さなかった。出したら泣きそうだったから。
◇
教本を抱えて書庫を出ると、廊下にマルクがいた。
「ヴァレンヌ殿。朝の儀式の報告書、閣下がお待ちです──と言っても、もう書庫にいらっしゃると聞いて私が預かりに来たんですが」
「すみません、つい長居してしまって」
「いえ。それより──何か見つかりましたか?」
教本を見せると、マルクの目が丸くなった。
「セシル・ルミエール……先代の王都結界術師の? なぜこれが閣下の書庫に」
「先代の辺境の術式師の方に、セシル様が寄贈されたようです。直接の師弟関係があったのかもしれません」
「先代の術式師は確かに、王都出身の方でした。……なるほど。繋がりますね」
マルクが顎に手を当てて考え込んでいる。
「ヴァレンヌ殿。これは──神殿の技術帰属の主張を覆す根拠になりませんか」
「はい。セシル様ご自身が『神殿の技術ではない』と明記しています」
マルクの柔和な顔に、珍しく鋭い光が差した。
「あの要請書の前提が崩れる、ということですね」
「ええ。結界術が神殿の独占技術でないなら、『神殿の技術を返せ』という論理は成り立ちません」
マルクが頷いた。それから、ふと思い出したように──さりげない口調で言った。
「それはそうと、ヴァレンヌ殿。朝の儀式のことなんですが」
「はい?」
「閣下は毎朝、儀式の前からあそこに来られていますよ」
足が止まった。
「……儀式の前から?」
「ヴァレンヌ殿が術式陣に着く前に、もういらっしゃるんです。北風が強い日は特に──術式陣の風上側に立っておられます」
風上。
(……風上に、立つ?)
朝の儀式の時、術式陣は北からの風をまともに受ける。冬の辺境の北風は身を切るほど冷たい。素手で術式に触れる私にとって、あの風が一番堪える。
でも──最近、前ほど風が辛くなかった。
術式陣に集中している間、風が弱まっている気がしていた。結界が安定してきたからかと思っていたけれど。
「ヴァレンヌ殿が気づく前から、ずっとですよ」
マルクが穏やかに──けれど確実に、止めを刺すように言った。
結界が風を防いでいたんじゃない。
あの人が、立っていたのだ。私の風上に。私が儀式に集中できるように。寒風を背中で受けながら。毎朝、私より先に来て。私が気づかないように。
(毎朝──って、いつから)
朝の儀式にギルベルト閣下が来るようになったのは、いつからだったか。赴任してすぐの頃は来ていなかった。結界が完成した頃──いや、もっと前かもしれない。
わからない。気づかなかった。
この人はいつもそうだ。名前のない差し入れ。即日の報告書の返答。五回の見舞い。手袋。茶葉。全部、私が気づかないところで、黙って。
「マルク」
「はい」
「閣下は今朝も──」
「ええ。ヴァレンヌ殿が来る二十分前には」
二十分。
冬の辺境の早朝に、二十分。北風の中で。
(……あの人は、凍えることを何だと思っているの)
怒りに近い感情と、胸を締めつける温かさが同時に込み上げてきて、どちらの顔をすればいいのかわからなくなった。
「……あの、マルク」
「はい」
「明日から、私がもう少し早く行きます」
マルクが、にっこり笑った。何もかも見通しているような、あの柔和な笑みで。
「お伝えしておきましょうか?」
「いえ──言わないでください」
言ったら、あの人はもっと早く来る。絶対に来る。そういう人だ。
◇
翌朝。
いつもより三十分早く官舎を出て、術式陣に向かった。
雪を踏む音だけが、白い朝に響く。空はまだ薄暗い。東の空の端だけが、うっすりと青み始めている。
術式陣が見えてきた。
──人影が、あった。
大きな背中。外套の襟を立てて、腕を組んで、術式陣の北側に立っている。風が外套の裾を煽っている。
三十分早く来たのに、もういる。
(……なんで)
呆れたいのに、目の奥が熱くなる。
気づかれないように、そっと近づいた。ギルベルト閣下の背中に遮られて、風がほとんど届かない。
温かい。
あの人が壁になっているだけで、こんなにも風が違う。毎朝、これをしてくれていたのか。
手袋を外して、術式陣に手を置いた。
結界の脈動が、掌に返ってくる。安定した、穏やかなリズム。セシル様の教本に書かれていた越冬期の数値を思い出しながら、魔力の配分を微調整する。
セシル様の最後の願い。結界術を正しく伝えること。
一人に閉じ込めてはいけない。
(──伝えなければ、と思う。セシル様の技術を。私だけで抱えていてはいけない)
それは、いつかどこかで向き合わなければならない課題だ。
でも今は──今朝は、まず。
儀式を終えて立ち上がると、ギルベルト閣下がこちらを見ていた。いつの間にか振り向いている。灰色の瞳が、薄明の中でほんのりと青く見える。
「……早いな」
「閣下こそ」
閣下の眉が、また──ほんの一瞬だけ、ぴくりと動いた。
昨日と同じ動き。私が「閣下」と呼ぶたびに走る、あの微かな変化。
(……もしかして、「閣下」と呼ばれるのが──嫌、なのだろうか)
でも他に何と呼べばいいのか、わからない。まだ。
三週間前に握り返した手のことを思い出すと耳が熱くなるのに、名前を呼ぶことのほうがずっと怖い。おかしな話だ。
「閣下。一つ、ご報告があります」
「なんだ」
「書庫で、セシル様の教本を見つけました」
ギルベルト閣下の目が、わずかに見開かれた。
教本を差し出すと、閣下は受け取って表紙を見つめた。それから──ゆっくりと、頷いた。
「先代が大事にしていたものだ。……ようやく、読める人間が来た」
短い。けれど、その一言の中に──先代の術式師への敬意と、私への信頼が、両方入っている気がした。
教本を受け取り直して、胸に抱えた。
セシル様の最後の願い。
結界術を、正しく伝えること。
いつか──その願いを果たす日が来る。来なければならない。
でも今は、この場所で。この結界を。この人の隣で。
守ることから始める。
東の空が白み始めていた。北風が、あの人の背中に当たって、私の頬には届かない。




